再びの六野家①
「まずは通い婚をしてもらおう」
厳しい顔で、美冬の父である宗次郎は告げた。
「通い婚?」
宗次郎の言葉に、草太は愕然とした。
美冬のためならどんな苦労であっても負けないと心に決めた草太であったが、現実は彼の想像以上に厳しかった。
美冬を六野家に送り届け、共に宗次郎の元に挨拶をした草太だったが、宗次郎は憮然 とした態度で目も合わせてくれなかった。なんともいえない気まずい空気の後、宗次郎が唐突に告げたのだ。「通い婚をしてもらう」と。通い婚の意味がわからず、草太は聞き返すことしかできなかった。
「この家に通いで来てもらうということだ。名目は社長付き秘書だ。近々内示を出す予定だが、まずはお前が使いものになるか試してやる」
「社長の秘書?」
「秘書はすでに優秀なのがいるから、実際のところ、君は下僕のようなものだがな」
次々と言い渡される新事実に、草太はただ驚くことしかできなかった。
「待って、お父さん。草太くん、いえ、田村くんの意志も聞いて。頭ごなしの命令は良くないわ」
「意志? かまわんよ。言ってみたまえ。これは私からの最大限の譲歩だ。それを無視して、君の意志とやらを通したければ好きにするがいい。君のように力なきものが、何を言おうか痛くも痒くもない。嫌ならロクノも、美冬との結婚も、止めてもらうだけだ」
「そんな……」
美冬も言葉を失ってしまったようだ。
『力なきもの』という言葉が草太の心に鋭く刺さった。その通りだと思った。社長に認めてもらうには、まず力を、ロクノと六野家でやっていけるだけの胆力をつけなければいけない。そのための足がかりが『名目上の社長秘書』なのだ。
草太は一瞬目を瞑った後、目を開け、宗次郎を睨みつけた。
「わかりました、通い婚と社長付き秘書のお話、謹んでお受け致します」
宗次郎の目がわずかに見開かれた。草太が受けると思っていなかったのかもしれない。
(これは社長、いやお義父さんからの挑戦状だ。受けてたってやる!)
草太の「美冬を自分の手で幸せにしたい」という決意もまた、宗次郎に負けてはいなかった。
美冬との新たな生活と共に、草太の戦いが始まるのだ。
「ごめんね、草太くん。お父さん酷すぎるわ。通い婚なんて平安時代じゃあるまいし。草太くん、大丈夫?」
宗次郎に挨拶して一戦交えた後、二人は宗次郎の部屋を出た。
「ちょっと驚きましたけど、大丈夫です」
「本当に大丈夫?」
「た、たぶん……」
「たぶん?」
(うわ~今頃、不安になってきた)
取り返しがつかない今になって、ちょっぴり後悔する草太であった。
宗次郎の挑戦的な眼差しについムキになってしまい、即答してしまったが、本当は不安でどうしようもなかった。豪邸に通いとはいえ半同居することも、社長付き秘書になることも、何もかもが初めてのことだらけだからだ。
秘書という名の下僕といわれたことも心配だし、通い婚というのもどういうものなのか想像できない。
つい本音を漏らしてしまった。美冬の心配そうな視線に気付く。美冬を不安にさせたくない。草太は慌てて訂正する。
「大丈夫ですって! 体当たりでいきますよ、なるようになれ! ですよ。あははは……」
精一杯強がってみたものの、明らかに無理しているのがわかる。無理していることを自覚しているのだから余計だ。
「草太くん、無理しないで。いいわ、私もできるだけ協力する。父は一度決めたことは決して撤回しない人だから、今更なかったことにはできないけど、私が手伝ってはいけないとは言われなかった。だから私ができる限り、草太くんをフォローするわ」
「ありがとうございます。正直ちょっと、いや、すごく嬉しいです」
「大丈夫、任せて」
美冬は小さくガッツポーズをする。頼もしい限りだ。これではどっちが宗次郎に難題を出されたのかわからないが、草太は美冬の仕事での有能さを知っているので、これほど安心なことはないのだ。
「共にこの難局を乗り越えて、成功させましょう!」
「はいっ!」
草太と美冬はがっちり握手をした。まさに新しいプロジェクトを発足させた上司と部下である。
(ん? 僕って美冬さんの恋人だよな? 上司と部下じゃなくて)
草太以上に燃えている美冬に戸惑いつつも、無邪気な子供のように、目を輝かせている美冬の美しさに見惚れてしまう。
(やっぱ美人だよな~美冬さんって)
男らしさを発揮しても、どこか呑気な草太であった。
♦♦♦
翌週から、草太の試練は始まった。
株式会社ロクノで、社長の宗次郎から草太への辞令が正式に出されたのだ。名目上は社長付きの秘書なので、友人の上木や仲の良い同僚や後輩は「出世だな。おめでとう!」と喜んでくれた。
反面、訝しく思うものもいた。妬みともとれる批判を口にするものもおり、全ての社員が応援してくれているわけではなかった。この辺りは草太も覚悟の上ではあったが、実際のところ、批判を気にしてる余裕など全くなかった。とにかく、忙しい! のである。
秘書として社長をお迎えに行かなくてはいけないので、早朝自宅アパートを出るとすぐに六野家に向かう。朝食は食べてる時間がないため、移動中に栄養補助食品で適当に済ませる。
六野家に到着すると、社長の宗次郎に挨拶をして、社長の身支度や仕事準備を手伝う。社長専用の車に共に乗り込み、その日のスケジュールを伝え、連絡事項を確認する。
ロクノに到着すると、宗次郎はベテランの秘書課社員や重役に出迎えられるので、その隙に草太は宗次郎のカバンを持って階段をダッシュし、先に社長室に入っていなければならなかった。
仕事が始まると、秘書としては全くの初心者であった草太は秘書課の社員の指導を仰ぎながら雑用的な仕事からまず始めた。その合間に宗次郎に呼び出されると、使用人のような雑務を命令される。雑務を終えると、今度は秘書課の仕事だ。
社長が仕事で外に出るときは常についていかねばならず、ここでも草太は宗次郎のカバン持ち&雑用係である。
どうにか仕事が終わると帰宅する社長についていき、また六野家を訪れる。明日のスケジュールを確認しながら、六野家で共に夕食をとり、食事後ようやく草太は開放される。
まさに怒涛のような忙しさで、慣れてないこともあって、毎日クタクタに疲れてしまう日々だった。
宗次郎が告げた通り、名目上は社長付き秘書だったが、実際のところはただの雑用係だった。傍目にもそれが分かるのか、社員の中には冷笑を浮かべるものもいた。それが気にならないといったら嘘になるが、それでもついていかなければならない理由が、草太にはあった。
美冬と共に生きていくために、乗り越えなければならない。その思いは
少しも揺らぐことはなかったが、忙しさの中で足りないものがひとつだけあった。
「美冬さんに会いたいなぁ……」
自宅アパートに戻ると、スーツのままベットに倒れ込んだ。思い出すのは美冬のことばかりだ。
六野家を訪れる時に、美冬の顔を見て挨拶することはできるが、話をしてる時間がないのだ。今の草太には、『春野美冬』が足りていなかった。
「美冬さんの笑顔が見たい、声が聞きたい。ろくろ首な美冬さんに会いたい」
白くて長い首が伸び切った状態の美冬も、今の草太にとっては愛しい姿であった。
「リラックスして首が伸びちゃった時の顔が可愛いんだよなぁ……。あの顔は僕にしか見せないんだよね、ふふふ……」
妄想の美冬と戯れる草太は、ひたすら哀れであった。
「美冬さん……」
美冬の名を呟きながら、うとうとと微睡んでまどろんでいると、インターホンが鳴った。
「なんだよ、夜中だってのに」
目をこすりながら玄関に向かい、荒々しく扉を開けた。宅急便か何かだと思ったのだ。
扉の開けた先に立っていたのは、夢にまで見た、春野美冬であった。
「美冬さん!?」
「草太くん、こんばんは」
満月の夜に現れたのは、草太が会いたくてたまらない人だった。
会いたいあまり幻覚を見ているのでは? 狐か何かが化けて出ているのでは? と思った。しかし目を擦ってみても、頬を叩いてみても、美冬は消えることはなかった。
「ほ、本物の美冬さんなんですね、まぼろしじゃなくて」
「やだ、草太くんってば、寝ぼけてるの?」
輝く満月を背に悠然 と立つ美冬は、くすくすと楽しそうに笑っている。その顔は月光に照らされ、月の女神のごとく美しかった。
「美冬さん、会いたかった!」
愛しい人が目の前にいる。これほどの幸せがあるだろうか? 覆い被さるように、草太は美冬を抱き締めた。
「きゃっ、どうしたの?」
突然の抱擁 に戸惑う美冬だったが、抵抗はしなかった。
「美冬さん、美冬さん」
うわ言のように、その名を繰り返す草太は美冬をきつく抱き締める。
美冬の温もりは冷え切った草太の体を労り、柔らかな香りは疲れた心を癒やしてくれた。
「そ、草太くん。ちょっと苦しいわ」
苦しそうな美冬の声。どうやら強く抱き締めすぎたようだ。慌てて腕を開き、美冬の体を開放した。
「すみません! 大丈夫ですか?」
ようやく正気に戻った草太であったが、衝動的に行動してしまった自分が情けなくなった。
「ちょっとびっくりしたけど、大丈夫。むしろ嬉しいわ」
恥ずかしそうに微笑む美冬が愛おしくて、もう一度抱きしめたくなった。
(我慢だ、我慢……美冬さんを守るって決めたじゃないか)
どうにかこうにか堪えた草太は、必死で美冬に笑顔を向けた。
「美冬さん、夜遅いのに僕のところに来て大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。父には仕事で遅くなるって伝えてあるし。私ね、草太くんに話があって来たの。部屋にあがらせてもらっていいかしら?」
「部屋に、ですか?」
にこにこと屈託のない笑顔を浮かべる美冬。ひとり暮らしの男の部屋に女性がひとりで訪れ、部屋に入るということが、どんな意味をもつのかわかっていないようだ。
(こういう無邪気なところが、美冬さんらしいよなぁ)
草太は小さく笑った。素顔の美冬に触れたことで、理性を取り戻すことができたようだ。
「部屋に入ってもいいですけど、散らかってますよ」
「平気よ。なんなら片付けてあげる」
「僕も男なんで、襲っちゃうかもしれないですよ?」
草太は狼の真似をして、がぅと声をあげる。
「あら、怖い。草太オオカミはお話もできないのかしら?」
「草太オオカミは理性がある獣人ですから、お話できます」
警察官のように敬礼して見せると、美冬は楽しそうに笑った。
「では理性のある草太オオカミさん。大事な話があるの。部屋に入らせてもらっていいかしら」
「はい、どうぞ。散らかってますけどね。なんせオオカミですから」
無邪気に笑い転げる美冬を、草太はいつまでも見ていたいと思うのだった。