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朕は猫である  作者: 名前はまだない
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#39

こんなに長くなるはずでは……。

旅行動画なんか見るんじゃなかった……。

 へーリヴィーネ様が地上世界に降りてからどれくらい経ったでしょう。


 ある日、アリアドネ様がお屋敷を訪ねてまいりました。


 アリアドネ様は幾つかへーリヴィーネ様専用の品を持ち帰り、代わりにへーリヴィーネ様からのお手紙を置いていきました。(わたくし)共がお茶を供する暇もなく慌ただしく帰っていってしまいました。

 とてもお疲れのようなお顔をされておりましたが、大丈夫でしょうか。少し心配です。


 アリアドネ様がお持ち下さいました手紙には、宛名にとても精緻な筆致で『アンジェリカ様へ』と、(わたくし)の名前が記されておりました。


 一使用人である私に『様』付けなど、何とも恐れ多い事でありますがありますが、それがへーリヴィーネ様の信条なのでございましょう。

 例え目下の者に対してでさえ、礼節を忘れるべからず、と言うへーリヴィーネ様の気遣いを感じます。とても嬉しゅうございます。


 主の思いがけないお心遣いに随喜の涙が零れそうです。へーリヴィーネ様にお仕えするのは無茶振りが多くて何かと大変なのですが、この様なお心遣いをされますと、日々の苦労も報われると言う物です。

 その感動を胸に、(わたくし)はへーリヴィーネ様のお手紙の封を開けました。


 そこには、一枚の書類と共に、私への手紙が入っておりました。



 「……拝啓、アンジェリカ様。ご無沙汰をしております。ご健勝でありましょうか?私はお陰様をもちまして細息に過ごしております。

  さて、この度はアンジェリカ様にお願いが御座いましてお便りを出させて頂きました。

  同封致しました書類を『帝国』紋章院へと提出して頂けませんでしょうか。

  お忙しい中、お手間を取らせてしまい申し訳有りませんが、何卒よろしくお願い致します。

  アンジェリカ様に置かれましては、何かと御心配をお掛けしている事と申し訳なく思っております。御身体などご自愛下さいますよう。敬具」



 使用人に寄越す手紙とは思えない文面では御座いましたが、直筆で書かれたその筆致からは私の身を案じるお優しい御心が感じられました。感激です。今日私、死んでもいいです。


 ……死んでは駄目ですね。へーリヴィーネ様からの頼まれ事を達成できなくなってしまいます。

 しかし、紋章院とは、何の書類をご提出なさる御積りでしょう。


 紋章院とは貴族を管理するお役所です。誰が何の爵位をいつ受けたのか、そしていつ誰に継承されたのか。それを管理するのが紋章院の仕事です。

 王政・貴族制国家には大抵設置されているお役所で、名前の由来は各貴族の紋章を管理したことに由来します。

 紋章は貴族にとって、一族を示す重要な印であり、各個人は夫々を識別するための紋章が存在します。それを紋章院は管理し記録するのです。


 今では紋章を管理すると共に貴族名鑑を編纂するのも紋章院の重要なお役目です。貴族名鑑に載った者は貴族として見做され、逆に貴族名鑑から削除されれば、少なくとも公には貴族としての扱いを受けなくなるのです。

 つまりは、貴族の戸籍を管理するお役所なのです。



 「……嘘でしょ?」



 私は同封されていたピュミエ家の透かし紋が入った誓紙に書かれた文章に目を通して息を呑みました。



 「……ピュミエ大公爵家第一相続子としてライラ・デアフリンガー・ネルソンを、ピュミエ大公爵へーリヴィーネ=ラ・ピュミエの名において匿名で第一相続子を貴族名鑑へ記載する事を要請す?」



 『ピュミエ大公爵家』とはへーリヴィーネ様の公での家名です。


 紋章院は貴族を管理するお役所です。貴族とは厳密には各家の当主と第一相続子のみを指し、紋章院への届け出は第一相続子の指名と共に行われます。勿論、一般的には各家のご家族も慣習的に貴族と見做されるのですが、『帝国』に於いては法的な貴族とは爵位を持つ者とその第一相続子のみが貴族として扱われております。


 お貴族様の放蕩は世の常。例え淫蕩に耽らなくとも、正妻以外の側室の子が正妻よりも先に出来ることも有り、その場合は正妻の子が生まれるまで紋章院には届け出をさないこともあります。

 同じ様に一族や兄弟の中で一番出来の良い子を第一相続子とする家もあり、その場合は第一相続子が決まるまでは紋章院への届け出を行わないこともあるでしょう。


 そういう意味では、紋章院への第一相続子の届け出は貴族としての公的な御披露目の意味も持っております。実際、紋章院への届け出を済ませれば、盛大にお披露目の為の夜会を開くのが常です。

 しかし、へーリヴィーネ様には伴侶となる方が居りません。嘗ての初代皇帝陛下をお慕いして独身を貫いて居られます。

 そのへーリヴィーネ様が。第一相続子の届け出とは、どういう事でしょう。


 いえ、それ以上に、ピュミエ大公爵家に第一相続子が出来るということがどういうことなのか。

 へーリヴィーネ様は御身が精霊であるが故に不滅です。なので、ピュミエ大公爵家が相続されることは未来永劫御座いません。継がれる事の無い貴族家の相続子に意味はないでしょう。

 ですが、へーリヴィーネ様は『帝国』建国の志士であり、今となっては『国母(グレートマザー)』として陰ながら『帝国』を支える重鎮です。御身に宿す御力の所為もありますが、それ以上にその公明正大、清廉潔白なその姿勢により、『帝国』における最後の審判者、最後の砦として日々様々な問題を仲裁してまいりました。


 例えそれが『帝国』今上皇帝陛下であろうとも、へーリヴィーネ様の御力(物理)の前では下手なことは出来ないでしょう。グーパン(物理)でワンパンです。

 そのへーリヴィーネ様が、例え家名を継承することは無いとしても、家族として第一相続子を届け出ることの意味。



 「……一体何が有ったのですかへーリヴィーネ様……」



 と言うか、こんな爆弾みたいな書類を私に提出しろと!?


 私の背を冷たいものが流れ落ちるのを感じます。

 何より、『ライラ』って誰ですか!?私なんにも聞いてないです!


 こんな……こんな届け出を提出したら……『帝国』がひっくり返ります!実際に提出する私、絶対タダじゃ済みません!

 拘束されて尋問とかゴーモンとかされちゃいますよ!



 「……追伸、紋章院長・マクレゴール卿が何か言ってきたら、『ソルヴィニヨンの丘で』とお伝え下さい?」



 手紙の最後に記された意味不明の言葉。ソルヴィニヨンって何処?ホントに意味がわかりません。紋章院長様にだけ通じる符丁でしょうか?もしかしてもしかして、マクレゴール卿の『弱み』だったりとか、しません?伝えた瞬間、キレられたりとか、しません?


 気が進みませんが、主がお望みであればそれを叶えるのが我ら侍従の勤め。ほんっとうに気が進みませんが仕方が有りません。


 家令頭(チーフバトラー)様に訳を話して日々の御役目を他の方に代わってもらいます。

 日を改めまして、数年ぶりに一張羅の正装を引っ張り出して他の着替えと共に箱鞄(トランクケース)に詰め、2日に一度、物資を届けてくれる定期便(航空貨物船)に相乗りし、私は『帝国』中枢、現在皇帝府が鎮座する浮遊島・コーディアドラを目指して出発致しました。


 コーディアドラまでの道のりは全て空路です。まずは最寄りの浮遊都市・飛航空母クレメンタインへと定期便(航空貨物船)で向かいます。


 『空母』と名が付いておりますが、文字通りの空母としてのお役目はとうの昔に終え、現在ではその巨大な格納庫や飛行甲板に所狭しと商店が立ち並ぶ一大商業都市となっております。現在は『帝国』直轄都市として、また航空船の補給基地・物資ターミナルとして機能する空飛ぶ巨大市場(バザール)です。


 現在は航行する為の機関は取り外されて地上世界グレンコア大陸の遥か西、ヘリング海の丁度真ん中、高度約1,000フィートに浮かんでおり、各天上大陸の重要な寄港地の一つとしても機能しております。


 その大きさたるや、長さは2,000ヤードを超え、幅も100ヤード以上有ります。基準排水量で500万トンを超える超巨大建造物です。10マイル先からでもその威容がはっきりと目視できます。入港する直前など、航空迷彩色である青味がかった灰色の塗装のそこかしこから錆びた茶色が覗く斑模様の壁が視界一面を覆い尽くすほどです。


 午前の早い時間にお屋敷を発って、正午過ぎにはクレメンタインに到着することが出来ました。

 お昼は厨房の女将さんに拵えてもらったサンドイッチを機内で食べて済ませます。


 乗り継ぎ(トランジット)の間に少し街を見て回ります。次の行き先は天上大陸・レグランディス領の衛星大陸・モンパルセラット。浮遊大陸の周回航路の関係上、クレメンタインに一泊する事になるのでその間は少し暇です。

 今夜の宿をとるついでにクレメンタインを少し見て回りましょう。


 お使いを申し付けられたことを聞きつけた同僚の皆様から色々と買い出しを頼まれているので、それを済ませてしまいます。予定では帰りの便はその日の内に乗り継ぎ出来そうなので、帰りに買おうにも慌ただしくなりそうなのです。


 私が到着した港は第一格納庫――クレメンタインは重なった3つの飛行甲板を持っており、第一格納庫は3つの飛行甲板の真下にあります――でしたので、港を出ると全体的に錆び付いて焦げ茶色や、場所によっては錆で緑色や黄色に染まった斑模様のメインストリートが広がっております。少し鉄臭さが鼻腔の奥を突きます。


 見上げる程に高い高い天井に取り付けられた照明が煌々と格納庫内を照らし、その天井まで伸びるビルディングが幾つも連なった通りを歩きます。通りによっては太陽の光と違って光源が動かないので一日中日陰、という通りもございます。太陽程照明の明かりは明るく無いので場所によっては極夜の様に一日中真っ暗なので歩く道には気をつけねばなりません。艦内警察も居るので治安は良いのですが、流石に女の一人歩きには注意が必要です。そういう通りに限って苔生して滑りやすくなっていたりもしますし、いかがわしいお店も多いのです。


 明日の便は第二飛行甲板から出るので、道すがら皆様から頼まれた物が無いかを明るい通りの路面店で探しつつ、第二飛行甲板へのエレベーターへ向かいます。


 本来ならば同一階層の移動には定期的に周回している無軌条電車(トロリーバス)を使用するのですが、路面店も多いので今回は徒歩で移動いたします。

 通りは道幅が狭いので、基本的に大型の車両は走っておりません。大量輸送する場合には壁伝いに走る壁面電車が使われます。街中で貨物を運ぶ場合は一人乗りの電動貨物車(ターレ)が使われており、そこかしこを走り回っています。結構なスピードで走っているので、ぶつからないよう気をつけねばなりません。


 皆様のご所望の品は見つけ次第、生体認証決済にて支払いを済ませて全て空輸してもらうよう手配いたします。ヘーリヴィーネ様のお屋敷はお給金がとても良いので皆様ご要望のお品の一才合切を私が全て支払っても、まだまだ口座残高は余裕です。後ほど同じように生体認証決済で同僚の皆様からお品代は頂くのですけれど。


 途中、既に買った物品がさらに安く売られているのを見つけてしまうと少し心が痛みますが、戻って購入をキャンセルして買い直して、などとやっている暇は流石にありません。同僚の皆様も私と同じ様なお給金を頂いているのですからその程度はご勘弁頂きましょう。何せ、頼まれた物品は嗜好品を中心に軽く三桁も有るのです。しかも『どこそこのお店の』等とこだわりのある方も多いのです。そのせいで艦中を回らねばなりません。皆様、週に一度の休日の間に買い溜めしておいて欲しい物です。


 と言いつつ、私も前の休日に買いそびれてしまったアレやソレをついでに買い込んでしまいます。

 そうこうしている内にあっという間に半刻が過ぎてしまい、艦内に流れたエレベーター出発のアナウンスを聞いて、慌てて上昇するエレベーターへと走ります。


 エレベーターといっても元は航空機や機動兵器用のエレベーターなので、その大きさはヒト用のエレベーターの比ではありません。ヒト専用のエレベーターも有るのですが、そちらは有料です。トランジットの時間があまりない等緊急の時以外、大抵の方々は定期運行している貨物用エレベーターを利用されます。こんな宙に浮かぶ船の中なので、エレベーターの運行に使用するエネルギーコストが馬鹿にならないため結構高いのですよ専用エレベーターは。


 階層間を移動する貨物が満載された十数ヤード四方の巨大な昇降機の隅っこに乗客が乗るスペースが設けられているのですが、隅っこであるがゆえに遠ざかっていく床がよく見えてしまいます。クレメンタインは嘗て機動兵器も格納していたので第一格納庫の高さは40ヤード以上もあるのです。落ちたら、と思うと割と怖いです。


 登り行くエレベーターの上からの景色は小さな都市を見下ろすようで眺めは良いのですが、全体的に鉄臭くて昼夜もありませんので彩りには欠けますね。

 第二飛行甲板でも寄り道をしつつ物品を買い揃え、明日モンパルセラット行きの航空船が出る発着場近くの宿を取ります。到着が遅くなってしまったので満室だったらどうしましょうと心配しておりましたが無事、シングルを一部屋取ることが出来ました。一安心です。


 宿に荷物だけ置いて、格納庫とは打って変わってアスファルトが敷き詰められた第二飛行甲板を歩き回って頼まれ物を買い込みつつ、第一飛行甲板へと出た頃には、私の立つ地よりもかなり下方に広がる水平線へと太陽が沈みゆく時分でございました。いけない。第一飛行甲板は露天なので第二飛行甲板よりも下の階層と違って普通に夜がやってきます。頼まれ物もまだ三分の一程買えておりません。急がなければなりません。


 暮れゆく夕日を背にバタバタと慌ただしく買い物を済ませて、ルームサービスで夕食を済ませると私は床に就きました。今日は歩き疲れてしまいましたわ。


 明けて翌日。


 私はカバンに詰めてきた一張羅の正装を着込んで宿を出ます。モンパルセラットでのトランジットは小半刻もかからないので、今日のお昼前には皇帝府に到着できる予定ですから、朝から正装を着込まなくてはなりません。この服、着るのが面倒なので今日は早起きです。


 軽い化粧の後、髪を結い上げスカートの骨組み(クリノリン)の付かないコルセットを締めてその上から純白のシルク製飾り袴(ガウチョ)と革長靴を履きます。このガウチョ、飾り布が多くて歩きにくいのですが、帝宮に参内する訳では無いとはいえ、皇帝府に赴くには正装をしなくてはなりませんので仕方がありません。ピュミエ大公爵家の家紋に泥を塗ることになってしまいます。


 純白のブラウスを着て、その上から豪華で無駄に重い肩飾り(エポレット)が付いた紺地に煌びやかな金糸の飾りが着いた大礼服を着込みます。この大礼服も値段の割に着心地が悪いです。下賜品なのですけれど。


 大礼服の左胸に略式徽章を着け、胸元にピュミエ大公爵家を表すエンブレムが入ったブローチを下げて、エポレットにブローチから伸びる飾り紐(サーシュ)を繋ぎ、大礼服と同じ紺地に飾り羽根(フサリア)や重い捻り紐に金属の徽章が幾つも着いたシャコー帽を被り、腰にベルトで儀礼用の装飾が散りばめられた短めの馬上剣(サーベル)を下げれば準備完了です。ちなみにこの馬上剣、小型の流体金属循環式刀身(チェーンブレード)なので金属でもバターみたいに切れます。抜け落ちでもしたら大変です。足がポロリと落ちてしまいます。なので、鞘に着いた抜け落ち防止の止め金を入念にかけ直します。


 鏡台で全身の身嗜みを確認すると、身が引き締まる思いがしますが、全体的に重いです。特にシャコー帽が重いです。被ったままだと首が太くなってしまいそうなのでシャコー帽は小脇に抱える事にします。

 先日チェックインした時とは装いが余りにも違ったのでフロントの御仁は目を見張っておりました。昨日は量販品のブラウスにスカート姿の旅行中の小娘然としておりましたから仕方がありません。靴だけは今日も履いている革長靴でしたがスカートに隠れておりましたものね。


 チェックアウトの手続きをとって、荷物と共に発着場へと赴きます。今回の宿は本当に発着場の目の前に有るので、それこそ通りをひとつ跨げば到着です。


 意識して背筋を伸ばし、歩き方に気をつけます。

 この大礼服は既成品ではなくピュミエ大公爵家の専用品ですし、デザイン的にもとても目立つので自然と衆目を引いてしまいますから、歩き方一つ、気を抜けません。


 今履いている革長靴はこの大礼服専用なのですが、ヒールが高く屹立している為足が内旋してしまい、足が着地する位置が一直線になるような、女性的な曲線美をより美しく見せるための所謂「モデル歩き」と言う歩き方に自然となってしまうのですが、これを厳に戒めます。


 まるで爪先で地面を蹴りあげるように、足首は直角を維持して、まるで両足で二本の線の上をなぞる様に歩きます。軍人がパレードの際にする歩き方といえばよいでしょうか。

 大礼服を着ながらあまり性差を感じさせる所作をするのははしたない(・・・・・)、なんて言う方達もいらっしゃいますので、そんな狭量な方たちに私の歩き方一つでピュミエ大公爵家が揚げ足を取られない為の、謂わば転ばぬ先の杖的な用心です。


 なのですが、この歩き方、とても疲れます。明日、向う脛や脹脛が筋肉痛になりそうです。

 カツンカツンと言う、意図的にヒールの先端に埋め込まれた鋲が床を叩く音に、往来の衆目がこちらを向きます。

 それらと視線が合わないように顎を上げて少し斜め上を向き、一直線にモンパルセラット行きの搭乗口に向かいます。首が疲れます。


 時折、「……カッコイイ」とか、「素敵……」などと同性の方々の溜息が聞こえて来たような気がしますが、正直代わって欲しいです。お洒落は我慢と言えども、好きでするわけではないお洒落は辛いですが、これも御役目。


 搭乗口に着くと、航空商会のお仕着せを身に付けた可愛らしい受付係の女性を囲んで、三人程の『帝国』近習総軍の制服を身に着けた男性が屯しておりました。どうやら受付係の方を口説いていらっしゃるようですが、受付係の方は少し迷惑そうです。


 私が近付くと、受付係の方が近習総軍の方々の間から笑顔を見せてくれます。

 その様子に気づいたのか、近習総軍の御三方が此方を振り返りました。

 目は合わせません。変な因縁をつけられても困りますし。



 「搭乗券を拝見致します」



 私を振り返ったことで開いた近習総軍の御三方の間から、受付係の方に搭乗券を渡します。


 私の搭乗券を受け取って、搭乗手続きを行った受付係の方から搭乗券を受け取って、近習総軍の御三方が塞いでいる搭乗口をすり抜けます。

 受付係の方には申し訳ないですが、この大礼服を身に付けた身でトラブルを起こすのは憚られます。これもお仕事の内と割りきって御自分で何とかして頂くことに致しましょう。



 「失礼」



 一言お断りを入れて、搭乗口を後にしたその時。



 「もし、不要二打(にのたちいらず)のアンジェリカ殿ではありませんか……?」



 その忌まわしい呼び名に、私不覚にも思わず歩を止めてしまいました。

 そのまま無視して歩み去れば良い物を、私とした事がうっかり振り向いてしまいました。すると、近習総軍の御三方の内、一番年嵩の方――襟章を見る限り、十翼長(少尉)殿の様です――が私を指差しております。



 「やはり!間違いない!不要二打(にのたちいらず)のアンジェリカ・ヴォーウィット殿では御座いませんか!」



 その渾名で呼ぶんじゃありません!



 「え!?不要二打(にのたちいらず)って……元近習総軍で御前試合八連覇の?」



 ……確かに昔、そんな事もしましたわね……その後イキってへーリヴィーネ様に突っかかってワンパンで解らせられたりしたので私にとってはその呼び名は黒歴史です……。若気の至りなので許してください。



 「相対した敵が一瞬で真っ二つになるという、あの!?」



 流石にそんなコトまではしてません!一合で決着が着いた事が何回かあっただけです!

 なのに格好つけて『不要二打』なんて……呼ばれてイイ気になっておりました……ハイ。



 「不要二打(にのたちいらず)殿ぉ!真っ二つにした相手の生き血を浴びるのが美容の秘訣って本当ですか!?」



 んなワケねーですわよ!どんな未開地の蛮族(バルバロイ)だと思ってるんですか!

 ドコ情報ですの!?今度シメに行きますわよ!

 あとその呼び名を大声で叫ぶんじゃねーですわ!



 「え!?不要二打(にのたちいらず)のアンジェリカだって!?」



 「不要二打(にのたちいらず)の!?私、実際に御前試合で見たこと有るわよ!?……ホントだ!本物よ!」



 あああああああああ。やめて下さいまし。その名を連呼しないで……。


 近習総軍の御三方が大声で騒ぐものだから、あれよあれよと人が集まってしまいました……。

 ヘーリヴィーネ様に解らされてからというもの、大会など表舞台からは一切身を引きましたのに、何で皆さん十数年も前のことを覚えておいでなのでしょう?


 暇なんですかね?他に覚える事位幾らでも有るでしょうに……。ホント恥ずかしいので止めて頂きたいです。

 ワチャワチャと集まってきた方々に押し切られて握手やらサインやらに応じざるを得ませんでした……。


 気づけばいつの間にか携帯端末で写真まで撮られていました。


 あああああああああ写真は拙いです!記録が残ってしまいます!

 どこかのソーシャルメディアにでもアップロードされたら、また家令頭様や御同僚様方にからかわれてしまいます!


 などと揉みくちゃにされつつ、ようやっと乗り込んだ航空船の中にも私を知っている方が居て、とても居心地の悪い思いをしつつ、なんとかモンパルセラットに到着いたしました。

 モンパルセラットでのトランジット(乗り換え)は直ぐでしたが、私は人目につかないようにシャコー帽を目深に被って顔を隠し、人目を憚って移動するはめになりました。


 本当にこのシャコー帽、重いです。首が痛いです。下手なヘルメットよりも余程重いです。

 モンパルセラットから皇帝府・コーディアドラまでの航空船の中、私は頑なに重いシャコー帽を被り続けておりました。


 そんな私に対して航空船の乗務員の方々が、表には出さずとも薄っすらと抱いた奇異の念が如実に感じられて、二重の意味で居心地が悪いですが背に腹は変えられません。「帽子をお取りいただけますか?」との要請にも胸を逸らしてピュミエ大公爵家の家紋を突き付けて黙らせます。

 ご容赦くださいまし。割と切羽詰まってるんです。


 と、乗務員の方々の「何この面倒くさい人」視線に耐えていると、限りなく広がる蒼穹の彼方に、ポツンと白い点が見えて参りました。


 皇帝府・コーディアドラです。


 コーディアドラは他の天上大陸に比べると、その大きさはかなり小振りです。

 他の天上大陸が1つあたり平面積で二千五百(約一万)から一万エーカー(約四万平方km)程度の大きさであるのに対し、コーディアドラは五百エーカー程度しか有りません。

 それは、皇帝府がその名の通り、『帝国』皇帝が執政する為の機能しか持たないからです。


 住んでいるのは皇帝ご自身とご家族、皇帝府に務める勤め人と、許された一部の方々だけです。

 地上世界ならいざ知らず、天上世界は通信技術が発達しておりますので、側近を周囲に侍らせておく必要はありません。必要があれば通信機で連絡を取れば良いだけです。


 その為、皇帝府・コーディアドラは他の天上大陸とは違い、選ばれた者しか生活しておりませんし、市井と言う概念が無いので面積自体は小さいのです。

 まぁ、名目上皇帝は『帝国』首長にして世界を統べる君主であるわけで、他の天上大陸は形式上は皇帝の持ち物ということで、皇帝府はコンパクトで良いという事だ、と聞いたこともあります。粋と捉るか、見栄と捉るかですね。

 現状の『帝国』を鑑みれば後者の様にも思えてしまいます。


 航空船が近づくにつれてコーディアドラの輪郭がハッキリとしてきます。

 大理石のような真っ白な側面はいつ見ても綺麗です。天然の島を浮遊島にしただけあって、真っ白な側面は全て天然の物です。

 まるで一つの大きな山体の様に隆起の激しい浮遊島の下面と違い、表層はなだらかで、一つだけ大きな山がそびえ立っていますが、航空船は不敬に当たる為、コーディアドラよりも高度を取れないので表層の全景は見えません。

 小さいとはいえ、クレメンタインとは規模が違います。


 航空船はまるで断崖のようなコーディアドラの側面に設けられた幾つかの発着場の一つへと接舷しました。

 今回は少しツイていない様です。コーディアドラの内部に設えられた屋内発着場も有るのですが、今回はコーディアドラの側面に据えられた空中桟橋に接舷した様でした。私の乗ってきた航空船は、コーディアドラ内部で生活するやんごとなき方々を相手にした御用聞きの商人の方々が主に利用する一般航路の定期便ですから、屋内発着場は公務を帯びた船に優先的に割り振られるので仕方ありませんね。


 航空船を降りると、空中に浮かぶ桟橋を渡って入島審査を受けますが、この桟橋、なんとかならないものでしょうか?

 手すりが付いているとはいえ、宙に浮いた桟橋を渡る時は下を向けません。風にも煽られますし。


 シャコー帽を抑えて宙に浮く桟橋を渡り、洞窟のような入り口を潜ると、そこは入島審査場に成っております。

 ここで同じ便に乗っておられた方々は入念な入島審査を受けるのですが、私の場合ピュミエ大公爵家の家紋をあしらったブローチを付けているので一人だけ別のゲートに案内されました。


 入島審査も酷く簡便です。生体認証で身元をチェックされて即入島許可が出ます。他の方は事前に発行された紹介状やら入島許可証やらを厳重にチェックされているようです。

 一人、VIP用の出入り口から長い長いトンネルをエスカレーターで上がり、表層に有る航空船発着ロビーに出ると、そこは人でごった返していました。


 見た所、何方も観光客ではなくて公務などを帯びた官吏や貴族の方々の様です。当然ですね。観光地ではありませんから。

 何方も最上級の礼装を纏い、発着ロビーはまるで晩餐会のような様相を呈しております。彼らは勿論晩餐会に出る為にここに居る訳ではないのですが――勿論、その為に来た方も居るかもしれませんが――特に皇帝陛下と謁見する予定が無くとも――大抵は皇帝府に付随する各種役所や官庁に用事がある方が多いと思います――コーディアドラに赴く際は最高位の礼装を身に付けるのが暗黙の儀礼と成っているので仕方がありません。


 まぁ、半分は『帝国』の見栄の様な気もしますが。


 同じような礼装の集団が屯したり列をなしたりしている往来の隙間を縫って発着ロビーを出ます。

 建物の外に出ると、冷涼な空気が頬を撫でました。このコーディアドラは高度5,000フィート近くを浮遊しているので、基本気温が低いのです。ちょっとした高原並みの高度です。ゴテゴテとした大礼服を着て少し汗ばんでいた体には調度良い気温です。もしかしたら、コーディアドラに来る時は正装をする習慣はこの気温のせいも有るのかもしれません。


 発着ロビーの建物前に広がる広大な車寄せには、なんと無数の馬車が待っています。

 無駄に二頭立てのオープントップ四輪車(カブリオレ)や四頭立ての豪華な四輪馬車(コーチ)などもあります。


 これらの馬車は皇帝府が運営しているコーディアドラの公共交通機関です。有り体に言ってしまえば公営のタクシーみたいなものです。えらく維持費の高いタクシーですが。

 まぁ、これも『帝国』の見栄、と言う奴でしょう。


 正直、馬車なんかに乗って移動するのは小っ恥ずかしいのですが、コーディアドラには皇帝府しか無い上、唯一の交通機関がこのロマンチックな馬車だけなので、仕方なく一番小さい一頭立ての二輪馬車(カート)に乗り込みます。お金に余裕のある方や御身分がやんごとなき方々は豪華な四頭立て(コーチ)等を利用されるのでしょうが――御身分があまりにも高い方が二輪馬車(カート)等に乗られるのは世間体もありますから憚られることもあるでしょう――私のような無位無冠の輩は料金の一番安い二輪馬車(カート)で十分です。


 御者の方――国家公務員です――に生体認証で定額の運賃を払うと、御者が栗毛の引き馬に手綱で合図を送ります。

 行き先を告げる必要はありません。コーディアドラには皇帝府しか有りません。市井と言う概念がないのがコーディアドラの特徴です。


 走り出した馬車の乗り心地はすこぶる快適です。全く揺れません。それはそうです。これは馬車の形をしているだけで、車輪やサスペンションは現代的な機械式ですから。道も舗装されておりますしね。

 走り出した馬車はなだらかな丘の上を一本だけ走る舗装路を進んでゆきます。勿論、皇帝府へと続く唯一の道です。周囲は遠くに湖と森が見えるだけで、延々と整えられた芝生の草原が続いている中を静かに馬車が進んでゆきます。


 小さいと言いつつも、なんとこのコーディアドラ、五百エーカーの面積の殆どが大自然です。開発されているのは航空港と皇帝府周辺だけです。その他は大自然――と言いつつ、環境ナノマシンの散布や自律重機による間伐等、目に見えないように美しい自然が保たれているので秘境のようなところはありません。勿論、野生動物もすべて管理されています。皇帝御一家も時々ピクニックなどに出掛けるようですし――が広がっているのです。何と言う無駄。これぞ究極の贅沢といえば聞こえはいいですが、この辺も『帝国』の見栄、と言うよりは意地なのかもしれません。


 後ろを振り返れば、緩やかな坂の先に、すり鉢状の地形の底に灰白の卵のような現代的な建物が佇んでいます。蔦や低木等が所々生い茂り、自然と一体化した様な、寧ろ朽ち果てた遺跡にしては綺麗に見える様な不思議な建物が見えますが、あれが先程私が到着した航空港の発着ロビーの建物です。


 馬車はなだらかな緑の丘を越えると、一転して森の入り口に差し掛かります。

 幅数十フィートもある舗装路の両側に、それと同じくらい太いオークの古木が二本、まるで門構えのように生えております。二本の大木がそれぞれが大きく広げた太い枝同士を絡ませ、一体化し、まるでトンネルの様です。これも人工的に作られているのかはわかりませんが、インパクトは大きいですね。


 通称、巨人の隧道と呼ばれるコーディアドラの名所の一つです。近づくと、数十フィートの二人の巨人が腕を組んでいる様にも見えます。何度見ても大迫力です。


 巨人の隧道をくぐると、そこは適度に木漏れ日が降り注ぐ明るい森の中を馬車は一本道に沿って進みます。時々野鳥の涼しげな鳴き声が聞こえて自然と心が癒されますが、この野鳥の鳴き声も管理された野鳥をこの区画に放し飼いにして鳴かせているらしいです。見えないところにスピーカーを設置して鳴き声を流すだけで良い気もしますが、その辺も抜かりなく拘っているのがコーディアドラです。時々、青や赤い小鳥が視界の隅を飛んでいるのが見えます。

 森の中なのに落ち葉ひとつ、鳥のフン一つ舗装路に落ちていないのは、普段見えないように隠れている清掃ロボットが随時掃除している為です。


 ちなみにこの舗装路、馬の蹄を痛めない様に適度に柔らかい樹脂でコーティングがなされております。樹脂なので直ぐ剥げてしまいますが、その補修も同時に行われているそうです。この舗装路だけで維持費いくらかかるんでしょうか。呆れるほどの見栄と意地です。


 数十分ほど馬車は走り森を抜けると、そこには視界を囲むように峻麗な山脈が視界いっぱいに広がります。

 一際目を引くのは真正面の一番高い峰の麓から流れ落ちる巨大な滝です。まさに大瀑布と言うに相応しい、まるでスクリーンの様に幅のある滝です。

 遠目にはそれほど高さがない様に見えますが、実際は数十フィート以上の高さがある大瀑布です。ちなみに完全人工滝です。


 滝壷には巨大な湖が広がり、その湖畔には街の様な建物群が見えますが、あれが私の本日の目的地、皇帝府の付随庁です。皇帝府本体は、滝の上に戴った冠のようにも見える、まるで古代の神殿の様な古式ゆかしい造りの白い建物の方です。遠目には見えませんが、皇帝府は滝上のもう一つの湖の水上に建っているのです。

 本当に見た目全振りって感じです。あそこに行く為だけの専用列車が付随庁から出てるんですよ。しかも蒸気機関車なんです。ちょっと目眩がしそうですね。


 森を抜ける前と同じ様な草原の中に一本だけ引かれた道を馬車が走り、やがて付随庁の入口が見えて来ます。

 付随庁の入り口はやはり立派な門が聳えております。なんでこのコーディアドラの建造物はムダに大きいのでしょう、と不思議に思いますが、とにかく数十フィートもある大きな大理石製の綺麗な白い門でございます。

 門柱や梁には精緻な彫刻が入れられ、金や銀の象嵌によって非常に華麗に装飾されております。門の中央には金銀漆にルビーやガーネット、トルマリンなどの天然石で装飾が施された、『帝国』の紋章でもある不死鳥が大きな翼を広げております。


 こんな風雨に晒される所に用いる装飾ではないと思うのですが、確かにその佇まいはこの世の物とは思えないほど優美です。定期的な補修のことを考えると職業柄頭痛が痛くなりそうですが、これも『帝国』の威厳というものなのでしょう。

 そんな非常に華麗で優美な門ですが、その両脇から伸びる壁はありません。ド派手な門だけが聳えております。まるで観光地の入り口に聳える「ようこそ〇〇へ」と書かれたゲートの様です。


 付随庁には外壁のような物は無く、建物は真っ白な漆喰と天然木を組み合わせた、レトロなログキャビンの様な趣で統一されております。門に比べると少し地味な気がしますが、高原のウィンターリゾートの様な雰囲気です。その代わりどの建物も五階建て以上の巨大な造りをしておりますが。この建物も見た目だけで実は中身鉄筋コンクリートで、地下数十階まで有る、地上に出てる部分が少ないだけの超高層ビルらしいです。多分、周囲の大自然と雰囲気を合わせているのでしょう。

 その割に皇帝府は大神殿みたいなド派手な造りですが。


 大理石の門を潜って街の中に馬車は乗り入れると、門から一直線に伸びた舗装路が、開けた広場の中心で終わっており、その向こうには一際大きな赤レンガ造りの駅舎が見えます。アレが皇帝府に行くためだけの登山列車です。

 御者の方に「どこに付けましょう?」と声を掛けられます。この付随庁郡は結構な広さがあるので、馬車で用事のある庁舎前に付けてくれるのです。



 「ロータリーで降ろして頂ければ結構です」



 私の返答に御者の方は頷くと、馬車は真っ直ぐな舗装路を走り広場まで進み、ロータリーをくるりと一周して車寄せに入ると静かに馬車を止めました。

 御者の方に礼を言ってカートを降ります。


 辺りには私と同じ様に馬車から降りる貴顕の方々の姿が有り、彼らの内少なくない数の方々がそのまま駅舎へと消え、残りの大多数がそれぞれの用事を済ませるため目的の官庁を目指して歩いて行かれます。

 紋章院はロータリーに面しているので私も直ぐ到着致します。


 ふと、眼前にさした影に視線を移せば、使用人に手を添えられて、豪奢な装飾で彩られた四頭立て箱馬車(コーチ)から降りようとする可愛らしいご令嬢が目に入りました。


 見た目、十五、六歳と言った所でしょうか。飾り布をふんだんに使った白と碧を基調としたマント・ド・クールに身を包み、磨き上げた水晶のように透き通る白い肌に長く整えられた睫毛、陽光をキラキラと反射する淡いスパンコールの入ったチーク、と気合の入ったお化粧をキメて、フワリと膨らむように整えられながらも細かな編み込みで複雑に交差する栗色のその御髪は、セットするのに気が遠くなるような時間と労力を要したことでしょう。


 燕尾服に身を包んだ父親と思しき紳士が続いて降りてきたのを見ると、このご令嬢も紋章院へ第一相続人として登録をしに来たのでしょう。

 どこか緊張した面持ちの娘を横目に、私に目を留めた紳士が被っていたシルクハットを取って優雅に会釈するのに、私も答えてシャコー帽を取り目礼いたします。

 お辞儀までは致しません。今はピュミエ大公爵家の家紋が入った大礼服を来ているので、へーリヴィーネ様の名代と見做されるからです。ヘーリヴィーネ様よりも高位の方は『帝国』では皇帝陛下一族しか居りませんので、逆にお辞儀をするのは礼を失してしまいます。


 目深に被ったシャコー帽を取った瞬間、紳士とご令嬢の顔に驚きの色が指しました。……この方々も私の事をご存知のようで……。

 慌ててカーテシーをするご令嬢に微笑んでからお暇をさせて頂きます。



 「……素敵……」



 と言う微かな声が背後から聞こえた気がしますが努めて聞こえなかったことにします。


 ……そういうお言葉は本当に素敵な殿方を見つけた時にお使いくださいませ。今の貴女のソレは一時の気の迷いですわ。


 シャコー帽を被り直して、紋章院へ一足先に向かいます。

 紋章院は山野に佇む山荘風の造りをしており、周囲のロングキャビン風の建物たちとは些か趣が異なります。


 周囲には低い鉄柵に囲われたちょっとした庭園を有しており、隣りにあるロータリーとは地続きであり、良く手入れされた庭園を眺めることができます。ロータリーの横にちょっとした庭園が付いていて、そこが紋章院と繋がっている感じでしょうか。

 紋章院との境界には黄色、白、オレンジを基調に青い指し色の入ったド派手な制服を着た衛士達が彫刻のように仁王立しておりました。


 手に携えているのは大振りな全金属製の長柄戦斧(ハルバード)に見えますが、実はあれは機動兵器の認証鍵です。

 まぁ、多分上手くやれば直接攻撃にも使用出来るとは思いますが、昔私はアレを試しに振ったら折れてしまったことがあるので私はアレで戦おうとは思いません。

 あの衛士の方々も、イザという時は機動兵器を呼び出すのだと思います。


 ……いえあの、見た目、丈夫に見えますけれど、アレ意外と脆いんです。ホントですよ?


 衛士達は私が近づくのを認めると、一斉にハルバードを立てて掌を此方に向けた近習総軍式の敬礼をしてくれます。

 胸につけたピュミエ大公爵家の紋章に気づいたのでしょう。

 私も近習総軍式に答礼して彼らの間を通ります。



 「おい、今の……不要二打のアンジェリカじゃないか?」



 人違いです。


 と言うか、衛士は喋っちゃダメでしょう!私が現役だったら速攻で教育的指導(ビンタ)です命拾いしましたね!!


 尚も聞こえるひそひそ声に剣気を飛ばしてやります。次何か喋ったら腰の流体金属循環式刀身(チェーンブレード)で真っ二つにしてやろうかしら、と。

 歩み去る私の背後で一瞬息を呑むような声がした後は静かになってくれました。そうです。衛士とは平時は常に彫像の様にあるべきですね。


 紋章院の建物の入り口までやってくると、門番の衛士がゴクリと喉を鳴らすのが聞こえましたが、無言でドアを開いてくれます。

 此方の衛士の方は中々優秀な様ですね。彼に会釈して建物の中に入ります。何でビクってしたんですかね彼。


 建物の中は虚飾を排した至って簡素な作りです。二階まで吹き抜けのロビーには趣味の良いブロンズの風合いが施されたシャンデリアと『帝国』章である不死鳥のカーペットが敷かれている他は、待機する家令風の格好をした方が一人しかおりません。



 「ようこそ、お越しくださいました。ヴォーウィット『帝国』侯爵家ご令嬢、『帝国』騎士アンジェリカ様。本日はどの様なご用件で?」



 私の姿を認めるなり、小さな机で書類仕事をしておいでだった家令風の彼女は、立ち上がって一礼。

 亜麻色の髪を後ろで纏めでフォーマルシニヨンにした彼女を私は知らないのですが、どうやら紋章院の受付ともなれば、貴族名鑑に記載されている方の顔と位階を全て記憶している様です。

 いえ、もしかしたら彼女のかけている眼鏡が情報端末になっているのかもしれません。貴族名鑑に記載された方は裕に万を超えるはずですし。



 「貴族名鑑への登録を申請に参りました」



 彼女にヘーリヴィーネ様の申請書を渡すと、彼女は些か訝しげです。



 「アンジェリカ様からは未だ一度もご婚姻のお届け出は出ていない様ですが……失礼」



 ……悪かったですわねいい歳して独り身で……いえ、変な妄想はやめましょう。

 私の手から申請書を受け取ると、彼女は中身を改めます。



 「……申し訳ありませんが、この件は(わたくし)めでは処理できかねます。院長閣下に直接ご裁可をいただく必要が有るでしょう。大変恐縮でございますが、今暫くお時間を頂戴しても宜しいでしょうか?」



 まぁ、そうでしょうね。何せ、『帝国』に一つしか無い大公爵家の第一相続子の申請書。しかもその大公爵家の主は不滅のヘーリヴィーネ様。第一相続子を必要としない人が、作る意味の無い第一相続子を申請に来たのならば、それは怪しいと思う事でしょう。


 あああああああ。私何をされるんでしょう。緊張します。

 彼女の勧めに従って壁際に並べられた一人掛けの赤いフランネル地のソファに座って、奥へと続く扉へと消えた受付の方を待ちます。


 彼女がロビーを出ると、代わって彼女と同じ家令風の制服を身につけた初老の男性がロビーへと現れて一礼。彼女が先程まで座っていた席に着きますと、直ぐにロビーの入り口が開かれて先程御挨拶した紳士とご令嬢が入って参りました。



 「ようこそ、お出で下さいました。ジェラルデン『帝国』男爵ユストフ様と……ご芳名を頂戴しても宜しいでしょうかお嬢様」



 と、先程のご令嬢がチラリチラリと此方を伺いながら受付の方に御自分のお名前を伝えておられます。やはり第一相続子のご登録にいらした様ですね。……御自分のお名前を名乗る時はキチンと相手を見て名乗らねば失礼ですよ?


 お二人は先程私に応対した方が使った扉とは別の、ロビーの右手側にある扉に案内されてゆきました。あの先には面談と宣誓を行う部屋があるのです。

 面接官と貴族に関する簡単な問答を行った後、生涯に亘り『帝国』貴族たる矜持を保つ事を宣誓すると、第一相続子として貴族名鑑に記載されます。


 皇帝陛下の裁可は必要ありません。第一相続子の指名は各貴族の権利であり、第一相続子が爵位を継承するにあたって、皇帝陛下はその拒否権を持つ、と言うのが『帝国』法に定められた相続の規定です。

 と、そんな『帝国』法の規定を脳内でおさらいしてみると、此度のヘーリヴィーネ様の申請の意味が何となく理解できそうです。


 第一相続子は『帝国』貴族と同等の扱いを受けます。爵位は親の一つ下の爵位として扱われる事になります。一つ下の爵位を実際に『名乗る』事は出来ませんがね。

 ヘーリヴィーネ様は『帝国』に一つしかない大公爵位。そうなれば、件のライラ、と言う子は『帝国』法上、公爵位として扱われます。皇帝陛下を除けば、ほとんどの皇帝族と同列です。


 これは私の推察ですが、ヘーリヴィーネ様はそのライラという娘を不可侵の存在にしたいのでは無いでしょうか?親がヘーリヴィーネ様とあれば、皇帝陛下ですら下手に手出しはできません。というか、手を出すには死ぬ覚悟が必要でしょう。グーパンです。

 そう考えれば意味の無い第一相続子の指名にも頷けます。いつか彼女とお会いしてみたいですね。



 「アンジェリカ様、紋章院長閣下がお会いされたいと申されております。よろしいでしょうか?」



 そんな事を考えていると、先程の女性の受付の方が私の傍に立っておりました。


 彼女に連れられ、先程のジェラルデン男爵達とは別の、ロビー正面から奥へ続く扉から院長室へと案内されました。

 院長室は奥の扉から階段を上がって二階の最奥にありました。重厚な樫の扉を押し開くと、そこには豊かな白鬚を蓄えたとても小柄な御老人が大きな執務机に沈む様に座ってお出ででした。



 「久しいのぉ不要二打(にのたちいらず)



 右手を上げてフランクに挨拶するその御老人に、私は深々とお辞儀をいたします。ピュミエ大公爵家名代と言えども、個人的な縁のある方には個人として対応するのが筋というものです。



 「お久しぶりです。マクレゴール近習総監閣下」



 そう答えた私に「もう10年も前に辞めた肩書きで呼ぶんじゃぁねぇよ嫌味かぁ?」などと嬉しそうに手を振って応える紋章院長マクレゴール卿。全身から嫌な汗が吹き出します。


 この人、マジヤベーんですわ。


 『帝国』近習総軍トップの総監職を歴任した私の元上官ではありますが、それ以上に武人として名を馳せた方でもあります。

 現役時代の彼とは全盛期の私でも互角に戦えたかどうか。


 嘗て幾つかの紛争で機動兵器を駆って各地を飛び回り、常にトップの撃墜数を叩き出し『雷光のマクレゴール』と呼ばれた近習総軍では伝説的な英雄(エース)です。

 航空機動戦(ドッグファイト)では絶対勝てる気がしません。



 「まぁ、なんだ。久々の再会を祝してまずは一献……」



 などと言い、マクレゴール卿は金属製の象嵌で装飾された杖をつきながら、丈が若干大きい黒地に金糸で近習総軍の印章が縫い付けられたバニヤン――現役時代からの愛用品なのでしょう――の裾を引きずる様にして壁際の棚からクリスタルグラスとブランデーのデキャンタを取ろうとします。が、先程の受付の女性がヒョイとデキャンタを取り上げてしまいました。



 「何をするマリー。旧知との久々の再会じゃぞ。無粋な事をするでない!」



 杖を突きつけてマリーと言う受付の女性に食って掛かる卿。……私、お仕事中なのでお酒はちょっと。



 「院長閣下、健康診断でお医者様に「常人なら三回は死んでますね」と言われたのをお忘れですか?」



 どれだけ肝臓の数値悪いんですかマクレゴール卿……。



 「儂は常人とは違う!」



 「奥様に御報告せねばなりません」



 くるりと私に向き直るマクレゴール卿。



 「……すまんの不要二打。今日は酒は無しだ」



 ……弱っ!どんだけ奥様怖いんですか。いえ、卿の御体を慮って心を鬼にしておられるのでしょう。私もお仕事の最中ですのでお酒は遠慮します。



 「さて、要件じゃ。マリー、すまぬが席を外してくれ」



 小柄な体を執務机に合わせた大きなプレジデントチェアに沈めて、マクレゴール卿はマリー様に退席を求めます。マリー様は「隠れてお酒を飲もうとしても駄目ですよ。どこでも、いつでも、見ていますからね」と言い残して部屋を出て行かれました。



 「酷いと思わんか不要二打。いつでも見ている、だとよ。この国は何時から自由の無いディストピアになったのだ?」



 そう言って私を指差し「ビッグ・ブラザー・ウォッチング・ユー!」と冗談めかして卿は言う。



 「多分そのビッグ・ブラザーは卿の素敵な奥方様と思われますが?」



 「……貴様、言うようになったのぉ」



 振ったのは卿ですが?どんだけ奥様怖いんです?



 「で、此度のことだがな」



 卿は背もたれに寄りかかると、唐突に本題に入りました。



 「申請書を読ませてもらった。用紙はピュミエ大公爵家の印章が入った誓紙だし、施された碩術印章(トゥグラ)も本物であった。のっぴきならぬ事由によって当人が来院せずに書面のみで手続きが行われることもままある事ではある。しかも、匿名で貴族名鑑に記載を求める事も、稀ではあるが建国以来前例がないわけではない。しかしだ。その申請がその辺の男爵やそこらの小者の物だったなら儂だって右から左にする所じゃが、言わんとしておる事はわかるじゃろう?」



 『帝国』に一つしかない大公爵家の、しかも国母(グレート・マザー)とも呼ばれ敬い畏れられる方の第一相続子に、見たことも聞いたことも無い何処の馬の骨とも知れない輩を指名する内容の書面一つで、はいそうですか、と受理するわけには行かない。納得のいく説明をせよ、と仰りたいのでしょう。


 ええ。解りますとも。でも私が仰せつかったのは、この申請書を出してこい、と言う事だけで、私自身困惑を極めているのです。納得のいくご説明が欲しいのはこちらの方なのです。

 卿は話しながら机の引き出しからパイプを取り出し、火皿に金属製のカートリッジを詰めて口に咥えると、紫煙――ではなく水蒸気(ベイパー)ですね――を吐き出しました。



 「……何じゃ。儂が電子煙草を吸うのがそんなに可笑しいか?」



 ……私何も反応してないんですけど……。どういう因縁の付け方ですそれ?



 「いえ、『卿は奥方様に煙草もやめさせられたんだなぁ、奥方様に対してはクソ雑魚ナメクジじゃんwww』とか思っていないのでお気になさらず先を続けてください」



 「思っとるじゃろ!思っとるじゃん!手前ェ、俺がどんな思いで電子煙草(コレ)を咥えとるかわかっとんのかゴラァ!」



 多分、壮絶なバトルの末、奥方様にぐうの音も出ない程完膚なきまでに打ち負かされて泣く泣く煙草辞めたんだろうなー、とか色々と想像は尽きませんが、シンプルに面倒臭いです。


 というか、マクレゴール卿の奥方様は大層素敵なご婦人、と言う事はとてもよく解りました。『帝国』の伝説的英雄の頭がこれだけ上がらないのですから。速やかに爆死していただきたいです。

 延々歪曲的で粘着質に惚気られるのは独り身のクソ雑魚ナメクジな心に塩を振り掛けられている思いです。特効です。そろそろご勘弁いただきたいです。


 なので、気は進みませんが切り札を切らせていただきましょう。

 いえ、本当に切り札なのでしょうか?何かとても嫌な悪寒を感じます。

 そっと、左腰のサーベルの留め金を外しておきましょう。私、サーベルとかの軽量武器って苦手なんですよねぇ……。



 「ヘーリヴィーネ様より、御言伝を預かっております」



 「おぉお゛?言うてみぃ」



 あぁ……嫌な悪寒しかしません。が、話が進まないので意を決します。



 「……『ソルヴィニヨンの丘で』、と」



 途端、悪所の悪漢の如くメンチを切っていたマクレゴール卿の顔から、「スンッ」と音がしそうなほど唐突に表情が消えてしまいました。


 臨戦体制!第一種防衛体制!


 やっぱり『弱み』の方でしたわ!!!



 「お前ェ、それどこで聞いた?」



 無表情のままゆっくりと立ち上がったマクレゴール卿の表情は能面の如く無表情。私の背筋には嘗て戦場ですら感じた事の無い程強烈な殺気を受けて滝の様な汗が流れている気がします。



 「どこで聞いたかって、聞いてるんだ」



 来る!


 と、予想できていたからでしょう。

 反射的に左腰から抜き放ったサーベルが辛うじて私から見て右から飛来する仕込み杖の一刀を捉えることに成功します。


 っ!いい歳こいてなんっっって速さの抜き打ちをしやがるんですのっ!


 剣筋全然見えません!!



 「腕は鈍っておらぬ様だな不要二打」



 僅かに剣閃を逸らすことが出来たおかげで、蹈鞴を踏むように左側に流れた体に逆らわずにマクレゴール卿と距離を取ります。執務室の本棚につけた背筋が滂沱の汗でぐっしょりと冷たくなっておりました。

 一足飛びで執務机を飛び越えてきたマクレゴール卿が、着地点でふわりとバニヤンの裾を翻してこちらに向き直ります。


 すいません。私、また思い上がっておりました。全盛期の私でも今のマクレゴール卿の次の一刀を受けられる自信がありません。助けてください。



 「もう一度聞こう。先の台詞、どこで聞いた?」



 能面のまま口調まで変わったマクレゴール卿、マジ怖です。誰か助けてください。



 「ですから、ヘーリヴィーネ様からの御言伝です。私には何の意味かさっぱりなのでお願いします剣を降ろして頂けませんか?」



 「飽く迄、シラを切るか」



 「本当の事しか言っておりませんが?」



 「嘘を付く奴はみんなそう言う」



 本当の事を言っている方もそう言うと思います!明らかに魔女裁判ですよソレ!!


 と、そんな事を私が心の中で叫んでいる最中。



 「何かすごい音がしましたが、如何為さいましたか?」



 コンコン、という控えめなノックの後、先程席を外したマリー様が入口のドアからひょっこりと顔を出されました。


 あああああああ!助けてください!

 と、私が歓喜したのも束の間。



 「あらやだ大変」



 と言い残して、部屋の中を見たマリー様は顔を引っ込めてしまいました。この人非人!



 「最後のチャンスをやろう。先の台詞、どこで聞いた?」



 マクレゴール卿の仕込み杖の直剣がユラリと光を反射しながら、卿は右下段へと引き絞られる弓の様に構えを取りました。


 あの構え、剣筋の初動が体で隠れて見にくいので苦手です。

 私も必死にサーベルを正中線上に突き出す様に防御を固めますが、その時初めて気づきました。私のサーベルは先の一撃にてその刀身の半分程が既に切り飛ばされている事に。


 やはり慣れない武器を使うものではありませんね。焦っていたことも有るのでしょうが、構えた武器の重さの変化にも気が付かないとは。

 ……このサーベル、流体金属循環式刀身(チェーンブレード)でしたわねそう言えば?今は過去形ですが。

 私、先程キチンと刃筋は立てたはずですよ?


 というか、刃筋なんかメチャクチャでも刀身の腹にさえ当たらなければ殆どの物体をバターみたいに切れる刀身なんですよコレ?

 それがただの金属の塊の刃に切り負けるってどういう事です!?

 マクレゴール卿の仕込み杖、何で出来てるんです!?!?


 と、短くなったサーベルを見ながら、改めて血の気が引くのを自覚しました。



 「何度も申し上げる通り、ヘーリヴィーネ様の御言伝ですわ」



 私の米噛を冷たい汗が流れ落ちます。


 まずいです。私のこの構え、相手の剣を打ち払う為の構えでしたが、打ち払ったら残った刀身ごとバッサリやられそうです。

 だからといって、今から構えを変えたらその隙に斬りかかられてしまいそうで、怖くて動けません。


 ジリジリ、と焦がれる様なもどかしい時間が流れます。

 さて、この状況、如何致しましょう。

 選択肢としては、意を決して構えを変えるか、必死で出口まで走るか、と言うところでしょうか。

 前者はダメですね。なんかこう、無理っぽいです。


 何で無理なのかはご説明できませんが、無理っぽいです。成功するビジョンが想像できません。

 後者は、どうでしょう?逃がしてくれるでしょうか?出口の扉までは大股で二歩と言ったところ。

 ですが、先に動けば明らかにマクレゴール卿の剣撃の射程内を通過します。


 唯一の救いはマクレゴール卿の構えは卿の右側に剣を引き絞っており、私から見て出口のある方向とは逆方向だという事でしょうか。

 タイミングと速度によっては駆け抜けることができるかもしれません。が、正直自信がありません。

 マクレゴール卿の抜き打ちの初動に反応できるかどうか……。


 動こうとすると、私の筋肉の動きを読んで対応するようにマクレゴール卿がピクリと反応します。

 これは駄目です。こちらからは動けません。絶望です。

 等と、私がグルグル思考を巡らせているその時でした。



 「何をしていらっしゃるのアナタ?」



 と、小鳥が囀るような素敵な御声が掛かりました。



 「っ!!!!!!」



 すると、マクレゴール卿がまるで石を飲み込んだように息を呑み、見る見る内に物の見事に顔面が蒼白に染まります。



 「何をしていらっしゃるの、と尋ねているのよ。アナタ?」



 スルリと、まるで幽霊の様に、板張りの床でも足音一つ立てずに、その方は滑るように部屋へと入って来られました。

 速度自体は大人が歩く速度とほぼ同じだったでしょう。ですが、衣擦れの音すらしないからか、その歩法に秘密があるのか、私では視線ですらその姿を追うことができませんでした。



 「ねぇ、アナタ?」



 気がつけば、まるで時が遅くなった世界で一人だけ普通の速度で動いているかのように、私の視線がその動きに反応した時には、既にその方はマクレゴール卿の背後から卿の小さな頭を鷲掴みにしておりました。



 「……ま……待て、オリビアよ……。此奴、儂の幼い頃の重大な秘密を……」



 「え?なんですかソレ?(わたくし)そんなエピソード知りませんよ?向こうで詳しく聞かせてくださいな」



 身の丈は私より少し小さいくらいでしょうか?マクレゴール卿に比べると頭一つ分ほど背が高いですが、スタイルの良さが際立つその立ち姿に、まるで雪のように綺麗に白くに染まった御髪をポニーテールに纏めた素敵な淑女が、いつの間にかマクレゴール卿の頭をアイアン・クローしながら微笑んでおられました。


 ……いえ、微笑んで居られるように見えますが、その上弦の月のように細められた眼の奥から発せられる冷たく鋭利な殺気は、向けられた者をまるで雪原に放り出されたかのように凍りつかせます。

 まるで身動きが出来ません。私、全盛期でもマクレゴール卿には勝てないと申しましたが、目の前のこの素敵な老婦人には1ミリたりとも抵抗出来ないでしょう。上には上が居る物です。



 「宅が大変失礼を致しました。私、このアラン・マクレゴールの妻でございます。本当に、宅が失礼を致しました、眼を離すと直ぐにヤンチャしちゃうんで困っておりますのよ」



 おほほほ、とお上品に笑いながら、首根っこを掴まれた子猫の様になったマクレゴール卿を片手で持ち上げて、卿の奥方様――オリビア様はアッシュブルーのプリーツが入ったロングスカートを優雅に靡かせながら楚々と部屋を出ていってしまわれました。


 その去り際にチラリと見えたマクレゴール卿の表情たるや、肉食獣に首根っこを圧えられた幼気な野兎のようでございました。合掌。

 オリビア様が去り、部屋が静寂に包まれると、今度は入り口からヒョッコリとマリー様が顔を出されます。



 「間に合って()御座いました。どうせまたマクレゴール卿が癇癪を起こされたのでしょうけど、一応、何が有ったかお伺いしても?」



 一気に足の力が抜けてズルリと、私は床にへたり込みながら、つい、今し方の事のあらましをマリー様に説明してしまいました。



 「『ソルヴィニヨンの丘で』、ですか。これは良い事を聞きました。母……オリビア様にご報告をしませんと」



 スキップでもしそうな勢いでマリー様は部屋を出ていかれてしまいます。


 一人残された私は、これからどうすれば宜しいのでしょう?

 ヘーリヴィーネ様の申請書は受理されたのでしょうか?


 え?ていうか、マリー様、マクレゴール卿の御息女なのですか?全然似てないんですけど?あぁ、よく見ればオリビア様には目元とかとても良く似られておりますね。


 等と、急転直下する状況に途方に暮れかけた所に、マリー様がまた入口の扉から顔を出されました。



 「申請書は受理致しましたのでもうお帰りになられて結構ですよ。父……マクレゴール紋章院長の件は大変失礼を致しました。私からもお詫び申し上げます。代わりと言ってはなんですが、申請書の件はコチラで全て上手くやっておきます。ですからへーリヴィーネ様にはその旨、宜しくお伝えくださいね」



 と。


 ……終わりよければ全て良し、とはこの事なのでしょうか?というか、何が起こってどうなったんですか?

 当事者でなければ諸手で喜べたのですが。


 逆に当事者だと「結局大団円になるなら七面倒な途中は全カットしてよ!イジメかコレ?!」と抗議したくなるのも無理はないと私は激しく自己肯定したいです。


 何にせよ、疲れてしまいましたわ。

 帰りましょう。


 何やら遠くから野太い悲鳴が聞こえてきますが気にしないことに致しましょう。


 そういえば、例のマクレゴール卿の符丁、と言うか、弱み、でしょうか?

 マリー様に話してしまって良かったのでしょうか。今更ながらに少し気になりますが、疲れて頭が回りません。


 御家族なんですもの。構いませんわよね?気にしないことに致しましょう。


 半分になってしまったサーベルを鞘に収めて、私は疲れた体を引きずって帰路につくのでした。


 その時の私は、その後顔を合わせる毎に奇声を発しながらマクレゴール卿が問答無用で襲って来る様になる、等とは露も知らないのでした。


 ……へーリヴィーネ様にお仕えするのは本当、大変です。

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― 新着の感想 ―
[一言] ヘリさん、歴代皇帝や皇族に 躾(物理) 教育(物理) 諫言(物理) してたんやろな……。 相続の登録には父母の記載の必要はないんだろうか? もし記載欄があったら父のところに猫の名前がさらっ…
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