#58
毎度更新がナメクジで申し訳ありません。
#53〜55にかけて新キャラ・医者のオフェーリアさんが居た事になってます(改稿しました
読み難くて申し訳ありません。
朕たちが降り立ったのは、これまでも何度か凡世界救済軍が用意した支援物資の木箱を投下した事のある、カデン高原はシエライサベリア山脈の南麓に位置する小さなエールスリーベ教団の修道院であった。
聞けば、カデン高原における戦闘が開始された直後から姥捨山の如く傷病兵が打ち捨てられており、かなり前から医者の派遣を打診されていたようなのだが、凡世界救済軍では派遣できる医者が居らずどうすることも出来ずに支援物資のみの支援に留まっていたらしい。
シュヴェップ村に続き、緊急性が高いと判断して今回の人道支援行程に組み込まれておった。
シュヴェップ村に先に行ったのは、単に彼方の方が要救護者の優先度が高かったからに過ぎない。要救護者が子供に加えて感染症流行の可能性があったからな。
此方の者たちには少々酷ではあるが、助かる見込みと将来の可能性を勘案した結果であった。
まぁ例え命に貴賎はなかろうとも、当事者と非当事者という因果関係はどうしても無視できぬ。
この小さな修道院には現在約数十名から百名程度の傷病人が収容されており、修道士たちの献身により今は小康状態を保っていたが、こちらも衛生状態が悪化しつつあり、また治療手段が止血と消毒程度しか無いために感染症も増加傾向にあるとの事である。
戦争が始まってからというもの、この数倍の傷病人が運び込まれているらしいが、既に殆どが遥か円環への旅路についているとの事。
棺桶も用意できない上に火葬する燃料もなく、ヒト手も無いから土葬するのにも苦労しているらしい。
飛行箒を降りてからと言うもの、朕の鼻は微かな腐乱臭らしき臭気を感じている。猫である朕だから感じられる程度の微かな臭いではあったが、多分きちんとした死体の埋葬すらも出来ないで居るのであろう。
衛生環境は悪化の一途を辿っていると考えて良い。
傷病により肉体の抵抗力が落ちれば、普段は害にならない菌やウィルスで簡単にヒトは命を落とす。
正しく処理されない死体は病原菌の温床になる。
抗生物質の投与と、環境の改善を早急に行う必要があった。
ライラと朕とオフェーリアが飛行箒を降りた先に居たのは、先程着陸地点を指示するために旗のようなものを振っていた若い男と、修道院関係者と思われる綺麗に染まった白髪の老婆の二人であった。
「初めまして!凡世界救済軍のライラ・デアフリンガー・ネルソンです!」
着陸の際の急激な降下で胃が浮いてしまったのか、朝食の携帯食料と感動の再会を果たしそうになって蹲るオフェーリアの代わりにライラが元気よく挨拶した先で、出迎えてくれる筈の修道院関係者と思われる老婆が何故か此方に背を向けた。
何かを隠すような、明らかに朕たちから顔を背けた様に見えた。
若い男の方は……テルミナトル帝国の軍服を着ておる様に見える。
しかも、階級章――朕もテルミナトル帝国の階級章を知っている訳ではなかったが、こう言う物は万国共通で横線などの数字を示すマークの他に星などの徽章が着いている奴は大抵士官階級である――を見れば一兵卒とは思えなかった。
更には一見して健常者の様に見えるから、捨てられた傷病兵とも違う様である。
士官がこんな所で何をしているのか、まさか何か良からぬ事があってこの修道院を接収しに来た、などと言う事もあるまい。
先ほど何やら布を振り回して此方を誘導したのは多分この士官であった。
そんな風に訝しむ朕たちを前に、当の士官は惚けたように大口を開けて此方を見つめるばかりである。
邪険にされる事はないとは思っていたが、はて、もう少し歓待されてもおかしくないと思っておったものだが、なんぞ朕たちの顔に何か付いておるかの?
ライラも予想していた反応と違った為に少し居心地が悪そうである。「どうしよっか?」と言う視線を足元の朕に向けた。
まぁ、歓迎されてなかろうとやる事は変わらない。
「この修道院の責任者は居るか?」
つつい、と進み出た朕が突然喋ったことで、士官がお決まりの反応をする。
「うわ猫が!シャベッタ!」
うむ。毎度お馴染みの反応をありがとう。
「凡世界救済軍より要救護者の報告を受けて参った。碩術師のライラと、朕は使い魔のナヴィだ。あとは……」
「凡世界救済軍のオフェーリアと申します!医者として参りました……ォェ」
朕に続いてオフェーリアの方にドウゾとばかりに視線を向けてやれば、今にも地面に顔を突っ込みそうだった体をグッと堪えて背筋を伸ばしたオフェーリアが、出迎えの修道女と若い兵士に歩み寄る。
若干涙目であった。昨夜の寝不足が祟っておるのかもしれん。昨日よりも体調がすぐれない様子であった。
睡眠不足は乗り物酔いを悪化させるからな。少し悪い事をした。
士官は朕たちの挨拶を聞いて瞠目しておったが、一方、背を向けていた修道女姿の綺麗な白髪の老婆の方が何か意を決したかのように此方に向き直った。
「お医者様がいらして頂けるとは思いもよりませんでした。私、この修道院を預かります、ベネディクタ・ゼーフェリンクと申します。遠路はるばるお越しいただき、感謝いたしますわ」
そう言って握手のためにオフェーリアに右の手を差し出したその老女は、まるで仮面でも貼り付けたような笑顔を浮かべておった。
その笑顔の隣で、青年士官が何やら驚愕したような様子であったのが朕には少し引っかかった。
なんぞ嫌われることをしたかの?などと首を傾げてみるが、言葉の上では歓迎されている様なので滅多なことは言えない。
そんな腑に落ちない微妙な雰囲気を感じたのかオフェーリアも握手を返す動きがどこかぎこちないし、それを見つめるライラも小首を傾げておった。
「あれ?これ歓迎されているんだよね?」そんな雰囲気である。
まぁ、ヒトにはどうしたって合う、合わないが有るから、本人が心の底から歓待していたとしても、それがうまく伝わらない事もまま有るであろう。ベネディクタと名乗ったその老修道女の違和感とは、その程度の些細な齟齬かもしれない。
ベネディクタと名乗ったその老婆は、それこそ貴族のようにお決まりの歓迎の口上を一通り述べると、朕たちを修道院の中へと案内した。
「何も無い所で、本当に申し訳ございません。寒い中、飛行箒で飛んでくるのはさぞ凍えたことでしょう?白湯くらいしかお出しできませんが、暖炉の前でお寛ぎ下さいな」
戦場の只中に居て、尚且つ傷病兵を収容しているのだ。燃料も食料も潤沢とは言えず、まして茶など出せるような状況ではないだろう。
それにも関わらず、白湯だけでも用意しようとするベネディクタ女史の心遣いには痛み入るが、何故か彼女は朕たちを気遣いながらも、頑なに視線を合わせようとはしない。
もしかしたら単なる彼女の癖なのかもしれないが、雰囲気からすればそれなりの教育を受けている様にも見えるのに、そのわざと視線を外すような仕草は些か違和感のある仕草であった。
「お心遣い痛み入ります。ですが、先に患者を診せていただきましょう。何、直ぐに終わります」
修道女の裏口から入った我々を歓待するために食堂へと案内しようとするベネディクタ女史であったが、オフェーリアはまずは患者を一通り見たいようだ。トリアージするだけなら直ぐであろうし、白湯は自身に飲ませるよりも、まずは患者の為に使われるべきだ、とそういう事であろう。
熱湯で煮沸した布切れで患部を拭くだけで感染症の罹患率が劇的に下がり、自ずと傷口は早く治るのだから、当然の判断と言える。
「お茶とか出したほうがいいかな?」
ライラが足元の朕に小声で問いかける。
「そうさな。見たところ、茶葉や黒茶豆などの飲料系必需品は多分足りていないであろう」
茶葉や黒茶は嗜好品と思われがちだが、実は元々醸造酒などと同じように不味い硬水を飲むための手段として研究・開発された生活必需品である。決して嗜好品ではないのだ。
朕たちの秘密基地に掘った井戸の水もそれなりの硬水であったが、シエライサベリア山脈は大理石が採れる石灰質の土壌のため、他の地にも増して強い硬水地帯なのである。
朕たちが以前にこの修道院に投下した物資の中には茶葉などは入っていなかった。それよりも優先するべき物資が山ほどあったからだ。
当然茶葉などの硬水をマシな味で飲む手段は既に尽きているであろう。冬だから野草を摘むわけにも行かぬから、修道院の者たちも水を飲む手段に苦労している事は容易に予想ができた。
朕が言うが早いか、ライラはポーチから取り出したカードの束から何枚かを抜き取って、修道所の勝手口の外へと放る。
ライラはカードが地面に落ちる前にキャスリングを発動して、姦し娘1号の中に保管してある大量の物資の中の幾つかと空間座標を入れ替えた。
唐突に修道院の裏庭に出現した保存食や医薬品の山を見て、ベネディクタ女史と青年士官は腰を抜かさんばかりであった。
多少は知識があるのか、女史と青年士官の驚き様はシュヴェップ村の者たちよりも大袈裟である。
まぁ、伝え聞く地上世界の碩術レベルを鑑みるに、空間転移は彼らにとって見たことも無い業であったやも知れぬ。
「これ、使って下さい」
空間転移で姦し娘1号の腹の中から取り出した保存食を中心とした食料品のパレットから、ライラは焙煎茶と黒茶の入ったブリキのキャニスターを取り出してベネディクタ女史に手渡した。
それは、白湯をこれから大量に炊くので有るから、少しくらい茶にして修道所の皆や、傷病兵たちも久方ぶりの茶を振る舞えないか、というちょっとした親切心からライラが思いついた事でしかなかった。
決して「不味い硬水の白湯なんぞ飲みたくも無い」という様な、ベネディクタ女史の心遣いにケチを付ける積もりは毛頭無かったのだが。
無かったのではあるが、ライラから茶葉の入ったガラスのキャニスターを受け取ったベネディクタ女史の顔は明らかに強張っていた。
どうにか喉に詰まる言葉を絞り出すように礼を述べると、ベネディクタ女史は足早に修道院の中に引っ込んでしまった。
全くそんなつもりは無かったのだが、ベネディクタ女史の様子から察するに、結果的にはなんぞ勘違いをさせたかも知れぬ。
これはイカン。青年士官殿にフォローをお願いしよう。
「済まぬな。なんぞ勘違いをさせたかもしれぬ。其方らの心遣いは痛み入るところである。其方らもどうせなら白湯よりも茶の方が良いかと思ったのだが、どうやら気を悪くさせてしまったかもしれぬ」
青年士官に執り成しを求めると、ベネディクタ女史の姿を追っていた視線をこちらに戻した彼は、どこか不思議なものでも見るようにライラを見た。
「いえ、多分貴殿の心配されるような事は無いと思いますが……失礼、申し遅れました。小官はブルクハルト・ドライツェ。こちらでお世話になっている居候です」
そう自己紹介をしてオフェーリアと硬く握手をした青年士官殿は、腰を落としてライラと握手したあと、朕にはどうした物かと小首を傾げたので、ライラの肩に飛び乗って砂入の革手袋を差し出してやると、彼は恐る恐る朕の砂入の革手袋を握った。
「いや、凄いな。ナヴィと言ったかい?君もライラさんの碩術なのかな?」
ライラの左肩でお澄まし座りをする朕をまじまじと眺めて彼はそんな事を言った。
「偉そうでゴメンなさい。ナヴィは卒業の儀式で召喚した使い魔だから、私の碩術と言えなくはないんですけど、私の意思で動かしているわけではないんです。生意気だしお小言も多いし」
ライラが朕の代わりにそんな事を宣い、青年士官がその言葉を聞いて「それは災難……なのかな?」と憐れみと戸惑いの混じった視線を朕に向ける。
ふふふ。今度、其方の耳元で黒板を引っ掻いてやろうか。
ブルクハルトは一通り挨拶を済ませると立ち上がり、ライラが取り出した救援物資の中からクラッカーなどのすぐに食べられそうなものが入った紙箱を一つ抱えると、朕たちを修道院に招き入れた。
勝手口を潜ると、修道院の中は酸っぱいような、ハーブのような刺激臭のような、そんな薬品臭さが鼻に付いた。
「いや、本当に助かるよ。食べるものにも事欠いている状況だったから、みんなも喜ぶ」
礼拝堂へと続く廊下を青年士官に連れられて歩くと、途中、やけに恰幅の良い若い修道女が激昂したイノシシかと思うほどの形相で突進してくるのを見てオフェーリアが腰を抜かしそうになったが、その恰幅の良い修道女はライラの姿を認めるとまるで良く出来た姪でも歓迎するかの如く、今にも頬ずりでもしそうな勢いで丁寧な礼を述べたかと思うと、名も名乗らず風の如く勝手口へと駆けていった。
もしや、前に支援物資を投下した際に木箱を直接受け止めようとした娘かの、などと朕が思う暇も無く、体格からは想像もつかない程の将に疾風の如き身のこなしであった。
彼女の後を追うように現れた修道女たちも、オフェーリアとライラに口々に礼を述べては勝手口へと駆けてゆく。
もしかしたなら、先に引っ込んだベネディクタ女史が彼女たちに救援物資の到来を告げたのかもしれない。彼女たちの反応を見るに、朕たちが歓迎されていないということは無さそうではあった。
という事は、先程のベネディクタ女史の反応も、何かの勘違いか何かであろう、と納得して朕たちは礼拝堂へと歩を進めた。
青年士官に案内されて足を踏み入れたバシリカ式の礼拝堂はそれ程広くはなかったが、そこには足の釣り場もないほどの密度で傷付いた兵士たちが所狭しと寝かせられていた。
一部は木製のベンチに寝かせられたりはしているが、殆どは毛布などを敷いた床に直接寝かせられている。
よく見れば、重傷者はベンチに、まだ怪我などが軽い者は床に寝かされているようで、そこかしこから呻き声なのか、啜り泣くような嗚咽を漏らす声がする。
まさに地獄絵図が目の前に広がっていた。
「これは、やり甲斐があるわねぇ……」
見渡す限りに足の釣り場もないほどに傷病兵が寝かせられた礼拝堂を見渡して、オフェーリアが飛行箒から着たままだった飛行服を脱ぎながら、そんな呟きを漏らしながら腕を捲る。
「ライラちゃん、紐か何かある?」
多分、オフェーリアはトリアージの基本、『一目で状態が解るようにする』と言う作業を開始しようとしている。
ならば色付きの紐のほうが良いだろう。
「あります。トリアージ用のカラーバンドもあります!」
ライラもそれを察して、キャスリングで四色の細い帯の束を取り出した。
そのライラが手にした鮮やかな色付きの小帯を見て、オフェーリアが目を見張る。
まぁ、地上世界では布はそれ自体が貴重であり、それなりに高価な品物である。
地上世界の織物製品もそれなりに機械化・自動化された生産設備で生産されている様だが、流通網が貧弱すぎてまだまだ患者の重症度を示す為だけのためにそれ以外の使用が難しい程短く細く切り裂いて、なお且つ染色まで施せるほど飽和しているわけではない。
オフェーリアの『そんな贅沢な物、どこから持ってきたの?』と言いたげな視線も頷けるというもの。
彼女は天上大陸で医学を修めていても、地上世界生活が長いからか、感覚は地上世界寄りであるようだ。
「正直、貴女たちが手伝ってくれるのは凄く有り難いのだけれど、貴女たちの取り出す品々を見てると思わず貴女たちの正体を邪推せずには居られないわね」
ライラの手にした地上世界における贅沢の極みに、何とも言えない胡乱げな視線を投げかけつつ、自身の零したセリフに自嘲気味に苦笑いするオフェーリア。
オフェーリアには、ライラと朕の正体について『博愛と善意に溢れる有志の碩術師』と言う体で自己紹介をしてはいるが、何分朕たちとオフェーリアの初対面時、つまりは朕たちの助けた名も知らぬ碩術師の生存を凡世界救済軍に報告した際には、色々とあってヘーリヴィーネたちが同伴してしまったからな。
ヘーリヴィーネはオフェーリアたちに対して名を名乗ることも言葉を交わすこともなかったが、エールスリーべ教団系の慈善団体に所属するオフェーリアが、何処のエールスリーべ教会でも御本尊をしているヘーリヴィーネを見て何も感づかない方がおかしいという物。
寧ろ、オフェーリアが戦場へと赴く手伝いを朕たちに頼んできたのも、そういった状況を鑑みて、朕たちなら断るまい、と言う打算があったのかもしれない。
それは朕たちにとっても渡りに船であったし、オフェーリアの志を打算と呼び捨てて良いのかは微妙なところであるが、兎角、若干引きつり気味の苦笑いを浮かべるオフェーリアの表情から察するに、借りた猫の手がもしかしたなら悪魔の左手であったかもしれない、などと心胆を寒からしめておるのかもしれない。
……微妙に否定しにくいのが何とも居た堪れぬな。
「何事も余所見で得をすることはない。其方の信じる道を往くが良い。朕たちは使い倒してもらって構わんぞ」
励ましたつもりだったのだが、先程からの朕たちのやり取りに小首を傾げるライラに視線を落として口角を痙攣さたオフェーリアは、「肝に銘じるわ」と諦念したように目を閉じるのであった。
其方の行いは賞賛されこそすれ、非難されることではない。悪い様にはせぬよ。
「それじゃぁ、お言葉に甘えて使い倒させてもらうわ。ライラちゃんも扱き使っちゃうから覚悟してよぉ!」
オフェーリアは気を取り直してざっと礼拝堂を見回すと、目に付いた傷病兵を次々に指差してライラにそれぞれの重症度に応じた色の帯を彼らに付ける様に指示を出し、自身は今赤色判定した傷病兵の中で手近に居た者から診察を始めた。
トリアージとは、時間的猶予のない重症患者を先に治療する為の作業である。
もう助からない者や、軽傷者の手当をしている間にまだ助かる見込みのあった重症患者が大いなる連環に旅立つ、なんて事を防ぐ為の措置だ。
オフェーリアはざっと見回した限りで目に付いた傷病兵を次々に色判定し、ライラがその傷病兵に色帯を巻いて回っている間にも次々に傷病兵を見て回り、一度重症と判断したがよく診察したらそうでもなかった、などの色判定の修正も次々にライラに飛ばして行く。
ライラが飛び回って帯を巻いていくのだが、全く間に合わないので朕も砂入り革手袋とテレキネシスで手伝ってやる。
それでも次々とオフェーリアから出される指示をこなすだけで手一杯である。
流石、『不屈なれ!』なんて軍隊みたいなモットーを掲げる慈善団体に所属しているだけあって、オフェーリアは鉄火場慣れしていた。
傷が膿んで膨れ上がった腹を抱えて力なく横たわった年少の傷病兵の腹を手早く捌いて、壊死した組織を取り除いてから縫合し直しながらも、事あるごとに周囲に視線を飛ばしてはライラにトリアージの指示を出し、またライラでも出来そうな包帯の交換などなどなどなどを必要とする傷病兵を見つけては、尋常ではない速度で次から次へと指示を飛ばしてくる。
視野が広いというか何と言うか、まるで鉄火場の真ん中で指揮棒を振るう楽団の指揮者の様である。
朕たちがそんな指揮棒に操られるままにワタワタと走り回っていると、先程廊下ですれ違った恰幅の良い修道女を先頭に、若い修道女たちが配膳盆にライラの出した物資の中にあったであろうクラッカーや携行食を乗せてやって来た。
見ればスープか粥かは判らなかったが、湯気を立てる寸胴鍋までが配膳車に載せられて礼拝堂へと入ってきた。
まともな飯の匂いを嗅ぐのは、余程久しぶりだったのかもしれない。
腹の底から焦燥にも似た食欲が湧いてくるような良い匂いが鼻孔をくすぐり、それまで呻き声をあげる生ける屍の集団であった礼拝堂が無言の内に色めき立った。
修道女たちは配食の傍ら、オフェーリアに指示を請うて傷病兵たちの手当を手伝い始めた。
彼女たちがライラの付けた色帯を基準に軽症者の包帯の取り換えや傷口の洗浄を行い始めると、礼拝堂は更に騒がしくなった。
飯の匂いにつられて伏せっていた比較的軽傷の者たちが起きだし、それらを修道女たちが診て回り、必要な医療資材をライラが空間転移で配布し、包帯の交換や傷のケアが為されると別の修道女が飯の配膳をして、オフェーリアが次なる指示を出す。
まるで最初からそう言う風に設計されていたかの様な、オフェーリアの飛ばす指示が皆を一個の機械の様に動作させ、効率化してゆく。
それまで傷病兵たちを看護していた修道女たちは、その効率化された作業速度に、まるで自分たちが行なっている筈の作業が、実は自分たちで行なっていないかの様に感じた事であろう。それ程までにオフェーリアの指示は的確で、踏んできた場数の違いを思わせた。
将に治療する台風の如く、オフェーリアが礼拝堂を一回りすると、礼拝堂の中に居た傷病兵はあらかた治療が終わって、飯を食って腹を満たして寝息まで立て始める者も居た。
その中で、ライラがある事に気づく。
「あの人と、あの人。トリアージ、してないよ?」
それは、至極残酷な事実であった。
「ライラ、999番を出しておくれ」
トリアージとは、重症度によって患者を仕分けし、治療順序を決める作業である。
そのトリアージがなされていない、という事がどう言う事なのか。ライラの手にする色帯の中で一度も使われていない黒い帯が意味するもの。
多分、オフェーリアがライラに配慮したのであろう。
ライラが空間転移で出した999番は何も書かれていない白い箱であった。
「オフェーリア、フェンタニルだ。好きに使ってくれ」
ライラから受け取ったフェンタニルの箱をマジックハンドでオフェーリアに手渡す。
フェンタニル。もう助からない患者に対して、終末期の苦痛緩和措置として使用される強力なオピオイド系鎮痛鎮静薬である。
その強度は麻薬の50倍以上、一般的な麻薬系鎮痛剤の100倍以上である。
「……ありがとう。助かるわ」
泣き笑うような表情を浮かべてそれを受け取ったオフェーリアを見て、ライラが息を呑んだ。
聡い子だからな。少なくとも、トリアージされていない者たちが、既に助かる見込みがないのを悟ったのかもしれない。
オフェーリアは箱の中身を検めて、それが持続時間が長い経皮吸収型の貼付剤である事を確かめると、その何枚かを修道女たちに渡して使い方を説明した。
修道女たちもそれが何であるかを、それが何を意味するのかを理解したのであろう。
中指と人差し指で胸の中央を差し、額を差してからTの字を描く様に左右の米噛み付近を指差す、エールスリーベ教団特有の祈祷のジェスチャーを行い、そのパッチを受けとった。
「患者はココだけ?他にも居るのよね?」
ふぅ、と一息ついて、何かを振り払うかのように、次の患者の下へ赴くオフェーリアに続いて礼拝堂を出ると、朕たちは修道女たちに来客用の客間のような場所に案内された。
こちらは動けない者たちを主に収容している様で、介護のしやすさを重視したのか修道院に有るだけのベットを運び込んだ様に、部屋いっぱいに詰め込まれたベッドの上で足や腕の無い者たちが力無く横たわっていた。
「礼拝堂の方はもう終わったのですか?」
その部屋の中で、一人立ったままでコチラを見つめる男が居た。
ブルクハルトと言ったか、例の若い士官であった。
何かを恐れるような、まるで一生懸命やった試験の評価で親に叱られるのを予見した子供のような、そんな怯えを孕んだ視線で朕たちをじっと見つめていた。
◆
僕、ブルクハルト・ドライツェは、まるで絞首台に赴く罪人の気分で、オットー曹長が横たわるベッドを見下ろしていた。
待ちに待った、医者が来た。
それはとても喜ばしい事の筈なのに、喜ぶべき事の筈なのに、僕は今将に最後の審判を前にした愚かな子羊の様だった。
何故なら、医者が来て、オットー曹長を診てしまえば、今のままならまだ死んではいない曹長の死が、決まってしまう気がしたからだ。
勿論、曹長はまだ死んでない。息はしている。でも、目を覚さない。
息をしていても、人は死ぬ、と言う事位は僕も知識としては知っていた。
戦争に出征した若者が意識不明で帰ってきて、そのままいつの間にか居なかった事になる、なんてのは貴族社会じゃ当たり前だ。
そう言うのは大抵、どこかで家族が決心をつけて、名誉を守ってやるのだ。
では、オットー曹長は?
僕の指揮が悪かったせいで、意識の戻らないオットー曹長の名誉は、誰が守ればいい?
それが、僕にとっては途轍もなく怖かった。
僕の背後で客間のドアが開く。
振り向けば、凡世界救済軍の医者が客間に入ってくるところだった。
窓の外を見れば、既に日は高くまで登り、いつの間にか数刻も僕はオットー曹長の下に立っていたことを悟った。
オフェーリアと名乗った医者が、マスクや手袋などの衛生器具を身につけて、手近な者から順に診察を始める。
この部屋には今十一人の傷病兵が寝かされていた。ベネディクタ女史の話では、病気と怪我が半々だ。
オフェーリア女史は患者の脈をとり、瞳孔を確認し、聴診器を体の各所に当てたり、触ったりしながら診断を下していく。
一人が終わり、二人が終わり、この部屋の最も古参であるオットー曹長は部屋の一番奥に寝かされていた。
部屋の入り口から順に部屋の奥へと歩を進めるオフェーリア女史のその姿は、僕の目には将に魔王の行進の様に映っていた。
どれだけ、どれだけその場で立ち尽くしていただろう。
遂にオフェーリア女史が僕らの前に立つ。
僕が向ける視線に何かを悟ったのか、オフェーリア女史がまるで問い糺すように僕を詰問した。少なくとも、僕にはそう感じた。
「いつから、この様な状態ですか?」
僕を思いやるような優しげな声でかけられたその言葉は、僕には裁判官の審問に聞こえた。
「二月以上、前からです」
僕の答えを聞いたオフェーリア女史はオットー曹長の診察を始める。
脈を取り、瞳孔に光を当て、聴診器を体の各所に当てる。
体の色々な所を触り、特に右の太腿の傷の周りを入念に。
僕は居た堪れなくなって、思わず声をかけていた。
「駄目、ですか?」
オフェーリア女史が上げた顔には、深い渋面が刻まれていた。
「右大腿部の傷は、癒えかけています。ですが、骨が変なふうにくっついてしまっていますから、歩ける様になるにはかなり大規模な手術をしなければならないでしょう。それに……」
一瞬、オフェーリア女史が言い淀んだその一瞬が、僕には永遠に思えた。
「二月、目が覚めないのであれば、これ以上は私にも出来る事がありません。残念ですが……」
僕は足の感覚がなくなって行くのを感じていた。
◆
ブルクハルトとか名乗ったその青年士官は、オフェーリアが診察と治療を終えて、部屋の奥の次の患者に取り掛かるにつれて、その表情を険しくしていた。
朕にも詳しいことは判らないが、少なくともその青年士官が傍に佇むベッドに寝かされた、静かな寝息を立てるだけの壮年の男が、その青年士官にとって唯ならぬ由縁を持つのであろうと言う事は、青年士官の表情を見れば誰でも判った。
上官か、いや、部下の下士官――軍隊では少尉以上の指揮官を士官、曹長以下軍曹までの小隊未満の小集団のリーダーとなる者を下士官と呼ぶ――だろうか。
何があったのかはわからなかったが、そのブルクハルトと名乗った士官にとっては重要な相手である様であった。
診察と治療は順次終了し、その下士官と思しき壮年の男の診察を終えたオフェーリアは、心底辛そうに、だがブルクハルトの目をしっかりと見据えながら言った。
「二月、目が覚めないのであれば、これ以上は私にも出来る事がありません。残念ですが……」
どうやら、下士官は植物状態の様であった。
状況から察するに、大量出血による酸素供給量の減少によって脳が深刻なダメージを負ってしまったのであろう。
死んでしまった者と、植物状態の者だけは天上世界の技術や薬剤を使用してもどうにも出来ない。
大いなる叡智を蓄え世界の真理を覗き万物を意のままに操る碩学でさえも、未だに大いなる円環へと旅立った者を呼び戻す術は持たないのだ。
まるで棒を飲んだように固まった青年士官は、溢れ出す感情からなのか、どこか震えるようにオフェーリアに礼を言った後、じっとその下士官を見つめるまま、その場に佇んでいた。
オフェーリアは黙礼を一つすると、無言で青年士官の前を辞した。
朕たちも、オフェーリアに続いて部屋を出る。彼には気の毒だが、朕たちにはどうすることも出来ない。
去り際に、横たわる下士官を呆けたように見つめる青年士官を、ライラが悲しそうに一瞥した。
「あの人、まだ生きてるよ」
そのライラの呟きは、どう言う意味だったのだろうか。朕にもよく理解できなかった。
「そうだな。だが、『死んでいない』事と、『生きている』事はイコールでは無いのだ。だが、『死んだ』事と『生きている』事はイコールになる事があるのだ」
「でも、あの人、まだ居るよ!」
朕の言葉に、ベッドの上で動かない下士官を指すライラ。
……なんぞ、見えているのかの?
まぁ、最近ヘーリヴィーネにポンポン頭を張られておるからな。ヘーリヴィーネには少し注意しておかねばなるまい。
一通り、修道院内の傷病兵の診察を終えたオフェーリアは、前日の寝不足もあって倒れ込むように食堂のテーブルに突っ伏した。
「疲れたわー。ライラちゃんありがとうねー。助かったわー」
ぐってりとなったオフェーリアに修道女たちが気を遣って茶を淹れる。
傷病兵たちにやっとまともな治療を行えたことで、修道女たちの肩の荷も降りたのであろう。忙しそうに行き来する修道女たちの表情はどこか晴れやかであった。
そんな中、ライラはどこか小難しい顔で何かを思案している様子である。
「どうした?何か納得がいかないような顔だな」
何かを訴えたいのに、上手く言葉に出来ない。そんな顔である。
「どんなに手を施しても、不可能はある。それは誰が悪いわけではない。なんとか出来る物でも無い。其方が気に止むことではないのだ」
先ほどの下士官の件であろうか?
言語化出来ないもどかしさに身を焼いている様であった。
であれば、少し気分を転換するのも良かろう。
「ライラ、狩りだ。肉を獲ってこよう」
食料はライラが空間転移で取り出した物資類の中に大量に入ってはいるが、どれも保存食や携帯食ばかりで味気がない。
栄養価は高いが、人は栄養素だけで生きるに非ず。良質なタンパク質の摂取は幸福物質であるセロトニンの分泌を促し、それは栄養学だけでは説明出来ない効果を齎す。
先日のシュヴェップ村でのどんちゃん騒ぎも、単なる食事だけで人が生きているに非ず、と言う事をよく表していた。
旨い肉を鱈腹食うのだ。
さすれば、大抵の事は解決するものだ。
「昨日のシュヴェップ村の者たちの様子を見たであろう。あれと同じだ。彼らは狩りに行きたくとも行けなかったが、ここの者たちも同じだ。体を治すのにはタンパク質が要る。それも動物性で新鮮な奴がな」
朕の言葉に、ううーん、と歯切れの悪い返事をするライラ。
何かライラの中でモヤっとした物が有るようなのだが、それが言語化できない様である。
幾ら使い魔である朕とて、ライラが言語化ができないのであればそれが何であるを理解する事は出来ない。
ならば、今朕たちに出来ることをやるだけだ。
うーん、と何かを思い悩むライラをせっついて狩りに出る。
時刻は既に後数刻で日が暮れようとしてはいたが、全周探査が使える朕たちにとってはそれ程難しい事ではない。
朕たちが狩りに出ると聞いて、あの恰幅の良い修道女が目を輝かせて獲物の運搬を買って出てくれた。
まだ何かを考え込むライラを連れて森に出て、一刻もしない内にまだ若い雄鹿を見つけ、ライラの狙撃で難なく仕留めることに成功する。
獲物に逃げられないように、朕たちの数十ショーク後ろをついて来た例の恰幅の良い修道女が、ライラが獲物を仕留めるやいなや、また喜び勇んで200リヴル以上ある雄鹿を一人で担いで行ってしまった。
タンパク質に一番飢えていたのはあの修道女だったのかもしれない。
仕留めたライラもその迫力に唖然としておった。
持ち帰られた雄鹿は、例の恰幅の良い修道女をはじめとした久しぶりの動物性タンパク質に沸いた有志の者たちによって凄まじい勢いで解体され、あっという間に骨と皮と今にも肉汁の滴りそうな美しい赤身の肉になった。
因みに、エールスリーべ教団は肉を取るために家畜や野生動物を殺生する事を禁止していない。
ヘーリヴィーネも肉は大好きだからな。その辺は教団創設時の教義を明文化する際に色々と調整させてもらった。
ヘーリヴィーネは出来ることのスケールがデカイだけあって、身体維持のための必要カロリーも膨大なのだ。教義で肉食を禁止したら、信徒が何かの折に彼女が肉をガツムシャーしてる場面に出会わないとも限らんからな。
だからあの恰幅の良い修道女が脂滴る骨付き肉に齧り付いてもなんの問題もない。
修道女たちが鼻歌交じりに肉を焼く準備をしていると、いつの間にか起き出してきたのか、例の青年士官の部下だというテルミナトル帝国軍の軍服を着た兵たちが、前庭でバーベキューの用意を買って出て、太い木の枝を組み合わせた木枠に腹を開かれ臓物を抜かれた雄鹿が絨毯か何かのように平べったく貼り付けられて用意された焚き火で炙られ始めた。
辺りにいい匂いが漂い始めると、オフェーリアの処方した薬が効いてきたのか、礼拝堂の中からも比較的軽症で動ける者たちが鼻腔をくすぐる肉の焼ける匂いの元を探して戸口から顔を覗かせ始め、いつの間にか焚き火を囲んで鹿肉パーティーが始まってしまった。
焚き火でこんがりと焼かれた鹿肉が切り分けられ、その場にいた全員に供される。
疲れからかグッタリと焚き火を見つめていたオフェーリアの下には治療を受けた兵士たちが引も切らさず訪れて口々に礼を述べ、早まった輩はオフェーリアの手を取ってキスをしようとしたところで他の兵士たちの袋叩きに遭った。
ライラの下には修道女たちが集まり出し、口々にその碩術が為せる業を褒めそやし、この危険な地域に身を挺して医者と物資を運んだその勇気を讃え、まるで遊びにきた出来の良い姪っ子みたいに可愛がられ始めた。
その修道女たちの中に、あのベネディクタと名乗った修道院長の姿はなかった。いや、最初に挨拶をした時以来その姿を見ていない。
酒こそ供されなかったが宴は盛り上がり、焚き火の周りで踊り出す者が出始めると、歌や手拍子で皆がはやし始めたのを見てライラがビウエラを取り出した。
チョイチョイとチューニングを済ませると、多分ライラも聞いたことのある曲だったのであろう、兵士たちが歌っていた曲を弾き始めると、兵士たちが喜び勇んでライラの弾く曲に合わせて合唱し始めた。
当然の如く、ライラからはビウエラの和音に合わせたオドがスルスルと発せられ、それが掻き鳴らされる音楽と共に聴く者の心を激しく揺さぶり始める。
幼少の頃から聴き慣れた、なんて事のない田舎の土着の民謡のような曲が、ライラの手によって精神攻撃並みの威力を発揮し出し、焚き火を囲む者たちを更に盛り上げる。
聞いてるだけでやけに盛り上がるライラの演奏に、調子に乗った兵士や修道女たちから次々にリクエストが出され、知っている曲はソラで、知らない曲は教えてもらいながらアレンジを加えつつ弾き続けるライラ。
その否が応にも心を揺り動かす音楽と楽しそうな歓声を耳にして、さらに修道院から傷病兵たちが集まり始め、終いにはテルミナトル帝国軍の軍服を着た傷病兵とラサントス邦国の軍服を着た傷病兵が肩を組んでの大合唱が始った。
だが、朕はあることに気づいた。
ライラの発するオドのパターンが段々と変化していくのを。
最初はそれこそ、音楽の雰囲気に合わせて同じ様な感情を抱くようなオドの放射パターンだったのが、ライラの爪弾くビウエラの発する音波がライラの発するオドに干渉し、そのオドが大気を取り巻くマナの周波数と軌道に干渉を始め、複雑な変化を見せ始めたかと思うと、ビウエラに装備された金属製の増音装置によってその強度を倍化させ、さらに複雑な、それこそ海の様に波の衝突による不規則な、予測不可能な複雑怪奇な変化を見せ始めた。
それはまるで台風が段々と巨大化していくかのように、周囲のマナを巻き込みながら更に複雑さを増して巨大な渦となり始めていた。
『ライラ、オドを抑えるのだ。マナが渦を巻き始めている』
皆に囃し立てられて気分が乗ってしまっているのかもしれない。
未だ変な影響は出ていなかったが、マナの渦の巻き方は既に朕でもどの様な効果を及ぼすのか解らぬ程になっていた。いつ変な効果を周囲に撒き散らさないとも限らない。
だが、ライラから帰ってきたチャントは朕の予想外のものであった。
『段々わかって来たの。大丈夫だよ。多分上手くいく』
ライラがそう答えた途端、渦を巻いていたオドとマナと折り重なる和音がその様相を変えた。
それまでは不規則な相互干渉が生み出すランダムの荒海であったそれらが、一気にその構成に意味を持ち始めたのだ。
オドやマナが視認できる者には、まるで光の本流が一気にそれぞれの色ごとに分かれて意味ありげな配置と軌道をとり始めた様に見えたであろう。
それは、積層世界間を跨いで情報をやり取りする時のオドの軌道に酷似していた。
例えば朕が召喚されたときの碩術陣、あれがそうであった。
奇しくも、エールスリーベ教団において祝いの席で歌われる合唱曲が佳境へと差し掛かる時だった。
肩を組み組み、声高らかに喜びの歌詞を天に向かって合唱する傷病兵たち、修道女たちのボルテージも最高潮へと登り詰めていく。
既にライラの奏でる和音はアレンジを利かせすぎて原曲の面影が無くなりつつあるが、原曲のリズムと音程を崩していない為に誰もが原曲と同じように歌えているといった状態だ。
誰もが胸の内から湧きい出る不思議な幸福感に酔いしれていた。
『前にね、御母様がマリアさんを助けたときに、ずっとこんな音楽が聞こえてたの』
かき鳴らされる和音が更にボルテージを上げる。
ライラが言っているのは、朕たちが助けた『名も知らぬ碩術師』を助けた際に、ヘーリヴィーネが何某かを行い、多分それが原因で彼女は一命を取り留めた件であろう。
あれは朕にも何をしたのか理解が出来なかった。
後で彼女を問いただしてみても、彼女の中では確たる理論の上で行われた行為であったのだが、今現在朕たちが交わす言語では自身の行動を説明する単語が見つからない、と言った曖昧模糊とした説明に終始した。
あの時、ライラは自身の特性である『共感覚』によって、何かを感じ取っていたのかもしれない。
それこそ、ライラはマナやオドの運動を波動として感じることができるのであるから、何を感じ取っていたのかは明白である。
『ビウエラだけだと音階が足りないし、私も手が二本しかないから一度に鳴らせる音が足りなかったんだけど、音ってぶつかると色んな音が同時に出せるんだね。合唱って私やったことなかったから初めて知ったよ』
それはどういう意味であろうか。
まさか、曲をアレンジすることでビウエラの演奏によって歌声を任意にコントロールし、期待した効果が見込めるオドの軌道を再現しようとしておるのか?
言う慣れば、合唱にビウエラの演奏を上手く合わせることで、意図的にハーモニーやハーモニクスを制御することで、本来ライラだけでは演奏することが出来ずに不足するオドの軌道を補おうとしている、言う事の様である。
それは朕の記憶でも見たことも聞いたこともない碩術。
やがて、合唱する歌声の合間から明らかに人の声とは思えない高音が混じりだす。
兵士たちと修道女たちの歌声がぶつかり合い、天使の声が生まれ、大氣を震撼させ、段々と碩術的密度を増しながら、少しずつその中心に向かって落ちていく。
やがて超極大まで密度を高めたそれは、音もなく積層世界間の壁を穿孔した。
途端、朕の目にはまるで洪水のような光の奔流が飛び出して、不可思議の幾何学的な軌道を描くのが見えた。
最後の和音をライラが掻き鳴らした瞬間、その飛び出した光の奔流は、ライラと兵士たちが生み出したオドとマナの渦を従えて、音もなく修道院の方へと飛び去っていった。
この場にいた者たちの中で碩術的な素養を持つのはライラを除けば朕だけであるから、今の光景が見えたのは多分、朕だけであろう。
ライラ、其方一体、何をした?
「御母様の真似をしてみたの」
不思議な一体感に包まれて、兵士たちや修道女たちが楽しそうに次の曲は何にするかと話す姿を眺めつつ、驚愕に目を見開く朕を見て、慣れない激しい演奏で少し荒くなった息を整えながらライラはそう溢した。
それと同時、修道院の中から誰かの野太い歓喜の叫び声が聞こえた気がした。
ヘーリヴィーネには、次からは絶対にライラに物理で知識を叩き込まぬ様、キツく申し付けねばなるまい。
確変入りま〜す。




