#56
大変遅くなりました……。
またなんか作品の内容と被るような状況が世界のどこかで起きていて悲しい限りです。
本作は如何なる実際の国家、団体、宗教などとは関係がございませんし、それを支持するものでもございません。
いち、エンタメ作品とご理解をいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
2024/8/25大幅な改訂を入れました。
地を這う冷気が髄を犯す瘴気のごとく手足の感覚を麻痺させる。
全身を蝕んでいた目に見えない冷たい鋭利な刃は既に転化して、人肌の様な温もりすら感じる様になっていた。
「……総員、待機。待機だ」
僕、ブルクハルト・ドライツェは押し殺した囁きで、思わず撃鉄を起こそうと右手を動かした部下を静止した。
見れば、僕が静止した上等兵は今にも鳴り出しそうな歯の根を必死の形相で噛み殺していた。
僕らが身を潜めた、大砲が大地に穿った浅い窪みの僅か十数ショーク先を、複数の軍靴が氷雪を踏み砕く音が通り過ぎてゆく。
昼間、陽光に照らされて表面が薄氷の様になった積雪を踏み抜くその足音は、僕には無数の屍を踏み砕く魔王の行進のように聞こえた。
押し殺した自らの吐息の音が、やけに大きく聞こえる。自らの脈の音が、己が鼓膜を破らんが如く、耳の中で鳴り響いていた。
白煙となって立ち上る吐息が間違っても敵に発見されることがないように口元を隠す為に巻いた布が、気がつけば冷気に晒されて凍り、頬に張り付いていた。
生きた心地がしないとは、将にこの事であった。
◆
僕たちは、軍隊を辞めた。
あの修道院にたどり着いて、オットー曹長をベネディクタ女史に預けたあの後。
本来であれば原隊復帰する事が僕に課せられた義務ではあったが、僕たちを"的"にした軍隊におめおめと戻る事は、僕には到底出来なかった。
僕についてきた下士官兵たちには、速やかに原隊に復帰するように命令した。
そう告げた彼ら下士官兵たちは、揃ってニッカリ笑った。
「少尉殿が軍隊を辞めるんなら、アンタはただの私人だ。なら俺たちがアンタに従う義務は無い」
そう言って、下士官兵たちは揃って軍隊を辞めた。
「お供しますぜ。いえ、させてください少尉殿。俺たちゃ、たった今からアンタの私兵です」
そう言って敬礼して見せた彼らの姿は、僕には霞んで見えた。
僕は部下となった元部下たちを率いて、夜な夜な各所の戦闘跡を回った。
ベネディクタ女史は僕らに行く所がないのなら修道院にいても良いと言ってくれた。
重症を負ったオットー曹長の治療の事もあったし、僕もオットー曹長だけを置いてどこかに行く気はなかった。
しかし、元々清貧に暮らしていた修道院は僕らが転がり込んだせいで深刻な食糧危機に陥っていた。
直ぐに食料が枯渇するようなことはなかったが、遅かれ早かれ足りなくなる事は自明だった。
僕らは、僕らが食べる分を何処かから調達してくる必要があった。
だから、僕たちは食料を探して夜な夜な戦闘の跡を探して周り、倒れ伏して無残にも打ち捨てられた無銘の戦士たちの骸が背負った背嚢から、缶詰やクラッカーを頂戴した。
兵士は戦場で孤立しても直ぐには餓死しないように、何日分かの携行食を持たされている事が多い。
中身は缶詰だったりビスケットだったり、干し肉だったりマチマチだ。
冷たくなった骸から追い剥ぎのような真似をするのは最初はそれは気が引けたものだが、ある日を境に僕たちに負い目はなくなっていった。
その日、戦場跡で食料品を漁り、明け方に修道院に帰ってくると、敷地の入り口に建てられた石造りのアーチの支柱に寄りかかるようにして、四人の男たちが捨てられていた。
左右の支柱に寄りかかるように寝かされた彼らは、テルミナトル帝国軍の軍装を身に着けていた。
一人は裂けた腹を無理矢理包帯で蓋をされて、二人は両の足が無く、最後の一人は右肩と左手首から先が無かった。
「……お願いだ……助けてくれ……」
愕然と立ち竦む僕たちに、両手の無い男が虫の息で呟いたその言葉を、僕は今でもよく覚えている。
仲間に捨てられて絶望した彼の瞳に浮かんだ涙が零れ落ちたその行き先まで、鮮明に覚えている。
ベネディクタ女史を叩き起こして、彼らを修道院の中に運び込み、手当をしてやった。
と言っても、四人共傷が深すぎた。
腹の裂けた奴は既に息絶えていて、両足のない奴らも程無くてし遥かなる円環へと旅出った。
修道院に運び込んだ時はまだ意識があった両手のない奴も、翌日になると高熱を出して意識を失い、その日の昼ごろには遥かなる旅路へと赴いた。
「ありがとう」
事切れる間際に、名前も知らないそいつは譫言のようにしきりにそう呟いていた。
彼らは僕たちの手で丁寧に埋葬してやった。
それからだ。
夜な夜な、重傷の兵士たちが修道院の前に置き捨てられるようになったのは。
テルミナトル帝国の奴も居れば、ラサントスの奴も居た。
どいつもこいつも、喋れるヤツの方が珍しいくらいに衰弱していた。
僕たちは大忙しになった。
何せ、捨てられた奴らの大半はまだ息があって、助けてやらないわけには行かなかった。
僕たちと同じ様に捨てられたあいつらを、僕たちは見捨てることができなかった。
助けたからには、彼らにも食わせてやらなければならない。
僕らは夜な夜な戦闘跡を探してカデン高原を彷徨い、食料や医薬品を漁り回っていた。
◆
僕の隣で雄牛のような激しい吐息が聞こえる。
見れば、兵の一人が必死で押し殺そうにも、恐怖なのか寒さのせいか、痙攣したように強く強張る身体が肺腑を押し潰して咳込んだように荒い息を吐いていた。
行進の音が、止まる。
何がしかを話す声が聞こえて、足音が一つ、僕らの方に近づいて来た。
明らかに、僕らが隠れる窪みに一直線に向かって来ていた。
テルミナトル帝国の兵なのか、ラサントスの兵なのか、それは分からない。それらを視認するよりも前に、人影を認めた瞬間に僕らはこの窪みに身を隠していた。
テルミナトル帝国の兵だったら、僕らが今着ている軍装はテルミナトル帝国陸軍の物だから、何かと誤魔化せる可能性があったが、僕たちは僕を含めて五人しかいない。明らかに離散兵にしか見えないし、そうなればマトモな部隊の指揮官は僕らを自身の部隊に糾合して駐屯地へと連れ帰るだろう。親切心から。
そんなことになれば、僕らが既に全滅した部隊の生き残りであることはバレる。下手をしたら逃亡兵として銃殺だ。
実際、僕らは逃亡兵なのだから。
ラサントスの兵だったら、結果は言わずものがな。
問答無用で今ここで銃殺だ。
僕らは軍を辞めたとは言え、着の身着のまま、テルミナトル帝国陸軍第二種軍装のままなのだ。
誤魔化せる訳がない。
足音が、止まる。
僕は意を決した。
「カッマンダンッ! アングリーーーフッ!!!!」
僕は力の限り、満点の星空に向けて叫んでいた。
僕以外の全員がギョッと僕を見つめる中、僕は跳ね起きて一足飛びに窪みの縁へと登る。
すると、僕の背の肩ほどしかない、下履きのベルトを緩めかけたブカブカのラサントス軍装姿の少年兵が、驚愕の表情で僕を見上げていた。
一瞬の内に少年兵の頭ごしに視線を走らせれば、少年兵の数十ショーク後方に、黒い何かが列を成している。
多分、僕の小隊――元、だが――が行軍整列したら、あの黒い塊よりも大きかった筈だ。
という事は、こいつらは小隊以下の偵察隊か何かか。
「第4小隊!突撃せよ!躍進距離30ショーク!!目標前方敵小隊!殺せ!殺せ!殺せーーーー!」
僕が腰のサーベルを引き抜きながら有らん限りの大音声で攻撃目標を告げると、訓練された僕の兵たちは、恐怖に震えながらも勢い良く立ち上がり、訳も分からず僕と同じように有らん限りの大音声で叫んだ。
「フーーーァッ!デムッ!ファーーータァルァァァァァンッッ!!!」
「突撃せよ」と指揮官に命じられた時の、兵たちが上げる定型のウォークライである。
食料と一緒に、以前戦闘跡で拝借した不揃いの小銃を鳴らして、今にも一気呵成に銃剣突撃せんと、兵たちは星明りを鈍く反射したバヨネットを偵察小隊に向かって突き付けた。
「敵だぁぁぁぁぁぁッ!!にげろぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
途端、舌っ足らずな子供のような高い声がして、黒い塊にしか見えなかった敵偵察小隊が俄に蠢き出したかと思うと、女子供かと思うような甲高い悲鳴を上げながら黒い影が蜘蛛の子を散らすように逃げ散っていく。
小便でもしようとしていたのか、僕の目の前で目を丸くしていた少年兵も、脱ぎかけの下履きに足をもつれさせながらも一目散に仲間を追って森の暗闇へと飛び込んでいく。
誰かが息を吐く音が聞こえた。
「……総員、全力撤退。急げ」
無言で踵を返して僕らは暗闇の森を走った。
誰かが、笑いを噛み殺したような声を上げる。
そちらを見れば、丸顔の髭面が口をへの字にしていた。
「僕だって、上手くいくとは思ってなかったよ」
そう呟いた僕に、そいつは満面の笑みで「お見事でした指揮官殿!」と敬礼した。
運が良かっただけだ。
相手が、ラサントスで、しかも見たところ少年兵部隊だったのかもしれなかったから。
もしそうだとすれば、偵察部隊だろう。戦闘部隊ではないはずだ。
少年兵部隊に戦闘力を期待するなど、狂気の沙汰だ。
暗闇を子供達だけで偵察をしてこいと命じられたのかもしれない。心底心細かったことだろう。
そんな時に暗闇からいきなり大人が現れて、敵国語で「突撃!」なんて叫んで銃剣を突き付けてきたら誰だって逃げる。僕だって逃げる。
彼らには戦闘力なんて皆無だから、威力偵察もできないだろう。
もしかしたら、放射状に彼らのような少年兵部隊を偵察に出して、朝までに帰ってこなければその方角に敵がいる、と言うような可哀想な使われ方をしたのかもしれない。
それだけ、ラサントスは兵員の不足に悩んでいるのかもしれなかった。
いや、多分テルミナトル帝国も多かれ少なかれ似たようなことをやっているだろう。
ラサントスだけそんなに兵員が不足しているなんて事は無いはず。でなきゃ、戦争はとっくに終わってるはずだ。
やっぱり軍隊はクソ喰らえだ。
僕がそんな事を思いながら修道院へと帰り着くと、夜が開け始めていた。
起き出して傷病者の朝餉を準備をするベネディクタ女史を始めとして、修道女たちが僕らを迎えてくれる。
今日の成果はまぁまぁ、と言う所。
僕らの背負った背嚢には、戦場に無惨に転がった死体から漁った缶詰やビスケットなどの食料に、包帯なんかに使える清潔な布類が三分の一ほど詰まっていた。
それらを修道女たちに預けると、僕は一目散に修道院の一室へと赴いた。
そこには所せましと負傷兵たちがベットのみならず、床にも寝かされて、さながら戦場病院の様相を呈していた。
僕が入ってきた音で起きてしまったのか、辛そうな呻き声が方々で上がる。
そんなタコ部屋のような病室を、苦しそうに寝そべる彼らを踏んでしまわないように避けながら、僕は奥のベッドまで進んだ。
「オットー曹長。今、帰還した」
そのベッドには、まるで干物のように鄙びたオットー曹長が力なく横たわっていた。
運庭で兵たちをどやしつけていた、泣く子も黙る鬼曹長の姿は見る影も無くなっていた。
オットー曹長は一命を取り留めた。
と言っても、取り留めただけ。
彼の意識は一向に戻らない。ベネディクタ女史によれば、「血を流しすぎた」、との事だった。
本来であれば、指揮官である僕の手で楽にしてやらなければならない。
そう、僕の手で。
軍規や法律に定められているわけではない。
だが暗黙の了解として、生存や治療が困難と思われる場合、苦しむ部下をいち早く楽にしてやり、彼と彼の家族の尊厳を守ってやることこそが、指揮官に課せられた責務である、とされている。
戦死なら勲章の一つも貰えるし、もらえる勲章の格も2つは上がる。
僕は、その責務を果たせないでいた。
もしかしたら、明日になれば、オットー曹長がひょっこりと意識を取り戻すかもしれない。
そんな有りもしない幻想を信じることで、僕は僕が指揮官として未熟であったが為に失われていく命を、その責任を、何とか回避出来ないものかと、またもや指揮官の責務を果たさずにみっとも無く足掻いているのだった。
僕は最近、心底僕を嫌いになった。
だが、僕がそんな懺悔を懺悔室に呼んだベネディクタ女史に語ると、女史は朗らかにこう言ってくれた。
「救いましょう。主上はこうおっしゃいます。"死は救いに非ず"。何か、方法があるはずです。私にもお手伝いをさせてくださいな」
それから三月以上が経って、未だにオットー曹長の世話は僕とベネディクタ女史の二人で行っていた。
寝たきりの大人の世話というものは、僕が考える以上に大変だった。
オットー曹長は常に微熱を出しているし、時には高熱が出る事もある。
意識が無いから、毎日何度か、水やドロドロに溶かしたクラッカー、すり潰した缶詰の肉などを如雨露で少しずつ喉の奥に流し込んでやる必要があった。
朝と晩、オットー曹長の痩せ細った体を垂直に起こして、顎を上げさせて喉を真っ直ぐにしたら、少しずつ口の奥に流動食を流し込んでやるのだ。
あまり奥にやり過ぎると吐き出してしまうから、少しずつ、少しずつ食べさせなければならない。
やり方はベネディクタ女史が教えてくれた。
ベネディクタ女史は不思議な人だ。
立ち居振る舞いはどこからどう見ても、僕なんかよりよっぽど高貴なご婦人にしか見えないのに、こんな辺鄙なところで修道院長なんかやっている。
いや、貴族の娘が世を儚んで修道院に入ることはあるけれど、大抵は帝都や都心部の郊外にある、有り体に言えば『便の良い』修道院に入る事が多い。
それがこんな山奥の修道院で、しかも周りの修道女たちも明らかに平民の出だ。
よく貴族出身の修道者が連れているような、元メイドや側近では無いだろう。
もしベネディクタ女史が高貴な生まれであったのなら、絶対に考えられない身の振り方であった。
何より家族が止めるだろう。
高貴であればある程、身一つで修道院に放り込むなど、それは死刑宣告と同義である。
もしくは、実際に社会的に排除されたのか……僕の興味は尽きなかった。
勿論、オットー曹長は寝たきりだから、排便の世話だってしなきゃいけない。
当然、女性である彼女にさせられる仕事ではない、と僕は気負ったのだが、
「伊達に歳はとっておりませんわ。オシメの取り換えから作り方から洗い方まで、貴官よりはずっと熟達しておりましてよ」
と、彼女はカラカラと笑ってみせた。
事実、僕だけじゃオットー曹長のオシメを換えることなんて出来なかった。
女史にやり方やコツを教わって、ようやっと僕もオシメの取り換えができるようになった。
どこからどう見ても貴婦人にしか見えないのに、病人の介護が上手いなんて、どう考えたっておかしい。
だけれども、何でそんなに貴族っぽいのにおしめの変え方が上手いんですか、なんて訊ける訳もなく。
そんな釈然としないような疑問を胸に、僕はベネディクタ女史に手伝ってもらって、今日もオットー曹長の介護をするのだった。
◆
『♪〜〜♬〜〜』
朕が展開した、襲撃を警戒したシーキングスフィアのオドの波に混じって、鼻歌の様な朧気な音階が聞こえる。
『♪♪〜♫〜〜』
まるで水平線を逆さにした様な、颶風猛り荒ぶ鉛灰の凍雲の下、轟音とともに大気を断ち割って飛翔する飛行箒の上で、鼻歌など聞こえるはずが無い。
渦巻く大気の爆音に掻き消されて聞こえるはずの無いそれを、朕が感じ取れたのはそれが音波ではなかったからだろう。
アップテンポな旋律が織りなすその波動は、どこか体の芯がムズムズと動き出したくなるような、寒風に晒されて凍える体をほっこりと優しく照らす陽光のような、そんな奇妙な感覚を朕に励起する。
朕の体内のオドが、その旋律に触れた瞬間にクルリと宙返りをする様に新たな角運動量を得て陽気に踊りだすかの様であった。
『また新しい曲を教わったのか?』
最近、ヘーリヴィーネが「淑女たるもの、碩学以外にも教養が必要です」などと言い出してライラに音楽を教え始めた。
そこで覚えた旋律を最近のライラはよく口ずさんでいる。
チャントに乗せた朕の問に、前席でリズミカルに身体を揺らしながら飛行箒を操縦するライラが肩越しに朕へと振り向いた。
『うううん。テキトー』
何でも無いかのようにチャントでそう告げると、また前を向いてリズミカルに身体を揺らしながら操縦に集中しだすライラ。
昨日一泊したシュヴェップ村での経験がライラの自信になったらしい。
実際の治療はオフェーリアが行ったとはいえ、ライラが空間転移が出来るようになって、アリアドネが姦し娘1号の腹の中に用意した医薬品を遠隔地に届けることが出来るようになったからこそ、オフェーリアも無事に治療を終えることが出来たのだ。
実際の治療は医者であるオフェーリアが行うことになっていたとはいえ、ライラは昨日までは緊張した面持ちだったのが今日は肩の力も抜けてどこか溌剌としている。
そのせいか、弾む心のままに口遊む鼻歌はいつもにも増して、聴く者の感情を心地よくくすぐる。
「なんか、聞いてると暖かくなるわね!」
と、ライラの後ろで猫のように丸くなったオフェーリアがライラの背中で風を避けながら漏らした感想であった。
彼女の言う通り、ことヒトの心に『楽』の感情を芽吹かせる効果に限定すれば、嘗て書字師の仕事をした時に作っていたタリスマンよりも余程強い様に朕には感じられた。
ライラは『テキトー』等と称しているが、アンプロンプテュにしては碩術的な効果の強すぎる『テキトー』であった。
ライラは音に対する感受性が高い。
正確には、波動に対する親和性が高い。
朕も専門家ではないので詳しくは解らんが、どうも共感覚の気がある様である。
これは以前から朕も気づいていたことであった。
共感覚とは、何らかの刺激を受けた時に、2つ以上の感覚器が同時に反応を示す者を指す。
"レ"の音を聞いたらレモンのような酸っぱさを感じたり、手や肌で触った感触によって特定の色が見える、などなど、2つ以上の感覚器や器官が外部からの刺激に対して連動する特徴、と思ってもらって差し支えない。
ライラの場合、これが音波、つまり聴覚と触覚に対する刺激に対して、人体におけるオドの源泉である『フォージ』が連動するのである。
最初、ライラの共感覚の資質に気づいた時、朕はオドの放射を受けるとそれを聴覚で感じ取ることができる程度の能力と考えていたのだが、最近、実はそうではなさそうだと言う事が判ってきた。
『音楽』とは、音がヒトにどのような影響を及ぼすのかを、太古の昔より研究してきた学問であり、音の組み合わせによってヒトに特定の感情を喚起させることを目的とした、列記とした技術体系である。
例えば、複数の音の重奏である和音をヒトが聞くと、それぞれの組み合わせにより『明るい』だとか、『暗い』などの様々な印象を抱く。
逆に言えば、音はそのコードが持つ『雰囲気』から、聴く者に特定の印象を植え付けることが出来るのだ。
これらのコードには、長い研究の歴史の果てに、演奏する種類と順番によって、ヒトに『心地よい』『楽しい』などの特定の感情を狙って喚起させる特定のパターンが存在する事実を突き止めている。
様々なパターンの組み合わせ、更にはそれによって引き起こされる共鳴や反響なども計算する、複雑で繊細な理論、それが『音楽』の真髄であり、『音楽』とはこれらの音が持つ特性を駆使して、ヒトの感情を操作する技術とも言えた。
ダイアトニック・コードや、ドミナント・コード、コード・プログレッションなどとして知られるそれらの理論を学んだ――元々親和性が高かったせいか、こと音楽に関してはヘーリヴィーネに拳骨を貰わずに済んでいる様である――ライラは、最近では歌うと同時に、自身の演奏や歌唱に連動したフォージから無意識の内にオドを編み出しては、ヘーリヴィーネに習った『音楽理論』に則ったコードの放射を行う様になってしまった。
これが矢鱈と聴く者の感情に刺さる。
元々、オドを使った情報のやり取りは、やりようによってはマインドクラックの様に直接的に相手の思考に作用させることが出来る技術である。
オドとはそれ程ヒトを構成する要素に対する影響力の強い物であり、ライラの放射するオドはどうやらヘーリヴィーネが教えた『音楽』の理論に沿って、コードに連動した周波数、角運動量を持つオドを放射しているようなのであった。
今もライラは鼻歌を歌っているだけなのだが、彼女のオドの放射を受けている朕には、今にも軽快なステップを踏み出したい衝動に駆られている。
ライラの後ろで丸くなっているオフェーリアもなにやら寒さで震えるのとは別の種類の顫動でもってその身体を揺らしている。
ぶっちゃけ、何だかよくわからんが、兎に角楽しい。
何だか怪電波でも受信しているようで薄気味悪いが、心の奥底からふつふつと湧き上がるこの軽快なビートには逆らえない。
ライラは無意識ながらに『音楽理論』的に『楽しくなる』オドを放射しているのだ。
悪意は無いのであるが、最近のライラの鼻歌は立派な精神攻撃とも言える領域に至りつつあった。
『音楽』を教え始めたヘーリヴィーネ自身もライラのこの資質に気付いて仰天した様であったが、
「弾き語りさせるんですっ!絶対弾き語りさせてみせますッッッ!」
などとガブリ気味に意気込んでおった。
理論は完璧でもその生い立ち故か――大体力技で何とか成るので細かい調節が苦手なのである――実践するのは苦手な所が有るへーリヴィーネは、こと歌唱に関してはぶっちゃけ音痴であった。
自身が出来ない弾き語りに、割と強めの憧れがあったのかもしれない。
アレである。娘に矢鱈と楽器を習わせたがる母親のようなものである。
まぁ、確かに『歌唱+楽器+弾き語り+少女』と言う組合せはそれだけで胸アツなのに、ライラの場合は音を奏でると自然と感情を揺さぶるオドが垂れ流されるのだ。
色々な意味で破壊力が高いのは言うまでもない。
『効果はバツグン』である。
うむ。そのアイディアは頗る良い。良し、やろう。
という事で、アリアドネも呼び寄せての慎重な検討の上、積極的にこの資質は伸ばしていこう、という事に相成った。
まぁ、楽しくなる事を忌避する者もおるまいて。
むしろ、どんな楽器を習わせるか、と言う議論が紛糾した。
喧々諤々甲論乙駁の議論の末、ライラには『ビウエラ』と言う、瓢箪型でサウンドホールと言う大きな穴の上に共鳴板を被せ、その上に張った金属製の12弦を弾いて演奏する撥弦楽器、所謂『アコースティック・ギター』の様な楽器を習わせる事と相成った。
『アコースティック・ギター』との違いは弦の数が多い分、音階が幅広く、ギターとは違ってサウンドホールにリゾネーターと言う共鳴器を備えているのでより大音量で演奏が出来るのが特徴である。
選定の理由は単純に弾き語りが出来て、なお且つ演奏出来る曲の幅が広いからである。
酒場で屯する|"流し"の楽師の内、必ず一人はこの楽器を持っている程度には、何でも弾ける楽器であった。
ライラもこの『ビウエラ』と言う音域の広い楽器が気に入ったようで、ヘーリヴィーネが取り寄せた初心者用の『ビウエラ』を与えてからというもの、暇さえあれば夢中になっていじり倒している。
既に幾つかのなかなか難易度の高い曲もそこそこ弾けるようになっている。余程気に入ったらしい。
こうして、飛行箒を駆って弾き語りが出来る少女には目処がついた訳だが、さて次は何を仕込もうか、などと次なるライラの『パーフェクトレディ化計画』の青写真を夢想しつつ、ライラの軽快な鼻歌を聞きながら、朕たちは次なる要救護者が待つカデン高原南部の修道院へと向かうのであった。
ビウエラ=現実世界ではギターの元になった楽器です。
この世界ではビウエラの方が普及しているようです。
弦の数を多くして、リゾーネーターを備えていることからして、多弦リゾネーターギターの様ですね。
なんであこぉすていっくぎたぁなんてもんがあるんでせうね。
(多分お気づきの方も居るかもしれません……)
実は剛田某は碩術師なのでは?(嘘ですすいません




