君の名を
草太は蔵を飛び出すと周囲を見渡した。逸る気持ちを抑えながら、美冬の姿を探す。すぐ近くにいる気がするのに、見つけられない。早く会いたくてたまらないのに。たまらず草太は叫んだ。
「美冬さん、近くにいますか!?」
草太の声が周囲に響くと同時に、長い髪を揺らした美冬が木陰からひょっこり顔を出す。様子を伺っていたものの、まさか名前を呼ばれるとは思っていなかったのだろう、不安そうな顔で草太に駆け寄ってくる。
「草太くん? どうしたの?」
「美冬さん、やっぱり近くにいたんですね」
「ええ。なんだか心配で。父に何か言われたの?」
「違います、そうじゃないんです。いろいろ話してもらいましたけど、伝えたいことはそれじゃなくて」
「どういうこと? 話がよくわからないわ。少し落ち着いてちょうだい」
美冬に指摘されて、自分の頭が混乱していることに草太は気付いた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね。落ち着かせますから」
草太はゆっくりと息を吐いた。宗次郎に託された真実は想像以上に重く、悲しいものだった。そのためか、草太も頭の中が整理されておらず、心も乱れていた。
(落ち着け、落ち着け。美冬さんに伝えたいことはひとつだけだ……!)
息を吐き切った後、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。蔵の中と違い、外は花や植物が沢山植えられており、清涼な空気は草太の心を落ち着かせてくれた。
「美冬さん、社長が認めてくれたんです、僕たちのことを。結婚してもいいって、言ってくれたんです!」
美冬の目が人形のように大きく見開かれると、信じられないといった様子で両手を口元へ持っていく。
「ほ、本当? 父が私達に結婚してもいいって言ってくれたの?」
「はい。間違いありません。だって社長のことを『お義父さん』って呼んでいいって言ってくれたんですから!」
「じゃあ、私達結婚してもいいのね。反対を押し切らなくてもいいのね?」
「はい! もう大丈夫ですよ」
美冬は体の緊張が抜けてしまったのか、その場でへたり込んでしまった。
「美冬さん、大丈夫ですか?」
慌てて美冬の体を支えようとすると、美冬の目には大粒の涙が溢れていた。
「良かった、本当に良かった……。草太くんことも父は認めてくれたのね……」
よほど嬉しかったのだろう、美冬は子供のように泣きじゃくり始めた。
「私ね、草太くんのこと大好きだけど、父と母のことも大事で。私がろくろ首体質のために、父や母には苦労をかけたって自覚してるの。だから草太くんも両親も両方大事にしたくて。このまま反対され続けたら、どうしたらいいのかわからなくて怖かった。でも認めてくれたのね……!」
へたり込んだまま嬉し泣きする美冬を、草太はそっと抱きしめ、背中をさすった。草太も不安を抱えていたが、草太と宗次郎の板挟みにあった美冬はまた別の苦労があったのだ。草太にしがみつくように泣き続けた美冬であったが、やがて少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、もう大丈夫。ごめんね、子供みたいに泣いちゃって」
「それだけ嬉しかったってことですよ。実は僕も泣きたいぐらいなんです」
視線を合わせたふたりは、幸せそうに微笑んだ。どちらからともなく手を繋いだふたりは、ゆっくりと散策し始めた。屋敷内の花々が鮮やかに咲き乱れ、草太と美冬の門出を歓迎してくれているように感じた。
「ねぇ、草太くん」
「なんですか?」
「父も結婚を認めてくれたし、私達は婚約してると思っていいと思うの」
「そうですね、そうなりますね、美冬さん」
「だからね、その『美冬さん』って呼び方と、敬語をそろそろ止めない?
上司と部下という関係から離れられない気がするもの」
言われて気付いた草太だった。美冬とは敬語で話すのがあたりまえになっていた。草太にとって美冬は憧れの上司であることに変わりないが、今は自分の恋人であり、婚約者なのだ。敬語で話し続ける相手ではない気がした。
「そうですよね、確かにそうだ。でも美冬さん。それなら僕だって言いたいことありますよ。その「草太くん」って呼び方をそろそろ止めません? なんかいつまでも弟か、部下って気がするんです」
「そ、そうね。確かにその通りだわ。言われてみないと気付かないものね」
「本当に」
草太と美冬は目を合わせると、共に笑った。
「じゃあ、せーの! の掛け声で同時に呼びあいませんか? 名前を。僕も敬語を止めてみます」
「そうね、せーの! でいきましょう。勢いが大事だものね」
二人は一旦手を離すと、お互いに向き合った。妙に真剣な眼差しをしている美冬の姿が可愛らしくてたまらない草太だった。
「じゃあ、いきますよ。せーの!」
美冬も同じ台詞を繰り返す。
「せーの!」
意を決した二人は、ほぼ同時にお互いを呼び合った。
「美冬、好きだよ」
「草太、大好き」
それぞれ呼ばれた名前が脳裏に響いた瞬間。二人の顔と体が一気に火照っていくのを感じる。
(『草太」って呼ばれちゃったよ! すごい嬉しいのに、恥ずかしいし照れくさいよ。なんなんだよ、これ!)
なんともいえない気恥ずかしさに悶絶する草太だった。どうやら美冬も同じ思いらしく、体をくねらせながら真っ赤になった頬を手で覆っている。
それは付き合っている二人なら、他愛もない会話だった。ただ名前を呼び捨てにして、呼んだだけなのだから。しかし二人にとっては、これほど生々しく感じるものはない。
「す、少しずついきましょうか? 美冬さん、じゃなくて! み、美冬」
「そうね。草太く……じゃないわね、そ、草太」
再び熱くなる体をどうにか抑えた二人は、求めあうようにそっと抱き合った。お互いの体が火照っているのを感じる。体の熱さえ今は愛おしかった。
「僕たち少しぎこちないですけど、ゆっくりいきましょうか? ……って、じゃなくて」
「いいのよ、無理に敬語を直そうとしなくて。ずっとただの上司と部下だったんだもの。いきなり普通にはなれないわ。私達なりにゆっくり親しくなっていきましょう。そ、草太」
美冬は草太の胸元に顔を寄せると、嬉しそうに草太を見上げた。草太は美冬の背中に手を置いて体を少し傾けると、美冬の柔らかな唇にそっとキスをする。美冬は草太の口づけを静かに受け止め、優雅に微笑んだ。
「そうですね、キスはちゃんと出来るようになりましたもんね。キスのたびに首が伸びてたらどうしようかと思ってました。首筋にキスするのも悪くないですけどね。恥ずかしがる美冬、可愛いから」
「やぁね。いつも私をからかって。草太、ちょっと顔を寄せてくれる?」
「え? なんですか?」
素直に顔を寄せた瞬間、美冬は草太の唇にチュッとキスをした。小鳥が啄むような可愛いキスだった。
「え、美冬が僕にキス? え、え、え~??」
突然のことで狼狽え、再び顔が赤くなっていく草太を美冬が笑う。
「私にだって出来るんだから! キスのひとつやふたつ」
「え、ふたつ? じゃあ、もう一回キスしてください」
「それは次回にお預けでーす。真っ赤になる草太、可愛いわね」
いたずらっぽく笑う美冬がたまらなく愛おしかった。その可愛さに我慢できなくなった草太は、笑い続ける美冬の頬にキスをする。
「じゃあ、僕からキスしました」
「もう、草太ってば」
二人は抱き合ったまま、無邪気に笑い続けた。幸せそうな笑い声は、花々が咲き乱れる庭に溶け込み、いつまでも二人を祝福し続けるのだった。