寝ぼけた彼女
美冬が5分だけ寝させて、といった時刻が過ぎようとしていた。
「美冬さん? そろそろ行かないと」
5分だけと言わず、自分の横でもっと寝させてあげたい。寝顔だって堪能したいし。しかし草太が越してきた初日の夕食で、二人揃って遅刻するのは印象があまりに悪い。
申し訳ないと思いつつ、美冬の体を軽く揺すって目覚めさせようと試みる。
「ん~……わかった、今起きる……」
美冬は眠そうに目を擦りながら、体をう~んと伸ばした。再びこてんと草太に体を預けるものの、もぞもぞと体を動かしているので、じきに目覚めてくれるだろう。草太は少し安堵した。
「良かった、なんとか起きてくれるみたいですね……って、えぇぇ!!」
草太は愕然とした。美冬の首がしゅるしゅると伸び、彼女の美しい顔と首だけが部屋の扉に向かっていく。身体、つまりは本体が、置いてきぼりなのだ。
どうやら頭では母屋に向かおうと思っているものの、体がついていかないらしい。出張で疲れ切った美冬の身体は、睡眠を欲している。気持ちだけは、つまり頭と首だけは、どうにか母屋の夕食に向かおうとしているのだ。
「早く行かなくっちゃね~草太くんと二人で~」
とろんと眠そうな顔つきで、首だけがしゅるしゅると伸びていく。これまで何度も美冬の首が伸びるところを見てきたが、これほど哀れな光景はなかった。文字通り、身体と心が分離した行動を起こしているのだから。
「み、美冬さんっ! 体を忘れてますって!!」
慌てて声をかけるが、完全に寝ぼけているようで、草太の声が届かない。走って止めに行きたいところだが、本体である美冬の身体は草太に預けたままだ。急に立ち上がれば、美冬の身体は倒れ、伸びた首共々にどうなるか予想がつかなかった。
(くっそ、どうすればいいんだ!)
草太は必死に考えた。首が伸びるところまで伸びてしまえば、彼女はその衝撃で目覚めるかもしれない。しかしあれほど眠そうだど、それも難しそうだった。疲れた美冬に負担をかけることなく、しっかりと目覚めさせるにはどうすればいいのか。草太は伸び続ける美冬の首を見つめた。彼女の首は
白くて艷やかで、思わず触りたくなる肌をしている。
(そうだ!)
草太は自らの体をねじるように、美冬の首に顔を寄せると、艷やかな首に、ちゅっとキスをした。美冬の首がぴくりと反応した。草太は思い出したのだ。美冬は首が弱点であり、触られるとたまらなく弱いことを。草太は唇を一旦離すと、今度はもう少しだけ深く、肌をついばむようにキスをする。キスマークが残ってしまわないように、そっと優しく何度も。美冬の首はぴたりと止まり、その場で悶え始めた。
「やっ、やだっ、くすぐったい! 草太くん、何してるの?」
伸びた首へのキス攻撃に、美冬はすっかり目覚めたらしい。
「美冬さん? 気付いたみたいですね。首だけが伸びて、身体を忘れてますよ。疲れてるとは思いますが、体ごと移動しないと」
伸びた首をくるりと回転させ、草太の側に置いてきぼりの自らの身体を確認し、ようやく事態を把握したようだ。
「やだ、私ってば。こんなこと初めてよ? よっぽど草太くんから離れたくなかったのかしら」
美冬は自らの失態をごまかすように、ブツブツと呟きながら伸びた首を少しずつ戻していく。首が完全に戻ると、ようやく美冬は草太の美しい上司の姿になった。
「良かった。身体を忘れて、首だけが伸びていくから心配しましたよ」
草太は屈託のない笑顔を美冬に向けている。邪な思いなどなく、純粋に美冬の身を案じているのだ。
「どうして首にキスしたの? 私、首が弱いって知ってるわよね?」
美冬は草太にキスされた首を撫でながら、赤くなった顔を隠すように草太に文句を言った。
「だってそれが一番確実だと思いましたから。まさか首を引っ張るわけにはいかないでしょ? 綱引きじゃないんだから」
「綱引き? 酷いわ。私、首は弱いのっ!」
美冬は顔を真っ赤にしながら、草太の体をぽかぽかと叩いた。どうやら、草太のキス攻撃が効きすぎたようだ。
「いたたっ、こんなことしてる時間ないでしょ? 美冬さん」
「そうだけどっ! なんだか納得いかないもの」
「わかりました、できるだけしないように誓います」
「『できるだけ』じゃなくて、約束して? もう首にキスしないって」
美冬の言葉に、草太の顔から笑みが消えた。
「約束はできません」
「どうして? 私は首が弱いって知ってるでしょ? 意地悪ね!」
美冬は幼子のように頬を膨らませ、ぷんっ!と怒っている。
「だって男は好きな女の子には、イジワルしたくなるもんなんですよ?」
草太はにやりと笑った。美冬の顔はさらに赤くなり、白い首筋まで紅く染まっていく。頭から蒸気が湧きそうだ。
「もう、もうっ! 草太くんのバカ! こんなに意地悪な人って知らなかったわ」
必死に抗議する美冬の姿が可笑しくて、草太は大きな声で笑った。引っ越しの緊張や不安など、とうにどこかに消え失せていた。美冬がいれば何だって耐えられる。首が伸びる姿も、こうして真っ赤になる姿も、首にキスされて悶える姿も、どれも愛しくてたまらない。
美冬はしばし草太の体をぽかぽか叩いていたが、やがて静かにうつむいてしまった。
「ごめんなさい、美冬さん。これからは美冬さんの困ることはしないようにします」
「本当……?」
美冬が草太を伺うように、そろりそろりと顔をあげていく。その頬は紅く染まったままで、彼女の美しい顔立ちを魅惑的に輝かせる。
「とりあえず、これで機嫌直してください」
「え、何?」
美冬がしっかりと顔をあげたのを確認するや、草太はもう一度キスをした。今度は彼女の唇に、軽く。
「今は時間がないので、これくらいで。疲れ、吹っ飛びましたか?」
草太の意図に気付いたのか、もはや言葉も出ないといった様子で、美冬は口をパクパクさせている。
「そんな金魚みたいな真似してると、またキスしますよ?」
草太はにやりと笑った。草太の笑みに、美冬はまたまた全身を真っ赤にする。
「からかってごめんなさい、美冬さん。とりあえず母屋に向かいましょうか?」
「そうね。もう時間だものね。でも、もう意地悪しないでよっ!」
ぷんぷんと怒る美冬をなだめながら、草太は美冬の肩を抱くように、扉へと誘導した。
「僕、何があっても頑張りますから、美冬さん」
草太の言葉に安心したのか、美冬はようやく怒りを収めた。草太の手を取ると、そっと握りしめた。二人は手を繋いだまま、蔵を後にした。