#57
毎度更新遅くなっております。
感情表現は難しいですね。
私、ベネディクタ・デアフリンガーがその報せを聞いたのは、いよいよ寒さが厳しくなってきた晩冬の早朝で御座いました。
『本日、救命要員がそちらに到着する予定です』
なんですって?!と思わず聞き返したのは言うまでも御座いません。
チャントの相手は、此度の戦争が起こった際に助けを求めた旧知の知人が紹介してくれた凡世界救済軍のスタッフで御座いました。
以前に医薬品の融通を打診した際には、激化する戦場の上空を単騎で突破して、医薬品を空中投下してくれたあの腕利きの碩術師を派遣してくれた御方で御座います。
先日、私はそのスタッフにお医者様の派遣を打診して御座いました。
勿論、多くを期待しての事では御座いません。
こんな戦場のど真ん中に、お医者様が来れるわけが御座いません。
ですが、修道院前に捨てられる重傷病者の数は日に日に増えるばかりで、その殆どが数日で遥かなる円環へと旅立たれてしまわれます。
例え助かる見込みが少なくとも、放っておく訳にも参りません。
今現在も修道院で介抱している傷病者の中には、高度な外科的手術を必要としながらも処置を施すことができずに、遥かなる円環への旅支度をするのみの方が幾人か居ります。
不甲斐無くも私は医療の基礎を齧ったのみで、初歩的な応急処置や日常の介護以外、高度な医療を施す事は出来ないので御座います。
そこで無理とは解っていても、お医者様を派遣しては頂けないか、と依頼をしたので御座いました。
真逆、それが本当に来て下さるとは、失礼ながら露ほども考えてはおりませんでした。
どんな方が来るのでしょうか。
むしろ、どうやってこんな戦場の真ん中まで来て下さるので御座いましょう。
やはり飛行箒で御座いましょうか?
だとすれば、碩術師がお医者様を後ろに乗せて飛んで来られるのでしょうか?
その飛行箒に跨った見ず知らずの碩術師の姿を想像して、私の脳裏にある光景が浮かんだので御座いました。
それはあの日見上げた、茜と群青の二色に染まる秋暮の空を、星の煌めきにも似た発光信号を瞬かせて飛ぶ、あの小柄な碩術師の姿で御座いました。
それと共に私の脳裏を過るのは、あの時、不意打ちに私の胸を襲った己が過去の慚愧に御座いました。
馬鹿な事を考えるのはよしましょう。
それよりも、今日お医者様はこの厳冬の曇天を、まして戦場の上空を押し通って来られるのです。
何か温かい物の一つも出して差し上げなければ、申し訳が立ちません。
凡世界救済軍のスタッフ曰く、お医者様はお昼前には御着きになるとの事で御座います。
それ迄に、何かご用意できないでしょうか。
世を捨て出家した身としては、このようなお客様を御迎えする時はとてももどかしく感じてしまいます。
清貧を旨とする修道士生活にとって、奢侈品の類は厳禁ですから、訪れる皆様もその旨をよくご理解されてはおりましても、だからといってそのご理解の上に胡座を掻くのは、人としての礼節を欠く事に相成りましょう。
とは言え、今この修道院に余裕など微塵もございません。
温かいもの、と申しましても、重傷病人を受け入れるようになってからというもの、一日十二刻休み無く暖炉には火を入れておりますし、手当などのためにひっきりなしにお湯を沸かしてもおりますから、燃料が圧倒的に足りません。
ヒトが口にする為の白湯でさえ、いつでも沸かせると言う訳では御座いませんでした。
修道士長を務め、厨房を預かるサリーに相談をしようかとも思いましたが、早朝のこの時間、彼女はこの修道院が今現在収容している傷病兵たちの朝食を一手に用意している筈で御座います。
元々10人程度がひっそりと暮らす為にしか整えられていない修道院に御座いますから、厨房の規模もそれに合わせてこじんまりとした物しか御座いません。
ですが今、修道院が抱える傷病兵は100人に届こうかと言う様な有り様で御座いました。
とてもでは無いですが、サリーに更に追加で何か用意出来ないか、等と相談できるような状況では御座いません。
それに、食料にも余裕が有るわけでは御座いませんでした。
私たちの冬の蓄えは既に放出してしまいましたし、ブルクハルト少尉殿たちが夜な夜な戦場跡へと出掛けて、食料や医薬品を集めてきてくれなければ、当の昔に、非常に残酷な決断をせねばならなかったでしょう。
私は幾らかの逡巡の後に、修道院を出る事にしました。
薪も食料も足りないのであれば、せめて少しでも自らの手で集めてくれば、寒空を駆けて来られて凍えていらっしゃるでしょうお医者様に白湯の一杯でもお出し出来るかもしれません。
私はクローゼットの奥に仕舞っていた、中綿の入った裏生地にビロードが使われたゴム引きの外套を引っ張りだしました。
嘗ては裏地に鮮やかな薄紫色の柄が入ったビロードでしたが今はすっかり褪せたそれは、私が出家するにあたって家から持ち出した数少ない品の一つで御座いました。
それを羽織って、色褪せた厚手のウールのショールを二つ抱えて母屋から出ると、外は分厚い曇天に遮られて薄暗い陽の光に照らされた粉雪がまるで星降る夜かの様に、未だ薄暗い前庭を仄かに照らしておりました。
舞い踊る粉雪の明かりを頼りに、修道院の門を潜ろうとすると、背後から声がかかりました。
「ベネディクタ先生、何処かに行かれるのですか?」
振り向くと、顔でも洗ってきたのか、手ぬぐいを片手にしたブルクハルト少尉殿でした。
「少しお待ちください。銃をとってまいります」
私の格好に、何かの用で外に出るのだと思ったのでしょう。少尉殿は私がなにか言うよりも先に踵を返すと、修道院の玄関に立てかけてあった小銃を担いで来られました。
「外は未だ索敵のための散兵が彷徨いております故、お供いたしましょう」
そうおっしゃって、私の三歩後で、国軍式の『待機』の姿勢を取られました。
顎を少し上げて視線を上げ、両足を肩幅に開いて胸を張り、両手を後ろ手に回したその姿は、嘗ては夫が軍務中でもないのに事あるごとにその姿勢を取ってしまう事に、「軍隊の習性だ」と嘆いていたのを思い出してしまいました。
「ごめんなさい。何でもないのよ」
そんなブルクハルト少尉殿のその姿を見て思わずはにかんだ私に、彼が戸惑ったようにその場でたじろぎます。
ブルクハルト少尉殿のその姿が、何の因果か、絵に書いたような軍人だった夫が、見合い結婚だった私に初めて小さな髪飾りをプレゼントしてくれた時の姿に重なりました。
あの人ったら、「ほら」と一言ぶっきらぼうに言って小さな木箱を突き出したっきり、国軍式の『待機』の姿勢で私の顔すら見ようとしないんですよ?
あれは五回目の結婚記念日だったかしら。誕生日にさえ何かしてくれた事は無かったのに、突然そんなことをするもんですから、私はびっくりするのを通り越して、声を出して笑ってしまいました。
それを目をまん丸にして見つめるあの人ときたら。
なぜ今、あの頃の記憶が蘇るのでしょうか。
あの日、救援物資を投下してくれた腕の良い碩術師を宵闇に沈みゆく夕日の彼方に見送ってから、嘗ての幸せだった頃の記憶が頓に蘇ります。
それは今となっては、その幸せな記憶の結実たちを切り捨てた私の罪の記憶。
ズキリと、詰まるように痛む胸を幸せだった頃に身に付けた作り笑いで覆い隠し、私はブルクハルト少尉殿に向き直りました。
「今日、お医者様がいらして頂けるそうなので御座います。多分、飛行箒に乗って来られるのでしょうから、何か温かいものでも出して差し上げたいので御座います。薪になりそうな朽木を探すのを手伝って頂けますか?」
私の言葉に、ブルクハルト少尉殿が隈に縁取られた目を見開かれました。
ブルクハルト少尉殿の部下の方、オットー曹長は未だ意識を取り戻されてはおりません。
オットー曹長もお医者様に見てもらえば、もしかしたら。
ブルクハルト少尉殿が浮かべた表情は、そんな微かな希望と、そんな奇跡は起こる筈がないと言う諦念が綯い交ぜになったようで御座いました。
「……あまり、気は進みませんか?」
私の言葉に、ブルクハルト少尉殿は頭を振ります。
「そんなことは有りません、喜ばしいことです。……すみません、変な顔をして。僕は自分自身でもどうしようもないくらい情けない男なのです」
そんな弱気な言葉を溜息のように吐き出して、痩けた頬を震わせるようにブルクハルト少尉殿は力なくはにかみました。
私から見ると、彼は少し考えすぎてしまう癖が有るように見えます。きっと心根がお優しいのでしょう。
指揮していた部隊は壊滅したと聞きましたし、ブルクハルト少尉殿は殊更その事をお気になされている様で御座いました。
そのせいで御座いましょうか。彼が私たちの修道院に来てから示した献身は、自己犠牲というよりも贖罪の様な、献身と言うよりかは将に挺身と言う他は御座いませんでした。
戦場跡を夜な夜な廻るのもそんな挺身の一部の様に私には見えるので御座います。
少尉殿自身は逃亡兵として扱われかねない身の上にも関わらず、戦場跡を徘徊しては食料を調達してくれます。
どちらの陣営に見つかっても死の危険に晒される事になるでしょう。
どこへでも逃げてしまった方が余程安全なのに、それなのにブルクハルト少尉殿は逃げるどころか私たちの修道院に隠れ住むことすら、決してなさいません。
それどころか、夜は戦場跡へ、帰ってくればオットー曹長やその他の負傷兵の手当ての手伝い、更には薪の調達や水汲み、そして修道院を離れる者の護衛など、それこそいつ寝ているのかと疑うほどの献身で御座いました。
とてもでは無いですが、彼の存在無くして私たちがこれ迄持ち堪えることは出来なかったでしょうが、私にはその姿が書けば書くほど短くなっていく鉛筆で我武者羅に贖罪の言葉を書き殴っている様に見えて仕方が無いので御座いました。
◆
僕、ブルクハルト・ドライツェはベネディクタ女史の言葉を聞いて困惑した。
「今日、お医者様がいらして頂けるそうなので御座います」
ベネディクタ女史のその言葉に、本来なら僕は嬉しくなければいけない筈なのに。
それなのに、僕はその言葉に恐怖していた。
僕の無能のお陰でオットー曹長があんな風になって、もし本当に今日医者が来たとして、彼を診て「手遅れです」「助かりません」と告げたならば。
それは「お前のせいでオットー曹長は死んだ」と宣告されるに等しく僕には思えた。
それならば、今のままの、生きてはいないが死んでもいない、何も決まっていない今のままが良い。
そんな風に思ってしまうのだ僕は。
今ここには居ない、嘗ては僕の部下だったあの気の良い奴らが、オットー曹長が助からないと判った瞬間、草葉の影から一斉に飛び出してきて、「全部お前のせいだ、お前のせいでみんな死んだ」と僕を罵倒する様な気がしてならなかった。
いっそ、喉笛を掻っ切って詫びるべきなのに、僕はそれをする事が出来ない意気地無しだった。
更には、僕はなんと我儘なことに、だからといってオットー曹長がこのまま意識を失ったままなのは、それはそれで嫌なのだ。
なんとか、何とかして、一人でも救ったと言う無意味な自己満足で失った大勢の部下たちの贖罪を済まそうと企んでいるクソ野郎。それが僕だった。
畜生。僕って奴は、何処までもクソ野郎だ。
自分が心底嫌になる。それでも努めてそれを表情に出さない様にして、僕はベネディクタ女史を見つめた。
まるで意気地のない僕の心の内なんかすべて見透かしている様なのに、それでもベネディクタ女史の眼差しは慈愛に満ちていた。
それが、酷く僕を責め立てているような気がした。
「……あまり、気は進みませんか?」
僕の表情を見てベネディクタ女史が僕の心中を慮ってか、優しく微笑んでくれる。
それがとても気恥ずかしかった。
「そんなことは有りません、喜ばしいことです。……すみません、変な顔をして。僕は自分自身でもどうしようもないくらい情けない男なのです」
将に自分で吐き捨てた通りだと思うと、溜息すら出なかった。自分で宣った皮肉が思いの外、深く心に突き刺さった事に思わず苦笑いしてしまう。
そんな僕を見て、少し困ったように、まるでベソをかく泣き虫な孫を慰めるように優しく微笑んでくれるベネディクタ女史の優しさが眩しかった。
ベネディクタ女史は僕の自虐的な言葉を冗談に変える様に一度大袈裟に呆れて見せると、ニコリと優しく微笑んでから修道院の前庭の隅にあった古びた納屋へと向かった。
それを見て僕も慌てて女史を追う。
朽木か何かを割る為の斧か鋸でも取りに行くつもりなのだろう。
「御手が汚れますので、僕がやりましょう」
ベネディクタ女史よりも早く納屋まで辿り着くと、僕はベネディクタ女史から奪う様に錆びて朽ちかけたラッチを外して納屋の扉を開けた。
中を覗き込むと、丁度戸口の近くに立て掛けられた手斧があった。
見れば壁のフックには二人挽きの大きなノコギリも吊るされていたが、まさかベネディクタ女史に一緒に挽かせる訳にもいかない。
手早くライフルのストラップに首を通し、銃口が右下を向くように背中で袈裟懸けにして、僕は戸口の近くに立てかけてあった小さな手斧を手にとった。
少し錆び付いているが、刃は大丈夫なようだ。
ベネディクタ女史は僕の行動に少し驚きつつも、相変わらずどこか優雅さを感じさせる美しい所作で「有り難う御座います」と目礼して、僕を先導するように修道院を出るのに僕は無言で従った。
やはり、ベネディクタ女史の所作は異常だ。
その動きの一つ一つがやけに洗練されている。
騎士爵なんて木っ端貴族の家に生まれた僕は、所作やマナーには人一倍小言を言われて育ったから判る。
ベネディクタ女史のその所作は、まさにマナー教師がして見せるお手本の様に美しかった。一挙手一投足のどこを切り取っても、そのまま絵画に出来そうだった。それは、ただの優しい老修道士が身に付けるには、些か荷が勝ち過ぎる代物だ。
何せ、数十年前から特に新興の貴族が増えたテルミナトル帝国ではマナー講師は高給取りだし、"貴族の所作"なんてそれこそ教科書があるわけでもなければ、明確な決まり事として法律に明文化されているわけじゃない。
新興貴族は晩餐会などの各種イベントで恥をかかないように皆必死で貴族のマナーを学ぶし、子供たちにも身に付けさせようと必死になっているけど、どれだけ高い金を積んで最高級のマナー講師を招いて、その教えを完璧に身につけたとしても、どうしたって新興貴族たちの所作にはぎこちなさが出てしまう。
それは後から身につけたものだから、生まれながらに貴族だった奴らの所作に比べればどうしたってぎこちなくなる。
そのせいで新興貴族は事あるごとに伝統的な貴族との差を見せつけられては、笑われて恥をかくのだ。
"貴族の所作"とは、謂わばバレエや歌劇のようなもの、とはよく言ったもので、それはある種の芸術性を持った物だと言われている。
つまり、一朝一夕で身につくものじゃないし、連綿と積み上げられた血統が垣間見せる刹那の美なのだ。僕に身に付かなかったのも頷ける。
尚更、こんな山奥の修道院で隠遁生活を送っているいち修道士が身に着けている様なものではない。
エールスリーべ教団では修道士に貴族的な所作の教育を行っているのだろうか?
いや、ベネディクタ女史のそれは、教育で身につけたものではないと思う。まさに、生まれながらに貴族であった者が見せる自然で優雅な所作だった。
前にも思ったことだが、多分ベネディクタ女史は本来ならこんな辺鄙な所で隠遁生活を送る様な身分ではないのだと思う。
何があってこんな山奥に隠れ住む様にしているのか。そんな興味が沸々と僕の中で湧いてしまう。
多分、それを問いただすのは、野暮な事だろう。でもベネディクタ女史のそんな分不相応な振る舞いを目にする度、僕の無作法な興味はムクムクと肥大化するばかりだった。
「あちらなど、ちょうど良いのでは無いかしら?」
修道院を出て白く染まった森の中の小道を少し進んだ先、枝道のように別れた獣道の先に朽ちて倒れた細めのバーチを指してベネディクタ女史が言った。
見れば倒れたとはいえ、完全に地に着いているわけではなく、枝が何かに引っかかったのか中途半端に倒れかかっていた。
あれならば地面にも着いていないから中が腐っていると言うことも無さそうだ。薪にするにはまさに丁度いい。
太さも人の腕ぐらいしかなく、手斧でも切る事が出来そうである。
ベネディクタ女史には下がってもらって、腰くらいの高さで裂けたような折れ目に手斧で刃を入れると、思いの外簡単に断ち切る事ができた。
あとは枝と積もった雪を払いながら丁度いい長さに断ち切っていく。
コンコンコン、と木を叩く小気味良い音が白く染まった森の中で反響する。
切り落とした幹や小枝をベネディクタ女史が持って来た細かな刺繍の入った厚手のウールのショールで纏めていく。
色褪せて表面は擦れてほつれていたけれど、細かな模様が入った明らかに元は良い物だったのが見て取れるショールだった。
また僕の無作法な興味が膨れ上がる。
ベネディクタ女史が身につけているコートだって、修道士らしく地味で古びて草臥れていようとも、古くてもまだしっかりとその形を保っているという事は、元々しっかりとした造りの、良い物という事だ。
ちらり、ちらり、と盗み見る僕の視線に気づいたのか、ベネディクタ女史はバツが悪そうに笑う。
「賎婦が世を捨てる前の、欲深き罪の証ですわ。笑って下さいな」
そう言って自嘲気味にベネディクタ女史はコートの裾を撫でた。
やはりそうなのだ。ベネディクタ女史は多分、とても高貴な生まれに違いない。
ならば、何故こんな山奥に。
そんな疑問が吹き出して、つい、失礼とは分かっていても、僕の口をついて出てしまった。
「何故か、お聞きしても?」
言ってから何て事を言い出すんだ僕はと、悔恨で心の臓を握り潰しそうだった。
ベネディクタ女史がどんな顔をしたかも見る勇気がなく、僕は言ったと同時に思わず顔を背けていた。
「いえ、何やら、お辛そうに見えたので。もしかしたら誰かに話したら少し楽になるかも、と思っただけです。どうせ僕はその内居なくなりますし、後腐れもなくて丁度良いかとも思って……いえ、申し訳ない。気にしないでください」
言い訳をするように捲し立てた後、一気に気恥ずかしくなった。
僕は気まずさを隠すように力任せに手斧を振るう。
手斧が奏でる甲高い音が木霊する中、ベネディクタ女史のその言葉だけがやけにはっきりと聞こえた気がした。
「私は、ブルクハルト少尉殿の行いを尊敬致します」
◆
「もしかしたら誰かに話したら少し楽になるかも、と思っただけです。どうせ僕はその内居なくなりますし、後腐れもなくて丁度良いかとも思って」
ブルクハルト少尉殿の予想だにしない言葉に、私、ベネディクタ・デアフリンガーは驚きを隠せませんでした。
思わず見上げた少尉殿は、恥ずかしそうに顔を背けてしまわれました。
「いえ、申し訳ない。気にしないでください」
同時に、長い間押さえつけていた、自身の負い目を誰かに全てぶち撒けてしまいたい、と言う欲求がまるで火山の如く吹き出して来たので御座いました。
それが、一時の気の迷いだったのかどうかは解りません。私の意思とは別に、私の口は訥々と語りだしておりました。
「私は、ブルクハルト少尉殿の行いを尊敬致します」
びくりと、視界の端で少尉殿が震えたように見えました。
少尉殿がこの修道院に残ってくれる、という事は、兵士の義務である『速やかなる原隊への復帰』を徒に遅らせているという事であり、まして士官でそれをするという事は、国家への反逆と捉えられる可能性は決して低くありません。
それでも、ブルクハルト少尉殿は部下の為、私たちの為、棄てられた傷病兵たちの為にその危険を犯しておられるのです。
その行動を私が讃えずして、誰が讃えましょうか。
家の論理を盲信して、ヒトの道を見失った私とは大違いです。
私の言葉に、ブルクハルト少尉殿が明らかに慄いたのに、それでも構わず、私は少尉殿が払った枝を焚付にし易い長さに折りながら、視線は地を見つめたまま、何か目に見えない大いなる力に無理矢理促されるように先を続けたので御座いました。
「私は、家に背を向ける事が出来ませんでした」
口を突いて出てしまった言葉はもう止められませんでした。
「娘が一人、居りました。とても賢くて、優しくて、良い子だったのに、私は娘が家の面子に翻弄されるのを目にしても、味方してあげることが出来ませんでした」
あぁ、私の愛しのメルセデス。
貴種では無かったけれど、貴女が運命と見初めた人を見つけたあの時、私は怒り狂う夫を諌めることはしなかった。
それどころか、貴女たちを別れさせる方法しか考えていなかった。
貴女が遠い異国で、祖国と貴女の家族の間で、煩悶しながら、そして瀕死の傷を負ってしまってからも、私は何もしてあげられなかった。
それどころか、私は貴女の貴族籍を抹消したりして、努めて貴方の存在を消す事に執心していたの。
「娘には可哀想なことをしたと思って居りますが、私がその事に気が付けたのは娘が早世してからで御座いました」
未だに、昨日の事のように思い出します。
貴女の棺を収めた亡霊の様な漆黒の馬車を、夫が門前払いする様を屋敷の中から遠目に見た、あの日の事を。
「孫も居たのですけれども、会ったことはおろか、名すら知りません。いえ、知る資格もないでしょう。」
そして、今も後悔しております。
私に孫が居る事を告げる使者の言葉に、引き取る事を拒否した冷酷な夫の隣で、私は努めて耳を塞いでいました。
あれから、夜毎に貴女を乗せた漆黒の馬車が去ってゆくのを見送る夢を見るようになって初めて気付きました。
私はなんてことをしてしまったのか。
いえ、なんてことをしなかったのか。
「私にそんな資格は無いのだと解っていても、それでも、毎朝神に孫の健やかなる成長を願わずにはいられない」
おぉ、神よ。偉大なる主神、ヘーリヴィーネよ。
どうか、斯く浅ましき卑女を、その清浄なる劫火にて、焚き苦しめ給え。
願わくば、名も知らぬ我が孫に降り懸かる艱難辛苦を、この卑女に与え給え。
我が悶絶躄地を以て、名も知らぬ我が孫の幸に換え給え。
◆
「ごめんなさい。急に懺悔のような事をして」
ベネディクタ女史が恥ずかしそうに、僕に背を向ける。
僕が促したとはいえ、ベネディクタ女史の語った内容はかなり衝撃的な内容だった。
いや、内容としては噂話ならよく聞く内容だろう。
口減し、庶子の隠匿、不届きな子女の抹消、そんな陰惨な出来事でも、この地上世界では別に珍しくはない。
だがそれも全て噂として口伝てにヒッソリと語られるに過ぎない。
面と向かってその罪を語るベネディクタ女史が抱えていた悔恨の深さが窺い知れる。
「いえ、不躾に尋ねたのは僕です。この事は、我が名誉に誓って口外致しません」
何か、憑き物でも落ちたように、ベネディクタ女史が可笑しそうに微笑んだ。
「ありがとう御座います。不思議な物ですね。誰かに打ち明ける事が、こんなにも心を軽くする物だと初めて知りました。神職なのに」
釣られて、僕まで笑顔になる。単純に誰かの役に立てたことが嬉しかった。
無能な僕でも、誰かを笑顔にさせることが出来るのだ、と。そんな何でも無いことなのに、そのことが僕の心まで軽くなったようだった。
何だろう。軍隊で少尉なんかやってた頃には味わった事のない、不思議な感覚だった。
「例えその道の大家でも、新たに学ぶことは有るでしょう。それが至極当たり前のことであっても」
ベネディクタ女史は「ええ、そうですね」と、言葉を弾ませた。
僕らがそんな事をしていると、枯れた木々の枝間から、特徴的な遠い遠雷のような轟音が響いてきた。
その音に、ベネディクタ女史がはたと顔を上げた。
「この音……、お医者様がいらしたのかもしれません。急いで戻らなければ」
僕にも聞き覚えがあるその音は、ここ何週間かの間に何度か支援物資の入った木箱を空中から投下した腕っこきの碩術師が駆る飛行箒の音だ。
普通の飛行箒はあんな音なんかしないから、多分あの飛行箒は特別製なんだろう。
少なくとも、元ウチの国では、基本的に箒兵が乗る飛行箒は全て国からの貸与品だ。
地上世界ならどこでもそうだろう。
飛行箒なんてそんなに簡単に作れるものじゃない。
なのに、特別製の飛行箒を駆る碩術師とは、どんな人なのだろうか。
天上世界人だろうか。
やはり白髭でも蓄えた老練な老碩術師だろうか。
それとも、天井世界人なら、若くて腕の良い碩術師も多いのだろうか?
やっぱり僕はダメだな。
指揮官たる者、想像なんて不確かな情報を弄ぶよりも即断即決、実際の情報を手に入れる事を考えるべきだ。
なら、早いところ帰って、この寒空を高速で駆けて来た碩術師を出迎えてやれば良い。
ベネディクタ女史も僕と同じ考えかはわからないが、急いで薪と焚付をまとめ始めた。
「いけません。お医者様がいらしてしまいます。急いで戻らなければ」
散らばった輪切りにされた倒木や払った枝を集めるのを僕も手伝い、ベネディクタ女史と分けてショールに纏めたそれを担いで急いで元来た道を戻って修道院の門を潜ると、さっきの轟音が頭上を回っているのが判った。
「降りられるところを探されているのでしょう。何か合図をしてあげないと」
僕は咄嗟に担いでいた小銃の先に、薪を纏めていたベネディクタ女史のショールを結びつけて、それを頭上に掲げて大きく左右に振った。
色あせてはいたけれど、元がカラフルな刺繍が入っていたことが幸いしたのか、轟音を立てながら旋回する飛行箒がこちらを視認したようだった。
ピカピカと小さな白い光が瞬く。
「少尉殿、可変長符信号です。『誘導感謝。我着陸セン。待避サレタシ』だそうです。場所を開けましょう」
あの光はモールス信号だったのか。
改めて、ベネディクタ女史の教養の高さに舌を巻きながら、修道院の前庭の隅に移動して、着陸場所を空けると、一際大きな轟音を立てて朱く陽光を反射する奇妙な形の飛行箒が、こちらに向かって一直線に降りてきた。
「速すぎる!」
そう叫んだのは多分ベネディクタ女史だと思う。
確かに、素人の僕が見ても、そんなスピードで突っ込んできたら、いくら何でも無事に着陸できるとは思えなかった。
轟音にかき消されたその声と共に、朱い飛行箒はくるりと縦に回転してお尻を下に向けると、赤熱した排気炎を吹き出しながら見る見るうちに速度を落としていく。
そのままその朱い飛行箒は地面に触れる数フィンチ手前でフワリと静止した。
轟いていた排気音が徐々に静かになっていっても、その飛行箒は天を向いたまま宙に浮いて直立したままだった。
その豪快な着陸を目の当たりにした僕たちが言葉を失っているのを他所に、宙に浮いたまま何かに貼り付けられた様に動かない飛行箒から小さな影が降り立った。
背の小さなその碩術師は、透明なゴーグルを取り、口元に巻いた襟巻と、飛行帽を脱ぐと、豊かな黒髪を振り解きながらこちらへと歩いてきた。
「初めまして!凡世界救済軍のライラ・デアフリンガー・ネルソンです!」
そう言って元気よく挨拶したその碩術師は、僕の想像とは真逆の、十かそこらの少女だった。
その事に驚いていた僕は、彼女が名乗った名前を聞きそびれてしまった。
ライラ、なんだって?
なんか聞いたことのある響きだった気がする。
そんな事を考えて僕が呆けていると、隣に在った気配が酷く慄いたような気がした。
◆
「速すぎる!」
私、ベネディクタ・デアフリンガーが思わず上げた叫び声を掻き消しながら、轟音と共に朱い薔薇のような形をした見たことも無い飛行箒が、蕾を下に向けて地上スレスレの空中に静止したので御座いました。
それと共に吹き付ける猛烈な熱風に、私は思わず顔を背けました。
少しすると、段々と小さくなっていく排気音に連れて、目を開けられないほどに吹き付けていた熱風も徐々に弱まって参ります。
それと共に段々と目を開けられるようになると、空中に縫い止められたように静止した朱い美しいシルエットの飛行箒から、まるで跳ねるように降りて来た小さな影が目に入りました。
その小さな影が飛行服と同じ鞣し革で出来た飛行帽を脱ぐと、豊かな黒い髪がまるで弾けるように宙に溢れたので御座いました。
少し赤味がかった様な、癖の無い真っ直ぐな、透き通るような艷やかな黒髪。
少し釣り目がちで、今は亡き夫に似た大きなヘーゼルの瞳。
私と同じ少し高い鼻梁に、綺麗に整った卵型の輪郭。
「初めまして!凡世界救済軍のライラ・デアフリンガー・ネルソンです!」
そして、心地良い小鳥が囀るような、高い声。
見紛う事は御座いません。
私と同じデアフリンガーを名乗ったその碩術師の少女は、将に私が愛してやまなかった、今は私の記憶の中にしか存在しない、幼き頃のメルセデスの姿そのもので御座いました。
ああ、なんてことなので御座いましょうか。
主神・ヘーリヴィーネよ。
これは私への断獄でしょうか、それとも――
その思い出の中だけに在る筈の愛おしい姿を認めた時、熱い何かが私の頬を伝うのを感じると共に、その眩し過ぎる姿に私は思わず背を向けたので御座いました。
もうチョットこう、ドラマチックに描けない物かと、己が筆力の不足を痛感するばかりです。




