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朕は猫である  作者: 名前はまだない
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#49

 アチキの名前はツィツェーリア。ツィツェーリア・ヴィルへリンブルク。


 ヴィルへリンブルク、なんて御大層なファミリーネームが付いちゃいるが、それはつまり、タダの孤児ってこと。

 この国の孤児は皆そうだ。育った孤児院の所在都市名やら州の名前がファミリーネームになる。法律でそう決まってるんだと。

 出生届が出てない生まれたばかりの赤ん坊なんかは、孤児院に引き取られた時点で出生届が出されるから、そいつらは皆アチキと似たようなヴィルへリンブルクだのアム・マイン・フランダル卜だの、ラインツィヒだのとゴテゴテしたファミリーネームを付けられることになる。


 お陰で名乗るだけで「私は孤児です」って叫んでるようなものだ。

 孤児はまともな仕事につけない。

 どうしたって新しい奴を雇うときは、雇う側からすれば一種の賭けになる。ソイツがどんな奴かなんて、雇ってからしかわからない。もしかしたら、表面上だけキチンとしてるのに裏では店の商品をちょろまかすような奴かもしれない。

 そのリスクを担保するのが人の縁と言うヤツだ。


 何処そこの家の誰々なら、もし当人が何か不義理をしたとしても親兄弟に詰め腹を切ってもらえば良い。

 だから、ファミリーネームってのは、親が居る奴らが考えるよりも現実社会では重いのだ。


 それが無い孤児はどうなるのか。

 先にも述べたが、親持ちと並んだ時、孤児が選ばれる可能性は限りなく低い。

 それこそ、孤児は御国にファミリーネームを貰って、御国のために尽くすために軍隊に入るくらいしか道は無い。


 いや、表面上は「親に捨てられた可哀想な子は、慈悲深き御国が親と成る」なんて言われちゃいるが、それはある意味で孤児の進路を意図的に限定するための装置だった。

 しかも、男共はそれでいいかも知れない。

 軍隊に入れば飯と寝床は御国が用意してくれる。食いっぱぐれる事は無い。味は知らないけど、多分腹を空かせて倒れるようなことはない。退役すりゃ、年金が貰える。田舎で土地買って畑でも耕せばいい。

 だが、女の孤児はどうだ?


 女は余程のことがなければ軍隊には入れない。

 碩術師様なら話は別だが、何の能力も持たない女の餓鬼を『御国を守る番兵』として受け入れちゃくれないのさ。


 するってーと、女の孤児が選べる選択肢は多く無い。

 容姿が良い奴、スタイルが良いヤツ、そんな奴らはもしかしたら連れ出し酒場の給仕とか、もしかしたら娼館に入って売れっ子になれるかもしれない。そしたら、金持ちに見受けしてもらって、後妻辺りに収まれる可能性もあるだろう。

 ぽっくり逝く直前のジジイだったら、なお最高だろう。

 だが、それも無い様な、アチキみたいな不細工のチビが選べる選択肢は?



 「……今月も売上が良くねぇな」



 そう呟いたのは、部屋の一番奥のデスクで年中不貞腐れたような顰めっ面に、これまた年中煙を吐き続ける変なカタチ(オームポール型)のパイプを咥えた壮年の男だった。



 「はぁ、左様(さい)で」



 その男に背を向けて、アチキは自分のデスクで来週発行予定のゴシップ誌の原稿を藁半紙に向かって書き付けていた。

 孤児院には感謝している。文字と計算は教えてくれるから。



 「さいで、じゃねーぞ。テメーの給料だって、払えねぇかも知れねぇんだぞ」



 変なカタチのパイプを吹かしながら、アチキのボスであるアドルフが物騒なことを言う。


 そりゃ困る。でもそれはアチキにゃ如何ともしがたい。

 アチキは、尻を拭く紙よりも価値の無い――ウチの新聞で尻を拭いたら尻が黒くなる。使ってるインクが安いから――底辺ゴシップ紙を発行する新聞社で記事を書いている。

 所謂、ブンヤって奴なんだが、書いてる記事が記事だけにブンヤとも呼んでもらえないような立場だ。


 書いてる記事といや、娼館街の体験記――これ、女のアチキが書いてるって時点でどんな記事か想像できるでしょ?お陰で矢鱈とテク(・・)に詳しくなってしまった――とか、嘘か誠かわからない殿様のゴシップ――これだって事実に基づいていたり対象が大御所だったりすると、その殿様が怒り狂って官憲がカチ込んでくるから、当たり障りが無かったり、書いても問題の無い傾きかけの貴族の話を選んで書いている――を盧別幕なし書き立てているだけだ。時には幽霊だの怪物だの都市伝説の話だって扱う。

 将に、『発行日以外は全部嘘』と言われたって仕方のない内容だった。


 内容だって、両面刷り二つ折りの大判紙一枚のみのと、新聞と読んで良いのかさえ怪しい物だった。

 だから発行部数なんて雀の涙程度だ。という事は、アチキの給料だって雀の涙だ。

 日々食いつないでいくのにも精一杯の額しかもらってない。


 だのに、それを払ってもらえないとなれば一大事なのだが、こんな嘘しか書いていないゴシップ紙の売上をアチキが何とかできるわけがない。

 まぁ、拾ってもらった恩は有るのだが、部数が伸びない理由の2つ目は編集長であるアドルフが毎号かなりのスペースを割いて掲載する社説と言う奴が原因だとアチキは思うんだ。

 毎度毎度、帝室の批判から始まり、体制に対する罵詈雑言に、『革命』とか銘打った妄言を呼びかける何処に宛てられたのかも分からない檄文調の社説が掲載されてりゃ、誰も買わないし読まない。


 良く官憲の強制捜査(ガサ)入らないもんだよウチ。その位、ウチの新聞は読まれてないってことだね。

 アドルフは何処か得体のしれない怪しい奴らとつるんでるし、正直一緒に居たくはないが、チビでブスで孤児のアチキにゃココ位しか雇ってくれる所がない。

 全く、糞ったれ。



 「お前、もっと部数が伸びるような面白い記事を書けねぇのか?」



 アチキが書いた原稿だって、印刷前の紙面だって、一度だってチェックした事ないくせに。

 というか、この新聞社にはアドルフの他にはアチキしか居ない。誌面だって、アチキが毎回一生懸命一人で埋めているのだ。

 アドルフは自分の主張を書き綴った原稿を書く以外はただ自分の席に座ってパイプを吹かしているだけなのだ。


 アドルフにとってアチキは紙面を埋めるための機械でしか無い。

 奴は取材だって一度もしない。だってのに、誌面の最後には必ず主筆として名前を載せてる。

 自己顕示欲が強いのか、それとも単なる怠け者なのか、それとも既に諦めの境地に居るのか。

 多分最後の奴だと思うわ。


 拾われる前はどうだったのか知らないけれど、この男もアチキと同じで社会から爪弾きにされて、裏でどんな活動しているのか知らないけれど、将来に光を見出している訳では無さそうであった。

 それこそ、こんなお巡りすら歯牙にもかけない様な反体制活動を続ける事が既にこの男のアイデンティティになっているのかも知れない。



 「……なぁ、ツィツェーリア、今夜飲みに行かねぇか?」



 「あ、すいません。アチキ、今日予定あるんで。失礼します」



 リリリン、と短いベルが終業時間を告げるのと同時、妙な猫なで声でそんな事を言い出したアドルフに短く挨拶をして、アチキは書いていた原稿を放り出して、慌ててアドルフの自宅兼編集部が入っている場末のボロアパルトメントの一室を出た。


 締め切りが割と近いのに原稿の進捗が宜しくないので、本当はもっと残って原稿を書かなければならないのだが、あのままアソコに居たら何をされるかわかったもんじゃない。

 穴があれば何でも良いって考えが見え見えのクソオヤジと飲みに行く気などさらさら無いし。テメーはもっと明るいところで鏡と財布の中を確認してから物を言え。

 軋む急な木製の階段を壁を頼りに降りながら、アチキは困ったもんだと溜息をついた。


 部数が捌けてないのは前からだったが、最近は特に部数が減ってる。デタラメ記事とはいえ、一応取材して記事は書いてるし、取材して色んな職業の人間の話を聞くのは楽しいから、それなりにこの仕事は好きなのだが、部数が出ないのはアチキのお財布を直撃する。それはタダでさえギリギリの生活をしているアチキにとっちゃ死活問題だ。

 最近、戦争の影響で官営工場がフル稼働してて、盗人でもなんでも雇い込んでるらしいので、そっちに転がり込めないものだろうか、なんて考えながら家路を急いだ。

 のだが。



 「やぁ、お嬢さん。御機嫌よう」



 その男は、アチキがいつも晩御飯を食べている幾つかの安酒場の一つで、いつものように一番安い定食を頼んだアチキと同じテーブルに断りもせずいきなり座って来た。

 カーキ色のうらびれたジャケットに無精髭。そして、目を見張るほどのイケメンであった。


 あー、ハイハイ。詐欺ですね本当にありがとうございます。

 チビでブスの冴えない喪女だからって馬鹿にしてんじゃねぇぞ。



 「……君は、同志かい?」



 唐突に詐欺野郎が声を潜めるようにそんなことを言う。

 何言ってんだコイツ。宗教の勧誘か?

 視線を逸らして無言で定食を待つ。

 そんなアチキの態度を笑顔で見つめる詐欺野郎。すると、突然厨房を兼ねたカウンターに向かってコインを一枚、指で弾いた。



 「マスター、エールを二つ」



 さして混んでもいない店内を放物線を描いて飛んだコインは、調理中の手を止めた店主が挙げた左掌に吸い込まれた。

 手の中身を一瞥する店主。



 「馬鹿野郎。キザなことすんなら丁度の額を寄越しやがれ。手が塞がってんだろうが。見てわかんねぇか」



 怒気を孕んだような低い声が飛ぶが、詐欺野郎はそれに臆することなく、やや芝居がかったように肩をすくめた。



 「察してくれよ。解るだろ?」



 「ケッ。ウチは2階は貸してねぇからな!」



 吐き捨てるように舌打ちをした店主は、エールの樽から柄杓で木製のジョッキにエールを注ぐと、アチキたちの前に勢いよく置いた。



 「有難う」



 そう言って、詐欺野郎はまた店主に向かってコインを弾く。

 またもや狙い澄ましたように店主の手のひらに吸い込まれたコインを一瞥して、店主は片眉を釣り上げると舌打ちをもう一つして肩を怒らせて帰っていった。

 は?ちょっと待ってよ何それ。アチキ、お持ち帰りされる事になってんじゃん。巫山戯んじゃないわよ。



 「じゃ、乾杯」



 そう言って、アチキが手を出さずにテーブルに置かれたままのジョッキにコチン、と当てて(チアーズをして)、エールを半分ほど飲み干した詐欺野郎。乾杯なんかしないわよ。誰がアンタなんかにお持ち帰りされるもんですか。



 「そんな警戒しないでくれよ。少し、君を知りたいだけなんだ」



 その言葉は何故かアチキの耳には蕩けそうな程、甘く響いた。

 嘘でしょ。アンタ、自分の事をなんだと思ってんの?孤児でチビでブサの底辺女でしょ。こんな見た目だけは良い男がアンタを本気で口説きに来ているわけがないでしょ?詐欺よ。間違いない。思い上がらないでアチキ。無視。無視よ。もう晩御飯なんかどうでも良いから帰っちまえ。

 だのに、何故だか、アチキは、席を立つことが(・・・・・・・)できない(・・・・)



 「……僕は、少し人の相を見る目があってね。君の生い立ちとか、君が最近悩んでることとか、当てて見せるけど、どう?」



 帰れ!今直ぐ!その目の前のエールを詐欺野郎にぶっかけて!

 だのに、何故だか、エールに伸びたアチキの右手は、そのエールをアチキの口元へと運んできた!

 何考えてんだ!

 詐欺野郎の吸い寄せられそうな翠の瞳が怪しげな光を放っている様で、目が離せない。

 目が、離せない!



 「……成程。沢山、辛い思いをしたんだね」



 瞬きもせずにアチキを見つめながら吐き出されたクソ野郎の言葉がアチキの神経を逆撫でする。

 クソ野郎!テメェ!アチキの何を語る気だ!畜生!その綺麗な顔にフォークを突き立ててやろうか!?

 だが、次に続いた詐欺野郎の言葉に、アチキは息を呑んだ。



 「君を棄てた母親に、会いたいかい?」



 何故、アチキが孤児だと解った?!



 「それとも、復讐したい?」



 詐欺野郎の言葉はもうアチキの頭には入って来なかった。

 詐欺野郎の瞳が、柔らかな翠の光を放っている気がした。

 優しくて、落ち着いて、なんだろう。この人なら、アチキの事を全て受け入れてくれる気がした。

 今まで、誰にも受け入れてもらえなくて、孤児だからと爪弾きにされて来たのに。


 この人なら、受け入れてくれる気がする。なんでそう思うかって?解らない。でも、そんな気がする。あの、美しい翠の瞳に宿る優しい光が、そう訴えかけてくる。

 ……これって、もしかして運命って奴なのかしら?

 ――アチキ、貴方の為なら……何だってするわ。



 「……成程、君に任せる事にしよう」



 今なんて言ったのかしら。今、アチキ、何を思った?

 解らない。でも良いわ。この人なら、身を任せてもいいと思うの。


 それからの事は良く覚えていない。

 多分、あの人の奢りでお腹いっぱい食べて、お酒もちょびっと飲んだかも。お腹いっぱいなんて、久しぶりだったかもしれないわ。

 で、家に帰って、ぐっすり寝た。


 朝起きて、いつもはそのままコートを羽織って、カバンを背負って家を出るのに、その日はいつ買ったかも忘れてしまったサイドチェストに置いてあった手鏡に映った自分の顔を見咎めてしまった。

 ……何だろう。アチキの顔、もっとブスだったと思ったのに。

 なにをトチ狂ったのか、そんな思いが過ってしまった。


 ヘタった藁が詰まったベットに腰掛けて手鏡を覗くと、アチキは思わず一度も使ったことのない紅の小さなブリキ缶の蓋を開けた。

 中身は案の定、既に干乾びていた。でも木の雨戸に結露した露を指にすくってちょっと擦ると、指先がくすんだ赤色に染まっていた。

 それを、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、下唇に指してみる。


 ……何やってんだろ。

 アチキは革のショルダーバックを掴んで家を出た。

 いつもの通りにアドルフの部屋に行くと、アドルフがコーヒーを飲んでいた手を止めてポカンとアチキを見つめていた。



 「……お前ぇ、どうした?」



 どうしたって、何よ。



 「何か変ですかね?」



 「……何か、目ん玉グルグルしてねぇか?」



 「何言ってんですか」



 「い……いや、何でもねぇ」



 変な奴。

 アチキは自分の席に着いて仕事を始める。丁度、壁掛け時計がリン、と始業の時間を知らせたところだった。


 アチキはカバンから何枚かの写真を引っ張り出して、その内容を記事に書き起こし始める。

 ――カデン高原中央部で起こっているテルミナトル帝国とラサントス邦国との戦闘についての詳報をお伝えする。現在両国はカデン高原中央部にて塹壕戦に突入しており、両者は互いに出血を強いる損耗戦へと移行した模様である。陣形については別添図を参照されたい。ラサントス側は北東部の塹壕陣地建設が遅れている様であるが、その分を支援砲撃陣地の拡充にて補っている模様である。別添図に示したA、B、Cが主支援陣地であり、各陣地それぞれ100門程度の臼砲を備える模様である。一方……。


 なんだか今日は調子がいいわ。スラスラ記事が書ける。

 ……アチキ、こんな取材したっけ?


 まぁ、良いわ。なんだか今日は気分が良い。この分なら、締切には全然間に合いそうね。

 アチキが鼻歌を歌い出したのを見て、アドルフが目を見張っていたが、全然気にならない。


 アチキはこの記事を書かなきゃいけないの。それが、アチキの使命なの。邪魔しないでくれるならなんでも良いわ。

 それから、アチキは寝食も忘れて記事を書き続けたのだった。 











テルミナトル帝国カデン高原東麓

カーリスバーグ、テルミナトル帝国軍総司令部




 余、アウグスト・ヴィルヘルムは夕食と軍議を兼ねた早晩の会合の席で、自身の参謀長であるミハイル・アーレルスマイヤーが持ってきた大判一枚しか無い貧相な紙面に視線を落としたまま、瞼が激しく痙攣するのを感じていた。



 「……どう言うことだ?臨時集成碩術化戦闘団(対空邀撃特務大隊)は何をしていたっ!?」



 それは、検閲した出版物の中から発見され、鉄道を使った公用使によって『緊急』の付箋が貼られて司令部まで届けられたものであった。

 反体制派として監視対象だった、新聞社とも呼べないような、ゴシップ記事を扱っている発行者から先日発行された隔週紙。2日前の物であった。



 「我軍の塹壕陣地が丸々全部載っているではないか!」



 そこには、今現在カデン高原中央部にて展開されている我国とラサントスとの戦況概略がかなり正確な模式図付きで掲載されていた。我軍の陣地のみならず、ラサントス側の詳細な陣容も確認できる。

 そんな記事が書かれたそのゴシップ紙は、ラサントスでも販売されていることが過去の調査から確認済みであると言う。


 国内での販売は検閲のお陰で停止させたが、国外に出る物は検閲の対象外であった。検閲は国内の不穏分子統制のためであったから仕方のないことであったが、今後改善が必要である。

 つまり、間違いなくラサントス当局は疎か今現在我々が対峙するラサントス侵攻軍(・・・)司令部でもまず間違いなくこの記事を確認している筈であった。

 余の怒声に総司令部の天幕で晩餐の給仕をしていた小姓がビクリと肩を振るわせるのを無視して、新聞を持ち込んだミハイルを見やった余の視線の先で、直立不動で佇む彼は至極不快を隠そうともしない渋面を作っていた。

 余と晩餐を共にしていた将官たちもその記事を見て、見る間に顔面が般若の如く歪む。



 「小官としては対空邀撃特務大隊(エメリッヒ支隊)が敵斥候の侵入を許したとは考え難く、情報源は別であると愚考致します」



 余の傍らで直立不動のまま、眉根を寄せた渋面も絵になるとはつくづくこのミハイルと言う奴は女殺しだな、などと考える余裕は余にはなかった。

 カデン高原を舞台として我軍が計画した電撃戦がラサントスの奇襲により敢え無く失敗してからと言うもの、戦況は膠着状態に陥っていた。

 互いに塹壕を掘って対峙し、新たな塹壕を掘り進めては相手の掘り進めた前線塹壕を砲撃して潰し、敵塹壕陣地を突破すべく突撃しては敵の未知の塹壕陣地からの防御射撃によって攻撃部隊が壊滅し、一方で敵の攻撃部隊を前線塹壕陣地を囮に別の塹壕陣地からの防御射撃によって敵攻撃部隊を壊滅させ、半壊した前線塹壕陣地を復旧し、存在が敵に露見した防御陣地を援護するための新たな塹壕陣地を構築し……そんな戦いが既に3ヶ月は続いていた。


 塹壕戦とは、敵の知らない陣地や伏兵をどれだけ配置できるかと言うことが最も重要な要素であり、敵の陣地情報をいかに集められるかが戦局を左右する。

 前線塹壕は敵の塹壕からでも見えているだろうが、その後ろに何があるのか判らないという恐怖が抑止力となり、逆に言えば敵に出血を促す効果を発揮する。余も先日まであまり実感が無かった塹壕戦だが、実際にやってみると塹壕戦とは全戦争遂行能力を総動員した非常に神経を使う総力戦であった。

 塹壕の形、位置、それぞれの援護関係、連絡状況などなどを上空から俯瞰されたらどこをどう攻めれば良いのか、我々でも判っていない弱点が敵に一方的に露見して、戦線全体が窮地に陥る危険性が有るのだ。


 その為、塹壕陣地の全体像を敵箒兵の斥候に見られないために組織されたのが、カデン高原の初戦にて大きな戦果を上げた箒兵部隊を拡大して編成されたエメリッヒ支隊であり、彼らは現在の戦況を支える要でもあった。

 従前より箒兵の運用法については議論が盛んであったが、何分編成に金がかかりすぎる上に物理的に頭数を揃えることが難しい箒兵は携行できる武装が少なすぎるが故にあまり戦況を左右する存在ではなかったが、此度の初戦において偶然開発された従来よりも大隊規模の集団運用と、爆撃部隊(アタッカー)護衛部隊(エスコート)という専業化と言う改良を加えられて、我軍でもラサントスでも一躍主戦力へと躍り出ていた。

 エメリッヒ支隊はこの敵爆撃部隊と護衛部隊の混成集団に加えて敵斥候(スカウト)の侵入を邀撃する為に集成され、我軍の防空を一手に担っている。



 「では、どこの誰が我軍の塹壕情報を漏らした!?」



 激昂する余にミハイルが渋面のまま答えた。



 「幾つか情報は掴んでおりますが、今はそれどころではありません。兎に角、前線部隊を退避させなければ、全戦線が致命的な打撃を被ります。幸い、この記事には敵の情報も載っております故、この情報を元に速やかに砲兵隊による全力支援砲撃を全戦線で実行し、その間に前線歩兵部隊を下げつつ、新たな防御陣地を後方に再構築するのが宜しいかと。それこそ、全軍総出、予備戦力も工兵部隊として徴用しましょう。兎に角、撃ちまくりつつ下がりつつ、新たな塹壕を掘らねばなりません」



 「直ちに前線将兵の後退準備を開始します」



 「明朝までに砲撃準備を完了致しましょう」



 ミハイルの考察を聞いた途端、夕食を摂りながら行われていた軍議に出席していた各方面の将官たちが、欠食児童もかくやと言う勢いで飯を掻き込んで次々と席を立つ。余もミハイルの意見に異議はなかった。



 「良し。明朝、前線を下げる。砲兵隊は援護。詳細は追って命令書で指示する!」



 本当であれば今すぐ動きたいところだが、既に陽は落ちて宵闇に包まれている。今下手に兵を動かせば、転んだやら何やらで要らぬ損害を被る可能性が高かった。前線では行燈(ランプ)くらいしか光源が無い上に今は敵砲撃を防ぐために灯火管制を敷いている。

 砲兵に関しても同じだ。こんな光源の乏しい中で砲撃しても、着弾観測ができないので全く命中が期待できない。弾の無駄というものだ。

 バタバタと慌ただしく駆けていく将校たちが巻き上げた砂埃で少々埃臭くなってしまった司令部の天幕で、居残った司令部付きの将校たちと共に余も夕食を食う手を早める。



 「ミハイル、貴様、情報を幾つか掴んでいると言ったな?どこの仕業だ?レグランディスか?」



 その可能性は高い。何しろ、此度の戦争も天上大陸が原因なのだ。同じ天上大陸であるレグランディスが画策している可能性はあった。第二の天上大陸が今次戦争に介入して来たのであれば、それは由々しき事態である。



 「その可能性は否定できません。しかし、それ以外の可能性も考えられます」



 「勿体ぶるな。お前の悪い癖だ」



 モゴモゴとローストされた鶏肉を口の中に突っ込みながら端正な渋面のミハイルを促す。



 「これは未だに確認が取れているわけではないのですが、兵たちが『ロートリヒ(赫燦の)・シュラーク(雷鳴)』と呼ぶ碩術師をご存知でしょうか?」



 「知らん」



 拳大のパンを一口で嚥下し、器から直接スープを喉に流し込む。行儀など気にしている場合ではない。



 「最近、前線で変わった形の赤い飛行箒に乗った碩術師の目撃情報が幾つも上がっております」



 なんだその変な名前は?雷鳴なのに赤く光るのか?



 「エメリッヒの奴は、そんな奴を野放しにしておるのか?」



 「遠雷の様な轟音を立てて急加速するそうです。凄まじい排気炎を引きながら飛ぶのだとか。何人か近衛にも遭遇した奴が居りますが、全員瞬く間に振り切られて乗り手の詳細は確認できなかったとか。エメリッヒを責めないでやってください。先ほど様子を見に行った時には、彼奴は顔面のありとあらゆる穴から体液を滴らせながら短銃を口に突っ込んでおりました。短銃を取り上げるのは一苦労でしたよ」



 「……つまり、そいつは地上人ではないのだな?」



 「…… いえ、それは……判りません」



 ミハイルには珍しく、口を開いてからそれが何を示すのかに気がついて尻すぼみにトーンダウンしてしまった。

 余には、エメリッヒを断罪する気はない。いや、此度の事態に対する湧き上がる怒りの矛先を探してはいたけれども。今の所、エメリッヒはその対象ではないことはわかっていた。



 「いや、エメリッヒはお前で何とか慰めてやれ。天上人が関わっている可能性があるならいくら奴でも荷が勝ちすぎる」



 そういう事にしておこう。

 地上世界の飛行箒も後方から排気を吹くが、排気炎が見えるほどの強力な排気をしてしまえば、たちどころに飛行箒自体が燃えてしまう。金属製の飛行箒も研究されてはいるが、どうしても重くなってしまう割に推力が低くて使い物にならない。それが光り輝くほどに排気炎が見えるのならば、余程の推力を持った飛行箒であると言うことだ。そんな物、地上世界で作れるわけがない。

 なら、下手人は天上世界人だと考えるのが自然なのだ。



 「しかし、何処の者だその思春期特有の物煩いの様な渾名の野郎は。いや、野郎かどうかもわからんのか。レグランディスではないのだな?」



 こう、なんであろう。その痛々しいまでの二つ名が少し羨ましいのは多分余の気の迷いであろう。そうに違いない。最近疲れているしな。



 「レグランディスであれば、こんなマイナーな新聞にリークして記事にさせる事は無いでしょうし、しかも我国とラサントスに分かる形で公開する事は無いでしょう。秘匿するか、我国かラサントスのどちらか一方にのみ情報を流すと思われます」



 確かにその通りであった。では、何故?



 「と言うことは?」



 余の問いかけに、ミハイルは渋面を深くする。あ、これは悔しがってる顔だな。



 「……残念ながら、現段階では、此度の記事の意図を明確には御回答出来かねます。申し訳御座いません」



 ……この顔を見るために金払う女どもがゴマンと居そうだな。



 「良い。引き続き情報収集を続けよ。それと、メイザールの方はどうだ?何やらエールスリーベ教団がメイザール艦隊の母港を占拠したと聞いたぞ。メイザールは艦隊派遣を諦めたか?ゼールヴッフェに回す戦力は抽出できそうか?今、メイザールの艦隊が襲来したら一溜まりもないぞ」



 「正確には、メイザール艦隊の母港の一つでありますが、詳細は不明なれど未だにメイザールは艦隊を出撃させてはおりません故、エールスリーベ教団には感謝しかありませんな。しかし、こちらがこの有様ですから、ゼールヴッフェに回す余剰戦力はありません。こちらの主力部隊からゼールヴッフェに派遣する部隊を抽出するのであれば、空いた穴は予備役と新兵を掻き集めて埋めるしかないでしょう」



 後背は未だ不安なれど、喫緊の危機は未だ先、と言う風に見える。

 この『今現在はまだ差し迫ってはいない』という感覚が、余たちがただそう錯覚しているだけではない、と思いたい。



 「仕方がない。予備役の招集を急いでくれ」



 つまり、今はやれることをやるしかない。その砂一粒一粒の積み重ねが閉塞した状況を打開する鍵になるやも知れない。

 余は最後に添えられたデザートの果実の砂糖漬けを粥のごとく流し込むと、その砂一粒を積み上げるために席を立つ。


 軍隊とは、進めー前!と号令をかければ移動できるわけではない。

 号令をかけるには命令書の発行が必須だし、その命令書は各部隊・指揮官の数だけ必要であり、その全てに余を始めとした司令部詰め将校たちのサインが要る。

 つまり、今夜は眠れない。と苦笑いを溢していたのだが、現実はそんなに甘くはなかった。



 「夥しい数の敵砲撃炎を確認!味方砲兵隊が敵発射点に対して全力応射を開始!敵は全戦線で燭燐弾を打ち上げて物凄い勢いで砲撃をしております!まるで、奴ら備蓄の砲弾まで全部射耗し尽くす気のようです!」



 まさか、ラサントスは夜間に砲撃を仕掛けてきた。

 夜間砲撃は最初から精度など期待できない。幾ら照明弾を打ち上げても、暗くて着弾地点を正確には確認できないからだ。暗闇では距離感も狂うからな。

 にも関わらず、あえて夜間に砲撃を開始した意図を、余たち司令部は計りかねた。


 そんな敵の意図が解らない状況が、司令部の混乱を更に深めていく。

 翌朝の撤退支援砲撃を準備していた我軍の砲兵隊は即座に敵発射点に対して応射(カウンターアタック)を開始。


 月の無い暗闇の中、地平線が赤く燃上がる様に見える壮絶な砲撃戦が開始された。

 夜の帳の下を少しでも照らそうと、双方必死に燭燐弾を撃ち上げるが、それでも着弾点を正確に観測するにはどうしたって光量が足りない。

 両軍共に殆ど盲撃ちの状態ではあったが、兎に角、敵から砲撃があったのなら、砲兵たちは発射炎が見えた方向に全力応射し続けた。それは砲兵の『習性』であった。

 例えそれが見当違いの方向であったとしても、応射するか、しないか、で敵弾の命中率というものには倍も差が出るものだ。


 敵が撃ち返して来ないのならば、誰でも訓練通りに一寸の狂いも遅れも無く動くことができるだろう。

 だが、例え実際は敵は見当違いの場所を狙っていて、着弾地点も明後日の方向だったとしても、それが概ね自分の方を向いて撃ち返されているのだとしたら?

 どんな古強者でも訓練通りには行かない。人の目には見えない寸分の狂いが、数オクス先では何十ショークものズレとなる。

 だから、砲兵隊はそれがどんな砲撃であろうが、敵のその砲撃に戦術的には明確な意味など有ろうが無かろうが、敵の砲撃であれば即座に撃ち返さねばならない。例え見当違いの所に砲弾を撃ちこもうとも、それが味方を救う事に繋がるからだ。その様に、敵の砲撃音を聞いた瞬間、即座に反撃するように彼らは訓練されていた。


 そして、その砲兵隊の『習性』が、事態をさらに混乱させ始める。

 夜を徹して繰り広げられる壮絶な全力の砲撃戦によって、例え盲撃ちでも数撃てばなんとやら。次第に砲兵隊に被害が拡大し、遂には指揮官たちにも犠牲者が出始める。

 指揮官を失い停止命令を出す者を喪った状況でも、砲兵たちは従前の命令に従い懸命に砲撃を続けた。


 あっちで敵と思われる発砲炎を見つければ、えっちらおっちら砲身を動かして方向を修正し、角度を調整し、装填、発射。次弾装填。発射。別方向で敵発砲炎を観測しては、方向修正、敵砲撃で隣の味方砲が吹き飛んで、鉄片に混じって生暖かい屍肉が降り注ぐ中、それでも彼らは次弾を装填する手を緩めなかった。

 手を緩めれば、次に死ぬのは自分たちだと、訓練で体の芯にまで刻み込まれていたからだ。


 一方、塹壕の歩兵たちの方は、敵砲撃が始まった時点で全ての装備を棄てて我先にと後退を始めていた。先程、欠食児童も斯くやと言う勢いで飯を掻き込んで司令部から出て行ったあの将校たち前線部隊の指揮官が、現場の判断として独断したものであった。

 その頃、司令部は敵砲撃が開始された時点からラサントスの意図を図りかね、歩兵突撃が来るのではないかとの懸念を抱いて懊悩し、歩兵部隊への撤退命令を出せないでいた。塹壕に対する夜間歩兵突撃がどれだけ現実的ではないかを知っていながら。

 何故なら、それ程夜間の射撃や砲撃は精度が悪化するのだ。同士討ちすら頻発する。


 結果、司令部はラサントスの狙いが件の新聞記事を見て、敵も我軍と同じ様に『歩兵を撤退させる為に支援砲撃を始めたのではないか?』『我軍は明朝を企図したのに対し、敵は今すぐに撤退を始めたのではないか?』と言う、良く考えれば十二分にあり得る可能性に気付くのが大幅に遅れてしまった。


 その為、砲撃戦が始まってから一刻以上が過ぎた夜半過ぎなってようやくその事実を疑い始めた。

 やがてその疑いは確信に変わり、歩兵突撃を警戒して撤退命令を出していなかった前線の全部隊に対して敵砲撃による損害を回避する為に慌てて全力撤退命令を命じた指令書を超特急で作成して発行したのだが、それを当の前線部隊指揮官たちが独断による撤退の事実を事後報告するために司令部を訪れ、直属上官より『前線からの撤退命令が記された』指令書を手渡しされるという始末であった。

 当の手渡された指揮官は渋い苦笑いであったと言う。将に、混乱の局地であった。


 夜が明ける頃になってもラサントスの砲撃は止むことはなかった。ラサントスも我軍が応射するのでそれに対して応射していただけなのかもしれない。

 次第に各砲兵隊の砲弾備蓄が払底し出し、急いでカーリスバーグから輸送させるも、間に合わずに砲弾を撃ち尽くして砲を放棄する部隊が続出。

 その間、敵の状況を掴むために朝焼けを望みながら斥候として飛んだ我軍の箒兵に対してラサントスが大規模な箒兵部隊を展開した。


 もしかしたら、未だラサントスの前線歩兵は撤退の途上にあり、撤退していく自軍の兵士を我軍の箒兵に上空から見られて、地上戦力による追撃を受けることを危惧したのかもしれない。

 これに対して、エメリッヒ支隊もラサントスと同様に我軍の前線状況を観測されてもぬけの殻である事がバレたら危険、と判断して支隊全隊を挙げて迎撃行動(スクランブル)を掛けた為、地上で繰り広げられる砲撃戦の上空で地上世界史上類を見ない大規模な航空戦が展開される事となってしまった。


 夥しい数の箒兵同士がぶつかり合えば当然損害も拡大する。

 エメリッヒ支隊は戦闘団長エメリッヒ・クラウゼ近衛大佐撃墜を筆頭に、多数の損害を被り、その損耗率は驚異の7割を超えた。

 戦術的どころか、文字通りの全滅であった。


 ラサントス側も相当数の犠牲者を出したようで、戦闘が一段落ついた昼過ぎには負傷者救出の為、3日間の休戦を申し出るラサントスの使者が到着することになる。

 箒兵の大部分は貴族の子弟であり、そんな高貴な者達が平民の兵士に混じって戦場で泥濘にまみれたまま腐り果てるなどということを彼ら彼女らの実家が許す訳が無い。

 箒兵は一人死者が出ただけで、死亡した兵士の上官は元帥まで含めて全員、葬式には必ず参列する程の待遇が箒兵には成されていた。まぁ、元々貴族の葬式には知り合い縁者総出になるから、そういう意味では貴族的慣習の通りである。何故なら箒兵の上官は大抵貴族なのだから。


 ラサントス側の提案に、我軍でも相当数の貴族出身者が行方不明になっていたものだから、否応も無かった。

 直ぐ様、大規模な捜索隊が編成されて捜索が始まるが、生き残った者はごく僅かであった。


 エメリッヒは助からなかった。

 生き残った者の証言では、突出してくる中隊規模の敵集団に対して損耗した味方部隊の後退を助けるために支隊司令部付護衛小隊を率いて遅滞防衛戦闘を展開。敵中隊を半壊させながらも大空に散ったとのことであった。

 余は、その事実に、深い、深い悲しみに、暮れることとなった。


 一方、帝都・ヴィルへリンブルクに残る我国の首脳陣は別の意味で顔面蒼白になっていたという。

 貴族子弟の大量喪失と言う衝撃的なニュースに、貴族たちの間で急速に厭戦機運が高まっていた。


 中には、茶席で涙を流して皇帝その人を直接非難する辺境伯夫人も居たと言う。彼女の息子たち三人は全員、此度の戦闘で帰らぬ人となっていた。辺境伯家は継子全員を喪い、存続の危機に瀕している。

 貴族の夫人方で作る婦人会からは出征した貴族の妻や母親たちが目尻を垂直に釣り上げて怒り狂い、抗議の嘆願状が山と大本営に送りつけられているという。


 いくら戦働きは貴族の勤めとはいえ、何千もの貴族子弟が一気に喪われた事実は、彼らにあらぬ誤解を抱かせるには十分に過ぎた。

 例えば、戦争にかこつけて皇帝権をさらに強める為、帝室はわざと箒兵部隊を損耗させて貴族の力を削ごうとしている、とか。


 馬鹿馬鹿しい、と普段の余なら吐き捨てていたであろうが、エメリッヒを喪った今は、騒ぎ立てる貴族たちの気持ちが痛い程解るのであった。

 たった一本の新聞記事が、たった一晩で我々を取り巻く環境を一変させてしまった。


 此度の戦闘で我軍は保有していた大砲の九割を喪失、若しくは放棄していた。

 備蓄していた砲弾は、後方基地であるカーリスバーグに備蓄した分をほぼ全てを射耗、若しくは輸送途中に敵の攻撃を受けたり、砲兵隊ごと吹き飛んだりして喪失していた。

 歩兵は前線指揮官たちの独断のお陰でラサントスの砲撃が始まった時点で撤退を開始していた為にほぼ損害が出ていなかったが、対照的に箒兵部隊はほぼ壊滅。補充の難しい彼らは、かなりの長期間に渡って偵察以外で使用することができない見込みであり、我軍は航空戦力を丸ごと喪失することとなった。


 戦力の大量喪失に追い打ちをかけるように貴族たちの反戦活動はいつの間にか民衆にまで広がり始め、我国の戦時体制は大きく動揺していた。

 面白かったのは、ラサントス側にも我国と同様の状況が現出していると言う事実であった。

 それを我々が知ることになるのは、凝りもせずに例の新聞が今時大戦の続報記事を掲載したからであった。


 現在、この新聞を発行している発行元を追いかけてはいるが、官憲隊が踏み込んだ時には既には、新聞社はもぬけの殻だったと言う。どうやら場所を転々としながら新聞の発行を続けている様である。

 ラサントスも保有大砲のほぼ全てを失い、また箒兵を大量喪失して、彼の国の場合は民衆からの不満が爆発して暴動が頻発しているのだとか。

 我国もラサントスも、とても侵攻を継続できる状況ではなくなっていた。


 暫くは、睨み合いが続くであろう。

 余は、ふと考えてしまう。

 カーリスバーグで執り行われた戦死者を弔う合同葬儀の席にて、エメリッヒの棺に彼が誇り高き箒兵であった事を示す箒兵徽章を、余の手ずから鋲で打ち付けた時。


 此度の元凶となったあの記事は、誰の企てであったのか、と。

 この事態を予見して(・・・・)あの記事を我々に見せたのか。

 もしそうだとしたら、その野郎は感服する程にキレる奴だが、性根が悪魔の様に捻くれている糞野郎だ。


 余は、豪奢な典礼服に身を包んだ兵士が担ぐエメリッヒの棺を、鳴り響く礼砲と共に礼砲と共に見送りながら、決意を新たにする。

 『ロートリヒ・シュラーク』、貴様だけは絶対に許さん。











 「だそうですよ?」



 僕、アリアドネは秘密基地のリビングでココアを淹れながら、テーブルの上で此度の僕たちの悪企の結果が掲載された各地の新聞を食い入るように読む黒猫を見る。

 そこには、カデン高原での戦闘の概況と、戦場を翔ける『ロートリヒ(赫燦の)・シュラーク(雷鳴)』と言う謎の碩術師の存在、そしてそれに対する各方面の恨み節が書き綴られていた。特に、あのアウグスト=ヴィルヘルム君のロートリヒ・シュラークに対する怨嗟のコメントは特に大々的に掲載されている。



 「いやいや待て待て。これ、大半は朕たちのせいではなかろう!確かに最初に転ばせたのは朕たちかもしれんが、そのまま階段から落ちて、その拍子に崖から足を踏み外して、滝壺で溺れたのはこ奴らのせいであろう!」



 ……いや、それだと結局全部丸っと陛下のせいでは?

 それと、しれっと僕も含めるの辞めてもらえます?

 いや、陛下の撮影した航空写真、ブンヤ(新聞記者)にリークしたの僕だけども。


 まぁ、お陰でカデン高原の戦闘は暫く休戦となりそうである。

 少なからずヒトは死んだけど、多くは貴族で民衆の死人は少ないみたいだからまぁ良いのかな?貴族らは総じて志願兵だしね。

 そう考えると、なかなかに今回の企みは上手く行ったのかもしれない。


 あの、薄幸そうな娘はキチンと仕事をした様で何よりだった。

 マインドハックを仕掛けて記憶を読んだ限りでは、あの新聞とも呼べないようなゴシップ紙の誌面の大半は彼女が書いていると知った時には、ちょっと僥倖だと思ったもんである。

 いくら記者とはいえ、普通は記者が紙面を自由にできる訳ではないからね。

 あのゴシップ紙の発行人が殆ど彼女に紙面作成を丸投げしていて助かったよホント。


 もっと大掛かりな仕掛けが必要かと思ってたのに、今回僕がやったのは彼女の思考をチョコチョコっと弄って、航空写真を渡しただけである。

 とても楽な仕事の割に想定以上の成果が得られて何よりだった。

 まぁ、彼女と彼女の雇い主……アドルフ君だっけ?彼らには当局の手が伸びる可能性は高いけど、調べてみたらアドルフ君、何度も当局の取締くらっても逃げ延びてるみたいだし、大丈夫でしょ。



 「それで、次は何します?」



 僕は自分で入れたココアを持って陛下の前の席に着く。

 そんな僕を胡乱気に片眉を上げて陛下は見つめていた。



 「……其方、キチンと最後まで面倒を見てやるのだぞ」



 えぇ?いきなり何です?



 「普通は此度のような軍事情報満載の記事を載せる新聞社は無い。と言うことは、幾らか手管(・・)を講じたのであろう?」



 あー、まぁ。そうですねぇ。



 「良い。命じたのは朕だ。ここに連れて来ても良いからな。朕から頼んでへーリヴィーネに身の振り方を世話してもらう事も出来るし、なんなら朕が手ずから手に職を仕込んでも良い」



 ……何でこの人、いやこの猫、女の子が関わるとこうも鋭い上に面倒見良いの?僕、あの薄幸そうな娘の事一言も言ってないんだけど。やだ怖い。


 僕は件のマインドハックした彼女の様子を小まめに見る羽目になってしまった。

 まぁ、僕が僕の判断で使ったんだし、それが道理と言うのは解るんだけど。……あの上司の彼はどうしようかなぁ?逃げるの上手いみたいだから彼は良いよね?男の子だし、強く生きて。


 僕は脳裏で彼女の思考に付けた()に、マルチディヴィジョン(並列思考)の一つを割り振るのだった。



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― 新着の感想 ―
[一言] まあ、なにもせずにいたより被害は少ないよね……。 そして、ヘイトを全被りしたライラが不憫でしょうがない。 アチキちゃんは全能ママの庇護を受けれそうで何より。
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