#47
少しグロテスクな表現が御座います。
厚く地上を蓋するような凍雲が暗々と垂れ込める真冬の曇天の下、朕とライラを乗せた透き通るような真紅に染まる飛行箒が主機を吹かしながら、まるで鏑矢の如く高度を上げていた。
『ライラ、雲を抜けたら地形は全く見えなくなるからな』
『計器飛行だね。了解、地図出すね』
急角度で上昇する飛行箒の上で、ライラが飛行服の上から着込んだタクティカルベストのポケットから取り出した周辺の地形図を、飛行箒のハンドル近くに増設されたクリップボードに差し込んだ。
方位計のすぐ上に設置されたそれは、簡易的な計器飛行を行うために先日朕が増設したとても原始的な装置であった。
計器飛行とは、周囲の景色や指標物に頼らず、方位計と高度計、さらには地図と速度計と時計のみで自身の位置を把握しながら飛行することである。
『ええと、出発地点がここで、方位266へ上昇角度20°で上昇して、速度は……』
ブツブツとライラがこれ迄の飛行経路を地形図に書き込んで自身の現在位置と進行方向を割り出す。
『雲に入るぞ』
『あっあっ!ちょっと待ってもう少しだから!』
大急ぎで残りを書き付けて、ライラが慌ててペンと地形図をポケットに戻して顔を上げた。
『わッ――――』
途端、眼前に迫った灰白の雲の壁にライラが驚声を上げるも、飛行箒はそのまま厚い凍雲に飛び込んで行った。
真白に視界が染まり、朕の体毛がどんどんと不快な湿り気を帯びるのを感じ、ライラが溺れたようにあっぷあっぷと息をする。
凍てつく空気が水滴を帯びて、露出した肌を切り裂くように凍りついてゆく。
ライラがゴーグルに浮き出た水滴が放射状の結晶を帯びるのを、革の手袋をした手でゴシゴシと拭った途端、視界が温かい光りに包まれた。
『ふぅーーっ!きれーーーーーっ!』
そこは正しく言葉通りの雲の上であった。
真冬とは思えない程の温かい陽光が降り注ぐ抜ける様な蒼天の下、陽光が眼下の雲海に反射して、将に黄金の地平線が何処までも続く黄金の海原を、真紅に光り輝く飛行箒だけが切り裂くように飛んでいた。
『こら、あまり大きく機動すると目算がズレるぞ』
その幻想的な風景に感動したのか、ライラが歓声と共にバレルロールでその興奮を表すのに、朕は荷台に積んだ救援物資の上で水滴を吸って重くなった体毛をブルブルと身震して露を払い飛ばしながら注意を促す。
どんなに正確に計算したつもりでも計器飛行はズレが生じるから、あまり急な機動はすべきではないのだ。
『ベクター226良し。高度3エンジェル、速度200kt。ナヴィ、誘導開始お願い』
『ベクター226、3エンジェル、200kt、了解。誘導開始する。第一通過点まで距離88マイル、所要時間は約小半刻』
ライラの飛行情報報告から朕は飛行計画上の経路への誘導を開始する。
今回は計器飛行が予想されていたから、予め朕が副操縦士役をすることになっておった。
先日、凡世界救済軍の屯所を訪れて、朕たちが助けた碩術師――マリアと言うらしかった――の安否を伝えた後、ライラはそのマリアの代わりに物資輸送を買って出る事を申し出た。
屯所の長であるというオフェーリア・ミーシェコーヴァと言う大尉――凡世界救済軍ではその組織管理に軍隊制を取り入れているらしく、彼女の役目は地方都市統轄である『中隊』と言う小規模組織を率いる管理職であるらしかった――はライラの申し出に驚きつつも――それよりも背後で今にも終末大戦を始めそうな口喧嘩を続けていたヘーリヴィーネたちに戦々恐々としながら――その申し出に強い躊躇いを感じている様であった。
彼女たち凡世界救済軍はエールスリーベ教団系の慈善事業団体の一つであり、中でも戦場に直接赴いて医療行為や物資輸送を行うために設立された組織であり、此度の戦争勃発に際していち早く行動を起こしていたらしい。
当初は避難民の誘導を行っていたが、戦闘が激化するに連れて両軍の警戒度が上昇。一部の峠や脱出路ではヒト狩り――主に情報の隠匿や物資の収奪、またスパイなどの侵入を防ぐために行われる無差別で組織的な殺人行為を指す――が行われているという。
難民達の避難は困難になり、逃げ遅れた者たちは各所の集落で避難生活を強いられるようになった。
凡世界救済軍はもともと戦場に赴くことを前提に、多くの碩術師を擁していた為に各地のエールスリーべ教団から送られてきた救援物資を各所に経空輸送で配布する任に就いていたらしい。
それが先日、戦争当事国同士が互いに両国国土の全域を飛行禁止区域に設定した事により、救援物資の経空輸送を行っていた凡世界救済軍の擁する碩術師が次々に行方不明になっていると言う。
一部は捕縛されて投獄された事が当局の協力者などからの一報で、この先は判らずとも現時点の無事が確認できている様だが、大半の要員の行方が知れないということであった。
凡世界救済軍では信じたくはないが撃墜されて死亡した可能性が高いと考えていた様で、マリアの無事を知って屯所中の要員が安堵の表情を浮かべていた。
生還した凡世界救済軍の碩術師たちが持ち帰った情報によれば、カデン高原に点在した集落や修道院は今、テルミナトル・ラサントス両軍に挟まれた挙句、強制挑発を受けたり、臨時の前線基地として使用されたりと中々酷い事になっているらしい。
現在戦況は一進一退の塹壕戦が展開されており、昨日集落にやってきたラサントス軍がそこを前戦基地としたと思ったら、次の日には猛烈な砲撃を受けてラサントス軍が撤退し、その後を追う様に現れたテルミナトル軍が敵性集落として逃げ遅れた住人を全員処刑する、などという非人道的行為が頻発していると言う。
なんとか逃げ延びた集落の住人たちは近くのエールスリーベ教団などの修道院に逃げ込んだりしているらしく、カデン高原に数カ所存在する修道院は両軍から戦時協力を迫られ、しかしどちらかに与すればもう片方に敵性と判断されるために命懸けの綱渡りの様な交渉を行いつつ、焼け出されて助けを求める人々を収容し続けているとの事であった。
そこでは逃避行からくる疲労や、居住者の急増が招く衛生環境の悪化から怪我人や病人が続出し、元々交通の便が悪く自給自足に近い生活を送っていた各修道院では深刻な物資不足に陥っているらしい。
最近では後方まで移送できない程重篤な傷病兵が夜な夜な修道院の前に打ち捨てられ、さながら姥捨山の様な惨状を呈しており、深刻な人道危機が迫っているという事であった。
そんな状況の中、一人でも多くの輸送要員が必要な凡世界救済軍にとってはライラの申し出は願ってもないものであったろうが、ライラの年齢を考えれば彼女たちが躊躇うのも頷けた。
オフェーリアたちはライラの年齢を見て自身たちの不甲斐なさを嘆いてライラに感謝しつつも、その申し出を丁重に断ろうとした。だがしかし事態は急を要しておる。
それに、ライラが自身の意志で思い立った決意を朕は支持したくもあった。
決して、ライラに医療術を仕込んで『戦場の天使計画』と言うのは中々にソソる、と思ったからではない。決して。
人道危機に際し、ライラにそれを見て見ぬふりをするお嬢様になっては欲しくなかった。
願わくば、赤の他人に理不尽に襲い来る困難を、その身一つで跳ね除けてやれるだけの人格と、能力を備えた大人になって欲しかった。
なれば、此度の事態で彼女が幾らかの辛い思いや困難に直面して、心に幾ばくかの傷を追うことになろうとも、それを糧としてライラが一回り成長出来る様に手助けをしてれやるのは、保護者たる朕たちしか居ない。
躊躇うオフェーリアに舌先三寸口八丁の説得を敢行し、渋りに渋り倒した彼女も最後にはライラの申し出を受け入れてくれた。
最初は口喧嘩に興じていたヘーリヴィーネたちもオフェーリアの話を聞くにつれ、最後には鎮痛な面持ちで何かを決意していた様であった。
ヘーリヴィーネがエールスリーベ教団関係者と直接関係を持つことはマイナス面の方が大きいから、彼女は勤めて凡世界救済軍の面々と言葉を交わさないようにしておったが、その目には痛恨の色が滲んでいた。
リーベラクレアは「ヒトはいつの世も酔狂よな」と興味を示さずに居たが、ヘーリヴィーネは翌日から朕にライラの事を託すと、どこかへと出掛けていってしまった。リーベラクレアを強制連行して。
必死で抵抗したリーベラクレアだったが、碩術の腕ではヘーリヴィーネの方が何枚も上手だから、結局は雁字搦めにされてヘーリヴィーネに担がれていってしまった。
フィンブリーは何を吹き込まれたのか、ウキウキでヘーリヴィーネについて行った。大丈夫だとは思うがあまり教育に悪いことはしてやるなよ。
風をきって雲海を進むライラの左腕には、白地に赤い五角形の中に正十字が白抜かれた腕章が巻かれている。
オフェーリアが朕の説得に折れた際にくれた凡世界救済軍の構成員である事を示すと同時に、保護対象である衛生要員として凡世界救済軍がライラの身元を保証する腕章である。
それを腕に付けるライラの表情は、一種の決意に満ちていた。
保護者として、何というか、娘が立派になってゆく過程を見ている時ほど喜びに満ち溢れることはない。
彼女の呼びかけに応えた過去の朕、グッジョブ。
さて、助けを求めるヒトビトの為にも、彼女の成功体験の為にも、此度の輸送任務は必ず成功させなければいけない。なるべく迅速に。
朕たちの乗った飛行箒の主機上に設置された荷台には医薬品を中心とした救援物資が入った木箱が積まれている。
こいつを目標地点上空から落とすのが今回の輸送任務である。箱には落下傘と発煙筒が付けられており、落下と同時に落下傘が開いて、地上で待機した者が荷物を回収する手筈である。
中々確実性の低い方法ではあるが、ヒト狩りが行われている危険な戦場へはコレくらいしか輸送手段が無いのだ。
輸送量も限られるため、姦し娘共の格納庫に座標を設定してキャスリングで救援物資を空間移動させた方が良いかもしれん。ライラにやり方を練習させねば。
目的地までの経路はかなり大回りで行く予定である。
秘密基地から凡世界救済軍の屯所に朝一で赴き、荷物を受け取って目的地まで直線で向かえば昼過ぎには着く距離なのだが、それだと戦場のど真ん中を通る可能性があり、地上からの攻撃のみならず、先日の様に緊急離陸してきた邀撃要員に絡まれる可能性が高かった。
叩き落とすのは簡単なのだが、それだと要らぬ恨みを買って凡世界救済軍に直接武力行使が及ぶ可能性がある。
見つからないように立ち回る事が出来るならそれに越した事がない、と言うことで直線距離の三倍の距離にはなってしまうが、戦場であるカデン高原の南側からこっそりと上空に侵入し、救援物資を投下してさっさと離脱するのが本日の飛行計画である。
行程はほぼ丸一日かかる計算で、物資投下を行う頃には日が沈みかけていると予想できた。これはあえてこの時間に到着するように計画しているのだ。
物資投下するためには暫く上空に留まらなければいけないから、回収する者が昼間だとテルミナトル・ラサントス両軍の攻撃に晒される可能性があるのだ。支援物資を横取りされたら堪らないし、昼間は上空を飛ぶにも目立ってしまうから、危険地帯に入るのは火が翳って目立たなくなってから、と言うことである。
暫く雲海の上を飛行し、第一通過点で方向転換を行い、また延々と雲海を進み、第二通過点を過ぎ、第三通過点で真北に方向転換すると、ある一点から雲が切れているのが見えた。
『ライラ、雲の切れ目が見えるか?あれは山の頂に雲が引っかかっている場所だ。気流が乱れるぞ。気をつけろ。あの先は雲海に隠れる事ができん。高度を上げて全速力で駆け抜ける。少し寒くなるから気合を入れていくのだぞ』
うまい具合に沈みかけた太陽の赤光を左手にしながら、その光が照らす紺と緋のグラデーションの空に溶けるように紛れ込んだ飛行箒が主機を吹かして突き進む。
シエライサベリア山脈が引き起こす山頂付近の乱気流を速度と主機出力で押し切るように突破すると、そこには宵闇が作り出す暗黒の海が広がっていた。
山脈に遮られて光の届かないそこはまるで乾留液が満たされた洗面器の様であった。
反射した光の様に所々にほんのりと明るく見えるのはテルミナトル・ラサントス両軍の野営地が熾した火の光であろう。
朕たちはその光を避けるようにカデン高原へと侵入した。
『合図、出すね』
ライラは救援物資の投下予定地付近に近づくと、速度を極限まで落として胴に巻いたタクティカルポーチから、朕がアリアドネに用意させた発光機を取り出してスイッチを入れる。
使用者のオドを消費して発光する天上世界の物だ。スイッチの切り替えで発光信号やフラッシュ機能も付いている。
それを掲げながらライラはゆっくりと大きな定常円旋回を開始した。
ライラの掲げた発光機がチカリチカリと一定間隔で発光を続ける。
発光機を掲げながら飛ぶ事しばし。
『ライラ、アレだ』
朕たちが描く定常円の内側で、オレンジ色の微かな光がゆっくりと動いているのが見える。
ライラがそれに向かって発光機を向けながら、フラッシュモードに切り替える。
チカチカ――チカチカチカ――チカ――チカ……
ライラが一定の規則を持って明滅させたフラッシュに、オレンジの色が瞬きを返してきた。
『あれ、間違い無いよね?』
『そうだな。オフェーリアが言っていた符号に間違いない。……なんだ?可変長符号だな。……我、貴君ノ果断二深謝スル』
蝋燭か何かの光であろう微かなオレンジの光に板でも翳して手作業で明滅信号を作っているのであろう。やけに間延びしたその光信号からは、戦場のど真ん中に危険を顧みずに救援物資を届けに来てくれた者に、なんとか感謝を伝えたいとする真摯な想いが籠っている様であった。
『ライラ、一度あの光の上空をフライパスして下を確認しよう。それから折り返してきて物資を投下しよう。発光機を貸しておくれ』
ライラが肩越しに渡してきた発光機をマジックハンドで受け取って、地上に向けてモールス信号を送る。
――投下地点ヲ指示シ続ケラレタシ。上空一過後、物資投下ス。
朕の送ったモールス信号を理解したのか、淡いオレンジの光がゆっくりと円を描くように動く。
『見えた!』
ライラがその上空を低空で通過して物資投下地点を確認する。朕もそこが森の中の開けた野原の様な場所であることを視認する。
そこで数人の、修道女の様な格好をした女たちがカンテラの様な物を持ってクルクルと円を描くように走っていた。
ライラが速度を落としながら高度を上げ、物資投下態勢へと飛行箒を安定させる。
朕はライラの肩口に飛び乗って、マジックハンドで落下傘を固定していた紐を解き、発煙筒の頭を強く擦ると、眩しい程の赤い光が発煙筒に灯り、同じく赤い煙をまるで飛行箒の尾の様に棚引き始めた。
『投下位置まで、3、2、1……今!』
ライラが高度と速度を計算しながら地上を覗き込んで朕に合図を出す。よしよし。教えた通りにできていて感心感心。……少し合図が遅いがな。
ライラの合図と共にマジックハンドで荷台に救援物資を固定する紐を切って後方へと物資を押し出してやる。
と、同時にテレキネシスで物資の落下方向を制御しつつ、投下位置のズレを修正する。
飛行箒の排気に煽られながらも落下傘は無事に開き、ゆっくりと降下して行く。それをライラと共に定常円旋回に移行した飛行箒の上から朕たちは固唾を呑んで見守った。
物資が地上に近づくにつれて修道女たちが両手を上げる様にして物資の元へと駆け寄ると、その内の横にも縦にも他の者たちより一回りはデカイ修道女が、なんと両手を広げて落下してくる救援物資を直接受け止めようとし始めた。
重量は飛行箒に乗るように抑えてあるとはいえ、100リヴル程度の重さは有る。
何を馬鹿な、と思いもしたが、その理由に朕は思い当たる。
そうか、中には割れ物も入っているし、特に消毒用アルコールの容器はガラス瓶である。天上世界とは違って割れ防止の為に有機錫化合物が蒸着された表面処理済ガラスではなく、生の、地上世界のガラス成形技術の未熟故に少し歪で膜厚も不揃いな容器であった。
ガラスというのは表面処理をしてやらないと飴細工かと思うほど脆く、少しの衝撃でも割れかねない。
それを見越して容器が割れて何本かは使えなくなる事が前提で、アルコールの瓶は元々救援物資の中には多目に詰められている。
彼女たちにはそれが一瓶でも多く必要なのだ。容器が割れて使用不能になる本数を一本でも減らしたいのだ。
それだけ彼女たちが置かれた状況は逼迫しているのだろう。怪我人が居るに違いなかった。瀕死の重傷者が夜な夜な姥捨山の如く打ち捨てられるとも聞いたから、その者たちを一人でも多く救う為かもしれない。
しかし、如何に大柄とは言え所詮は女手、そのままでは物資の下敷きになりそうな勢いだったので、朕がテレキネシスでかなり落下速度を殺してやると、例の体格の良い修道女がまるで頬ずりでもしそうな勢いで救援物資の木箱をガッチリとキャッチしたのが見えた。
――感謝スル。感謝スル。感謝スル……
まるで狂ったように明滅するオレンジの微かな灯りに、朕は発光機を掲げた。
――此度ハ是迄。然シ、再来ヲ契ラン。貴君ノ奮励期待ス。
また来る。頑張れ。
朕たちにはそれしか言えないのが、至極歯がゆかった。
事情を察したのか、その光景を見つめるライラの顔には達成感ではなく、悔しさが滲んでいる様に見えた。
『ライラ。キャスリングと言う業を教えよう。一度に輸送できる量が増える。帰ったら特訓だ。3日でモノにしてみせよ。出来るか?』
『うん。やる』
ライラは決意に満ちた返事と共に、漆黒の夜空に機首を向けてスロットルを開けるのだった。
◆
私の名はベネディクタ・デアフリンガー。
エールスリーべ教団の修道院の一つを預かる身に御座います。
この戦争が始まってからというもの、嘗て毎日のように対峙した懐かしい感覚が蘇ってくるようでした。
それは、誇りと、矜持を守る為の戦いに御座いました。
突然に、山向こうから鉄と火薬の音が轟いた、あの日。
日も沈みかけた夕暮れ時に、必死に声を枯らして助けを叫んだ若い少尉が、傷付いた部下を背負って私の修道院に転がり込んできたあの時から、その感覚は燃え尽きた熾火がまた燃え盛る炎へと立ち昇ってゆくように、この身を駆り立てる焦燥となって私を突き動かしておりました。
少尉殿が背負った重症の軍曹を手当しながら、つい、私は若い頃を思い出しておりました。
既に遙かなる円環へ旅立って久しい夫は血気盛んな人で、軍隊に常に見を置き、訓練なのに先陣を切っては転んだだの相手の訓練用の武器に打擲されただのと、生傷が絶えない御人で御座いました。
にも関わらず、夫は「指揮官は斯く在るべき」と、周囲に弱味を見せるのを嫌って、軍医などにはかかろうとしないものだから、満身創痍で家に帰って来た夫を介抱するのは私の仕事で御座いました。
時に打ち身には湿布を貼り、切り傷には消毒と、時には傷を縫合した事さえ御座いました。
そんな夫を持ったものですから、私も伝手を頼りに医療を学んだりと、とても苦労した覚えが御座います。
ですから、怪我人の看病は苦痛では御座いませんでした。
傷が癒えぬとも、翌日には軍の演習場へと出かけて行ってしまう医者泣かせのあの人に比べたら、大人しくベッドで寝ている軍曹の看病など、赤子のお守りをする様なもので御座います。
懐かしくも、少し嫌な思い出を思い出したりして、それでいて人助けをするという達成感に満ちた、なんとも感情を揺さぶられる日々で御座いました。
しかし、矜持と誇りを守る為の戦いはここからで御座いました。
鉄と火薬の音はそれからも鳴り続け、数日が経ったある日を境に、重傷病人が夜な夜な、修道院へと続く小道に打ち捨てられる様になります。
テルミナトル、ラサントスの隔てなく置き去られた彼らは、大義と名誉のために戦場へとやって来たはずなのに、そこでは子供が揉みくちゃにして壊してしまった玩具の様に、道端に放られる紙屑のように打ち捨てられたので御座います。
声を上げられる者は苦痛を訴え泣き喚き、それすらも出来ない瀕死の者たちは、まるで自分の命の燈が燃え尽きて行く様をじっと見つめているが如く、一点を見つめたまま微動だにせずに蹲るのみで御座いました。
修道院の者たちを動員して彼らを収容し、傷の手当てをし、食事を提供し、夢見に己が死を垣間見て発狂する者を抱きしめて宥め、今際の際の幻覚に私を己が母や妻と重ねて「愛している」と溢した者の手を握って看取り、泣き叫ぶ大の男の口に力任せに布を突っ込み千切れかけた足を鋸で切り落としました。
それは、使い捨てられて打ち捨てられた者達のヒトとしての誇りと、それを為す事によって私が私である事を許容する為の矜持を守る戦いと言えました。
お恥ずかしい話、私はエールスリーベの教えと理想に共感してこのような場所に身を置いていたわけでは御座いませんでした。
嘗て、栄達を果たした夫が成した功績と、それに伴って与えられた身に余る栄誉の上で胡座をかいていた私が、紙切れよりも薄っぺらな貴族としての誇りと矜持を守る事を第一として為した痛恨の過ちに、私自身が耐えられ無かったが故の逃避行でしか無かったのです。
それが、此度の出来事が齎した惨事にあたるに連れて、私がこの場所に来るにあたって一生背負ったはずの十字架が段々と軽く成ってゆくのを感じて、それが許し難い汚辱の様に思えて仕方がありません。
「ありがとう」と感謝される度、その言葉は私の十字架を軽くすると共に、私の心を深く深く抉るのです。
だからと言って、彼らを助ける手を止めるわけには参りません。私が、勝手に彼らに降りかかった不幸を糧に、意地汚くも贖罪を果たしていようとも、彼らにとっては生き死にを分けるその時に、奈落へと踊りそうになるその身を抱き止める手を差し伸べない訳には参りません。私の利己的な理由など、彼らには関係がないのですから。
私たちは毎日打ち捨てられる傷病人を介抱し、看取り、埋葬致しました。
しかし、修道院には冬の蓄えしか有りません。医薬品はそれこそ日常に必要な分しか有りませんでした。食糧や医薬品は早晩底を着いてしまいます。
食糧は、あの日部下を背負って私たちの修道院まで辿り着いたあのブルクハルト少尉殿――彼は何か思うところがあるのか、原隊には復帰せず、私たちの修道院に留まりました――が、傷の癒えた部下を伴って、毎夜両軍の交戦跡を漁り、弔われること無く打ち捨てられた兵士の死体が身につけている背嚢から、缶詰や乾パン等を抜き出してかき集めてくれましたので何とかなっておりますが、問題は医薬品で御座います。
私は幾らかの旧知の伝手にチャントを送って、助けを求めました。
すぐに反応して下さったのは凡世界救済軍というエールスリーベ教団系の救済組織で御座いました。
彼らは弾丸飛び交う戦場の空を駆け抜け、消毒用アルコールや止血用滅菌包帯、止血剤、精製水、鎮痛麻酔剤を届けてくれました。どこから手に入れたのか、極少量ですが地上世界では非常に貴重な抗生物質まで。
しかしある時を境に、予定された救援物資が届かなくなりました。
凡世界救済軍によれば、飛行禁止空域が設定されたとの事で、凡世界救済軍の碩術師たちからも何名も行方不明者が出ているとの事で御座いました。
物資を切り詰め耐え忍び、救援を待つ日々は精神的にも苦しいものがありましたが、ある日、凡世界救済軍から救援物資を送る旨の連絡が入ります。
指定された日、夕暮れ時を待って修道院総出で投下予定地に繰り出した私たちが見上げた宵闇に暮れる濃紺の夜空に、微かな白い光の瞬きを発見した時、思わず皆と手を取り合って喜んでしまいました。
持ってきたカンテラの油皿に火を灯し、修道衣を翳して合図を送ります。あの支援物資を運んできた勇敢な碩術師の方が理解できるかどうかは分かりませんでしたが、モールス信号で感謝の言葉も送りました。
すると、夜空からまるでお手本の様な見事なモールス信号が返ってくるではありませんか。
――投下地点ヲ指示シ続ケラレタシ。上空一過後、物資投下ス。
急いで連れてきたメリンダにカンテラを持たせて、火が消えないように注意しながら円を書くように走ってもらいます。
メリンダが指し示すそれを視認するために、極低空を駆け抜けた真紅の優美なシルエットの飛行箒の上で、小さな影が一生懸命にこちらを探すように身を乗り出しているのが見えました。
女の子、でしょうか。
飛行箒に乗るには目方が軽い方が有利だ、と聞いたことがありますが、それにしては小柄過ぎました。
それこそ、私が嘗て犯した過ちで、永遠に突き放してしまった孫がもし無事に育っていたのなら、あのくらいの年の頃では無いでしょうか?
それ程に、真紅に輝く飛行箒を駆るその碩術師は小柄な御方で御座いました。
私たちの頭上を通り過ぎた後、発煙筒の赤い尾を引き始めた飛行箒は見事なインメルマンターンで反転すると、再度私たちの頭上に差し掛かる手前で発煙筒の付いた箱を空中へと投下致しました。
狙い澄ましたように私たちの直上で開いた落下傘のシルエットに、太っちょのハンナが歓声を上げて飛びつこうとしたのを見て、私は息を飲みました。
いくら落下傘が付いているとはいえ、救援物資の重量はかなりのもので御座います。
幾らハンナの体格が良いとは言え、歓喜の勢いで落下中の救援物資に飛びついてしまっては取り零してしまうならまだしも、ハンナ自身が無事で済む筈が御座いません。
馬鹿な事はお辞めなさい!
と私が叫ぼうとしたその時、ふわり、と救援物資が急激にその落下速度を緩めました。
お陰でハンナはガッチリと救援物資の箱を抱えることができたので御座いますが、私はこれを為したであろう、飛行箒の碩術師の腕に舌を巻きました。
余程腕の良い碩術師なので御座いましょう。
高速で飛翔する飛行箒から、相対位置が変わり続ける支援物資を的確に碩術念動で捉え、ハンナが怪我をしないように適度に落下速度を殺したその業は、碩術機械が無ければ何も出来ない近年の碩術師には到底不可能な芸当で御座いました。
そんな腕の良い碩術師が救援物資を運んでくれると言う事に心強さを感じつつも、上空を飛んだ時に見たあの姿から、まだ幼いながらにあの飛行箒の碩術師はそれ程の業を身につけている事に至極感心いたしました。
同時に、もし私が、あの時、悔やんでも悔やみきれぬ決断の末に、棄ててしまった未だ見ず知らずの私の孫も、あの様な立派な碩術師に成っていてはくれないかと、そんな手前勝手な希望が胸に溢れて思わず頬を濡らしてしまいました。
それは、後悔の涙であり、その姿に、見たことも無い自身の孫の姿を重ねた末の、懺悔の涙でありました。
私の涙する姿に、メリンダやハンナは自らと同様、私が歓喜に慄えているのだと思って声をかけてくれますが、それが一層私の自責の念を掻き立てるので御座いました。
私の、私が私を赦す為の戦いは、始まったばかりなので御座いました。




