#2
召喚用の特殊な碩術陣が一層輝きを増したかと思うと、視界を塗りつぶす虹光と共に耳を劈く咆哮が響いた。
瞼を閉じても白潰しにされていた視界が徐々に戻ると、そこには神々しい赤光と共に一匹の火竜が顕現していた。
「ヘルカイトだ!」
誰が叫んだのかは解らない。だが、光を失った召喚用の碩術陣には、確かに火竜の上位種たるヘルカイトの幼竜が鎮座していた。
「セルニルトン伯爵令嬢がヘルカイトを喚んだぞ!」
途端に生徒たちで埋め尽くされた大ホールが歓声に包まれる。
最奥に設置された召喚用碩術陣で、セルニルトン伯爵家のルクレチアが信じられない物を見るように、自身が召喚したヘルカイトを見上げていた。
ヘルカイトはドラゴンの上位種である。気位が高い上に気性も荒く、余程の術者でなければ召喚に応じるようなことはない。
それが、初等幼年学校の卒業の儀で召喚されるなどという事は聞いたことが無い。余程、彼女には碩術の才が有ったのだろう。それとも神霊の加護か、それともそのどちらもなのかもしれない。
甲高い嘶きとともに、ホールが歓声につつまれる。
やはりセルニルトン家の息女は神童か、と儀式を見守る教師陣も口々に囁きあっていた。
ルクレチアを称える学友達の声に誇らしげに手を振りながら応える彼女の姿が、私にはどうしようもなく眩しかった。
彼女は間違いなく、特待生として特志高等学校に入学することになるだろう。その後は王立学院か、それともそのまま宮廷に召し抱えられるかもしれない。確かなことは、彼女には輝かしい未来しか待っていない事だ。
私は両の手をきつく握りしめた。まだ解らない。ヘルカイトに匹敵する使い魔を召喚することができれば良いのだ。私にだってまだチャンスは有る。
卒業の儀は次の生徒に移り、彼が召喚したのは大きなミミズクだった。種類としては一般的な部類だ。
ヘルカイト、とまでは言わない。一角獣や不死鳥など到底無理であることはわかっている。
次の生徒が召喚したのは黒鷲。大成功と言っていいだろう。非常に有用性の高い使い魔だ。例年であれば特待生で特志高等学校に進学出来たかもしれない。ルクレチアの存在は不運であったとしか言い様がないだろう。
私はルクレチアのように強力な使い魔を召喚するには、決定的にマナが不足している。マナ総量は個人差が有る上に、成長によって増えるスピードも個人差が有り過ぎるのだから仕方がないが、私はマナ総量の測定では同年代平均よりも少し……そう、少し少なかった。
ルクレチアが特殊なのだ。12歳の彼女のマナ総量は既に一人前の碩術師が有する量を軽く超えている。
いつの世もどの分野にも天才という存在は居るのだ。それがたまたま私ではなかっただけの事だと言うのに、それが悔しくてたまらなかった。
卒業の儀は粛々と進行し、ある生徒は優秀な使い魔を手に入れ歓喜に顔を綻ばせ、ある生徒は在り来りな使い魔を手にして自身の才覚を再確認した。
そして、私の番。自然と両の足に力が入る。握りしめた拳は既に白を通り越して鬱血したような赤紫になっているのを見て私は苦笑した。
私には才能が足りない事は分かっている。
それでも、足りない才能なりに努力は続けてきたつもりだ。マナ不足から来る呼吸困難や目眩と闘わなかった夜は無い。
切り詰めた生活故か、発育も遅れがちだということは自覚している。資金もそれほどあるとは言えない。だとしても、私には長く険しい碩学の道を諦めるわけには行かなかった。
私は大ホールの最奥に据えられた召喚用魔法陣の前に並んだ生徒たちの最前列で深呼吸する。
卒業の儀とは初等幼年学校の卒業式であるとともに、この後の進路を決する重要な儀式だ。
形式的には、先代の国王による「学業修習ヲ以テ汎ク臣民ヲ啓ケ使メ、国家ノ精華ヲ扶ク可シ」と言う教育勅令によって創設された初等幼年学校はその門戸を万民に開いているが、その後の進学先に関しては初等幼年学校の成績と各人の才能でもって決まる。
幾らヤル気が有っても、お金が有っても、初等幼年学校より先はその才能の有る無しによって大きく道が狭まってしまう。
卒業の儀は碩術師として一般的な教養を身につけた証として、国家から使い魔が授与される儀式であると同時に、選抜試験の意味も兼ねているのだ。
卒業の儀によって才能の有る者は数多なる神霊から見初められ、強力な使い魔を得る。使い魔とは一般的な動物や魔物よりも高位の神霊が顕現した物だ。才能ある者の碩術波動はより高みに御わす高位の神霊に届き、神霊はそれに応える。才能無き者の碩術波動はそれ相応の高みへとしか届かない。届かなければ高位の神霊達が応えてくれるはずもなく、それ相応の使い魔しか得られないのだ。
高位の神霊は驚異的な能力をもっているし、それだけで強力な戦力となる。高位神霊の召喚に成功した者の未来が約束されるのは、国が戦力として是が非でも確保に走るからである。
ヘルカイト等はその良い例だ。ドラゴンやその下位のレッサードラゴン、ワイバーンや空を飛べない地竜ですらヒトから見れば脅威である。
もし召喚できたなら、それだけで国軍は破格の高待遇で迎えてくれる。それがより高位のヘルカイトともなれば、国軍は疎か近衛ですら諸手を挙げて歓迎するだろう。
その事が、ヘルカイトを召喚したのが私ではない、と言う事実が、とても口惜しかった。しかも目の前で召喚されるのを見た後と有っては、その抑えがたい感情が私の拳をより一層キツく締め上げた。
あさましい、と自身でも自覚はしていた。だがそれでも、目の前で将来が約束された瞬間を目にすると、蓋をしようと努力しても羨ましいと言う感情が溢れ出て来るのを止められない。
『より高位の神霊は清廉なる心声にのみ応える』と言う。
その言葉に従えば、こんな濁りきった心情では神霊達に振り向いてもらえなくなる、と解ってはいても、溢れ出る負の感情を私は抑えきれなかった。
「ライラ・デアフリンガー・ネルソン、前へ」
私の名が呼ばれ、ゆっくりと碩術陣の前に立つ。
右手を巨大な魔法陣に翳し、何度も練習した珠文を間違えないよう注意深く暗唱する。
「混沌ノ渦二於テ、嵩ク皇グ昴。黄穹二列ス御柱ヨ。牙爪無キ矮夫二、畏慧ノ叡智和壽乎」
右手にマナが収束していくのを感じる。ぼんやりとした光が右手を包み、ゆっくりとマナが碩術陣へと抽出されてくのを感じた。
「左周乃円環乎頭上ニ。一周乃円環乎穢手ニ。一和三分ニ周乃円環乎瀞手ニ。左周乃円環乎逆巻ニ。一周乃円環乎ニ周ニ。一和三分ニ周乃円環乎二分一ニ」
碩術陣が淡い光を宿し始めるのを尻目に、私は自身の内で渦巻く不安と戦った。
ルクレチアの時はもっと碩術陣の光が強かった気がする。その後の生徒よりも、その後の後の生徒よりも碩術陣の光が弱い気がする。
「我、混沌ノ渦ニ於イテ、尚意味在ル者ヨ、励起セン」
碩術陣がより一層光輝くが、その光の強さが他の皆よりも弱い気がして、私は絞れるだけのマナを注ぎ込もうと全身に渦巻くマナを一生懸命右手から放出した。
「我血、我肉ニ憑リテ、収束セヨ」
私に応える使い魔はどんな神霊だろう。いや、それよりも応えてくれるのだろうか。願わくば、より貴き神霊を……。
そんなどうしようもない不安が払っても払っても止め処無く溢れてくる。
「我意、我志ニ憑リテ、顕現セヨ……」
誰かがため息を吐いた気がした。使い魔はまだ応えない。珠文を最後まで唱えても、誰も応えてはくれない。
ふと、周りがざわめき、失望の色を孕んだ吐息がそこかしこで吐かれた気がした。
そんな馬鹿な。
誰か応えてよ。
確かに私のマナ総量は他人よりも少しだけ、いや、かなり少ない。だがそれでも、過去に卒業の儀で使い魔を召喚できない者は居なかった。私よりもマナが少ない者だって、きっと居た筈なのに。
息が上がる。マナを放出しすぎている。だが止めるわけにはいかなかった。使い魔を得られない碩術師など、聞いたことが無い。
いや、如何なる神霊にも見初められない碩術師など、碩術師ではない。それは大気に渦巻く精霊たちに見放されているのと同義だ。
目頭が熱くなり、鼻の奥に熱いものがこみ上げてきた。その時だった。
『多くを望む欲深き者よ。其方は何を望まんや』
幻聴ではない。弾かれたように周囲を見回すが、そこには失望に染まって私を見つめる眼ばかり。では、誰が、と考えて、魔法陣が一層の輝きを増したのはその時だった。
光を増した碩術陣に、おぉ、と周囲から感嘆の声が上がる。私は思わずマナの放出を止めそうになった。なぜなら、使い魔とは簡単な意思疎通こそ出来ても、この様に明確な意思を持って術者に問いかけるような存在ではないからだ。
そんな使い魔は聞いたことが無い。ホールで行く末を見守る皆にはこの声が聞こえているのだろうか。
『なに、罪を問うておるのではない。望む事は善である』
その言葉に、私の中に渦巻く卑しいと断じていた感情が、するりと解けていく様な気がした。
声の主は「望め」と言っている。その時、私の中でこれまでの不遇であった日々の記憶が嵐のように吹き荒び、そして一つに紡がれた気がした。
「――全てを」
気付いた時には、その一言が零れていた。途端、碩術陣から眩い閃光が溢れ、ホールの景色を圧倒的な圧力を以て白潰しにした。
『なにゆえ全てを望む?』
その言葉とは裏腹に欣喜雀躍とした声と共に、翳した右腕が力強い何かに引かれた気がした。
歯を食いしばって引かれる右手に抗う。いや、引き寄せる。
額から嫌な汗が幾筋も流れ落ち、乾ききった喉がひり付き臓腑の痙攣さえ伴って吐き気を催すが、私は右手を引き寄せ続けた。
私は、全てを手に入れたい。地位、名誉、金銭、全てだ。復讐?いや、そんな大それた物ではない。これは単なる欲望。
万人が羨む私に、私はなりたい。私は最高の私になって、「めでたし!」と言って死ねる人間になりたいのだ。
『欲するなれば、先ずは朕を其方の力で引き寄せて見せよ。朕からは、行かぬぞ』
何かが、伸ばした手の先で紡がれて行くのを感じる。
その先に、温かい何かを感じた時、私は力いっぱいその手を引き寄せた。
光が、一層強くなる。まるで、重さを持った光に押しつぶされそうだった。
周りで、悲鳴とも、歓声ともつかない声が上がる。
うそ。本当に、応えてくれた。
応えてくれた!
光はそれまでの重さが嘘のように、一瞬で霧散した。
白潰しにされた世界が、段々と色を取り戻す。
「にゃぁーおーーーーーーん!」
その雄叫びは、目の前の碩術陣に鎮座した小さな影から発せられていた。
威風堂々。
将に、その言葉がピッタリな、至極得意げに鎮座する小さな影がそこに居た。
いや、影じゃない。黒いのだ。
「黒猫?」
視界が戻ったホールの面々が溜息のような声で呟いたのが私の心を痛烈に叩きのめした。
嘘、でしょ?
あんなに強い光、見たことがなかった。良くは覚えていないが、言葉でもって語りかけてもくれた。
なのに……。
「ライラ、下がりなさい。次の者!」
教員の声を背に、私は震える手で、何やら自身の体をしきりに前足で叩いているその小さな黒猫を抱き上げた。