雪の中のノラ
雪がしんみりと降り続ける夜。閉店後の居酒屋の隅に段ボールが一つ置かれていた。暖簾を両手に抱えたまま店主がそっと覗いてみると中には目やにのついた、今にも息絶えそうなマンチカンの子猫が入っていた。寒いのか痙攣しているようにも見える。
「こりゃひでぇな」
店主は困ったように頭を掻いてしばらく考える。そこに店主の娘がやってきた。彼女は子猫の姿を見ると彼に何かを訴えかける視線を向けた。店主から出たのはため息。まるでドラゴンが白い炎を吐いたように大きく広がっていった。それが消えるころ、気の強そうな女性が居酒屋から出てくる。店主の妻だ。
「あんたたち、いつまで外にいるの! 風邪ひくわよ」
「猫ちゃんが捨てられてる。かわいそうだから飼……」
「朝顔を枯らしてしまう子に命は救えません!」
店主の娘は学校で朝顔を枯らしてしまうほどの不器用女子であった。それでも毎日芽が出ないかと水をやり続ける根気はある。目の前にある命。彼女はどうしても放っておけなかった。今は極寒の冬。衰弱している体ではいずれ死んでしまうだろう。
「私絶対この子を救って見せる」
「口で言うのは簡単なのよ、ミカ。命っていうのはね……」
「見殺しにするのも簡単じゃない。今度はちゃんと咲かせるから」
二人の会話を気まずそうに聞いていた店主は再び子猫に目をやる。微かに震える手足。雪でびちょびちょになった冷たそうな毛。確かに情も湧いてくる。
「とりあえず風呂にでも入れてやるか」
暖簾を片手に持ち、子猫を大きな掌に乗せる。トクトクという脈の音が伝わってきたのを感じ、自然と笑みがこぼれる店主。それを見ていた妻は爆弾が破裂したかのようなため息をついた。ミカは綿あめのような吐息をポッポと発生させながら新しい家族が増えたことを喜んでいる。
居酒屋兼自宅に招いた一匹の捨て猫。外が暗かったからよく見えなかったが毛先が大分汚れている。洗えばどんな姿になるのだろう。ミカは期待を大にして父とお風呂場へ向かった。
自宅に動物用せっけんはない。だから母の使う高級シャンプーとリンスをこっそり二人で使った。ラベンダーの香りがする毛がサラサラになるやつだ。その匂いに気づかれ、店主は妻からこっぴどく怒られた。また、家族共同で使う桶を利用したことも。衛生上よろしくないという理由で。
小さな命は扱いが難しい。動く力がないのか暴れることはなかったが、優しく扱わなければ潰れてしまいそうなほどぐったりしていた。汚れを落とした後はドライヤーだ。ミカがタオルをかぶせて丁寧に温風を吹きかける。するとなんということだろう。雪水でべちょべちょだった子猫の毛並みが二倍ほどに膨らんだのである。目やにで見えなかった目の色は黒豆のようにつぶらであった。
「あはは、この猫ちゃんお母さんと同じ匂いがする」
「……そんなこと言ってる暇があったら牛乳でもあげたら」
ミカの母は少しだけ照れながら、冷蔵庫から牛乳と小皿を取り出した。不器用なのは母も同じであった。衰弱状態の子猫が皿から自分で牛乳を飲めるわけもないのだ。ミカは考えた。家の中で子猫にスポイトのように牛乳を飲ませられる方法を。
「あ」
目の前に映ったのは魚の形をした空の醤油入れであった。よくお弁当を買うとついてくるアレである。とにかく試してみた。小さい容器なので子猫の口いっぱいに牛乳が入り込むことはなく、無事にゆっくり飲んでくれたようだ。なんでも取っておくものである。
「にー、にー」
子猫は何かを呼ぶように鳴いている。きっと“ありがとう”と言っているのだろうとミカは思った。これからこの子を幸せにしよう。そう思うと次にしたくなることは名前付けである。
「ハッピーなんてどうだ」
店主が腕を組んで自信満々に言う。それに妻と娘は納得がいっていないようだ。
「みぃ、はどうかしら。まだ飼うって決めてないけどね」
ミカの母は腰に手を当てて小さくため息をつく。それでも少しワクワクしたように聞こえるのは気のせいだろうか。二人の視線がミカに注がれる。彼女には実はもう決めてあった名前があったのだ。
「ノラ! ノラちゃんがいい!」
「ちゃんと最後まで飼える?」
「うん!」
母と約束したミカ。
次の日。
ノラの姿はどこにもなかった。家じゅう捜したが毛一つ落ちていない。ミカは今にも泣きそうな顔をして寒いみぞれ雪の降る交差点にまで訪ね歩いた。手袋やマフラーもせずに。
そこへ、わき見運転をしていたワゴン車がものすごい勢いでミカのもとへと向かってくる。急ブレーキのけたたましい音。間に合わない。
――そう思ったとき。
一匹の大きな猫が勢いよく飛んできて彼女の背中を思いっきり蹴ったのである。ワゴン車はガードレールにぶつかり、前方が破損している。肝心のミカはというと、奇跡的に無事であった。彼女はワゴン車の人の生存を確認すると、辺りを見回した。先ほどの影はいったい……
「にー、にー」
ノラの声が聴こえる。街路樹のほうを見やると、大柄の猫と昨日拾ったノラが二匹揃って毛づくろいをしていた。そして、しばらくお別れをするように尻尾を振っては走り去ってしまった。
後で聞いた話だが、ノラの母猫はもともと飼い猫であったが、飼い主がなくなって野良猫になってしまったのだそう。そして産まれたのがノラ。二匹はいつも一緒にいたが、ある日烏に襲われて離れ離れになってしまったのだそう。
「強く仲良く生きてね、ノラ……」
少しばかりの寂しさが雪になって零れ落ちる。ミカの父は彼女の頭をぐっと抑えて顔を伏せさせた。泣き顔を晒すものではない、とでも言うかのように。
「あの事故のあった交差点に信号機が付くらしいわ。ノラのおかげよ」
ミカの母が珍しく優しい声で彼女の体を抱きしめる。一匹の猫との出会い。寒い寒い冬の夜の短い出会い。ミカは永遠に忘れまいと心に誓った。