ミジージへの道程
「いまの音はなんなんだ?」
「…………」
「なあ、おい……」
キイスは返事をせずに、バンダナを外して二、三度払った。汗が蒸発して付着した塩粒が大地に消えていく。彼はその間も歩みを止めることはない。
ラクダがふるる、と息を吐いた。
「……まあ、いいさ」
キイスは先ほどついてこいと言ったきり、一言も口をきかなかった。
李由は暑くて自分で扇いだ。しかし気休めにもならなかったので、兜を脱いだ。
内に収められていた艶やかな黒髪が零れた。李由は手で髪を払う。白いうなじがちらりとのぞくも、毛先が元の形に整ってすぐに隠れる。吐息が李由の口から漏れた。
ふたこぶの間に兜を置いた李由は視線に気がつき、振り向いた。
キイスは足を止め、呆けた様子でじっと李由を見つめていた。
「……僕の顔に、なにか?」
問われたキイスは気まずそうに視線をさまよわせた。それから李由を見ると、恐る恐る口を開いた。
「お前は、その…………女なのか?」
李由の月のように薄白い肌が真っ赤に染まった。
「僕は男だ! 侮辱しているのか!?」
「いや、そ、そんなつもりはない。ただ、その……いや、すまなかった。謝る」
しどろもどろに弁解するキイス。あまりに必死な態度だったので、李由はむしろ己を恥じた。
「その……こちらこそ怒鳴って、すまない」
キイスはごにょごにょ言いつつ顔をそらし、また歩き出した。心なしか歩調が早い。
李由は女に間違えられることに慣れていたが、こんなにうぶな反応を見るのは久しかった。
李由が思わずクスクス笑うと、それを聞きつけたキイスに赤い顔で睨まれた。
「置いていくぞ」
「あ、ちょっと!」
目に見えて早足で進み始めたキイス。李由はラクダの腹を軽く蹴り、歩調を速めて追いかけた。
キイスはとうぶん話しかけてこないだろう。そう思い、李由はこぶにもたれかかって空をあおぐ。
風が気持ちよかった。雲は少なく、空は大海のように拓けていた。
李由は肩の重苦しさが消えていることに気がついた。
知らず、緊張を保ち続けていたのだろう。体の疲労が遅れて知覚されていく。李由は目を閉じて、まどろみのなか先刻を回想した。
蒼龍の到着によって膠着状態に陥ったものの、李由のおかれた状況は変わらなかった。
キイスは抜刀して構えたままだ。先ほどの身体能力を考えると、キイスが飛び出してきたら李由は首を取られかねない。
キイスの敵意が膨らみ始めたのを察知して、彼はすぐさま決断を下した。
李由は刀を突き出すと、そのまま手放した。
驚いたキイスの視線の先で、刃が赤茶けた大地に突き立つ。
困惑するキイスに李由はできるだけ穏やかに語りかける。
「私たちはミジージと敵対するつもりはない。みなにも武器を捨てさせる。だから、刃を収めてくれ」
李由の言葉を受けて、キイスを取り囲んでいた男たちがさっと武器を地面においた。
「私たちはある目的をもってここに来た。ミジージには協力をお願いしたい」
「協力だって?」
驚くキイスに李由は頷いた
「そうだ。ミジージの長に話をさせてくれないか?」
李由の申し出にキイスはしばし悩み、まっすぐに李由の目を見ると、こう切り出した。
「まずは、お前一人だけを案内する。協力がどうなるかは村長の判断しだいだ。
だが結果がどうであろうと、この男は俺が必ず生かしてここに帰す。それでいいか?」
その瞳がキイスの誠実さを感じさせた。
李由は頷き、刀を拾うと隊を残してキイスについていったのだった。
眠気の取れた李由は目を開けた。
もう日は沈んだだろうという李由の予想に反し、陽の傾きはまだ半刻も経過していないことを示していた。
茫洋とした大地に、ただ足音だけが響いていた。
村は未だどこにあるのかわからず、どれだけかかるのかわからないままだ。
謀られたのではないのか? 李由の脳裏に疑念がよぎった。
だが彼はすぐさま、キイスのまっすぐな瞳を思い出した。
あれだけ純粋な瞳を持つ者は諧の高僧にもそういない。彼は信頼していい相手だ。李由は疑念を打ち消した。
李由が出会ってきた人々の多くは、性根がどうであれ、なにかしら後ろめたい気持ちを抱いていた。それがキイスには見受けられなかった。
彼はいったいどんな生活を過ごしてきたのだろう?
李由の内に、キイスへの興味が芽を出した。
なにか聞こうと李由が口を開きかけたそのとき、突如キイスは立ち止まった。
李由は心の中を見透かされたのかと驚きいて、慌てて手綱を引いてラクダを止めた。
二人はちょうど丘の一番高いところに差し掛かったところだった。
「見ろ」
キイスは一点を指差した。視線をその示す先に向けると、一里ほど先に石壁に囲まれた村があった。
肩ほどの高さの壁には色彩鮮やかな模様が描かれている。その内側に藁葺き屋根の家屋が円形に並び、ひときわ大きな建物を取り囲んでいた。
ちょうど何名かの男たちが門で待つ人々に迎えられ、門が閉じるところだった。
「村長はあそこにいる」
キイスの言葉に李由は安堵の溜息をついた。
丘を下るとほどなくして村にたどり着いた。待ち受けていたかのように門が開く。
幼い少年と少女が驚く二人を迎えた。サマーキとマージだ。
「ええと、あの……」
そわそわしているサマーキの代わりにマージが話した。
「村長がお待ちです。ラクダは、この」
といってマージはサマーキを小突いた。
「サマーキが預かります。どうぞこちらへ」
マージはサマーキを置いて村の中に入っていく。キイスはそれを追いかけた。
李由は荷物を取ってラクダを降りるとサマーキに手綱を預けた。その途端、ラクダが首を左右に動かし、ヴェエエ、と鳴きはじめた。
「わっ、わっ」
低い声に驚くサマーキに李由は笑いかけた。
「そいつ、人を選ぶんだ。けど君にはきっとなつくから、まあ、よろしく頼んだ」
「は、はい! わっ、こら、やめ」
顔を近づけくんくん匂いを嗅いだりするラクダに慌てるサマーキ。李由は振り返ってサマーキの奮闘に笑いながら、マージとキイスを追いかけた。
キイスは李由が追いつく前にマージに耳打ちする。
「なんだ、さっきの話し方」
「お客さんには無礼がないように、って。村長がこういう話し方しなさいって」
「へんなの……じゃあ、またな」
会話を終えて離れていこうとするキイスの手首をマージが握った。キイスは足を止める。
「なんだよ」
「あ、えっと」
マージは手首を掴んだ自分の手とキイスの顔を交互に見ていたが、李由が近づいてくるのを見てぱっと手を離した。
「村長がキイスも来いって言ってたから!」
マージは早口でまくし立てた。キイスはおかしな態度を問いただそうとしたが、李由が合流したので何も訊かなかった。
家の中から無遠慮に向けられる奇異の視線を感じながら、三人は村の中央の建物に向かった。建物の入り口でダクターリが待っていた。
マージが一行から離れた後、ダクターリは李由に会釈した。
「どうぞ、中へ」
注釈:諧において一里はメートル法における500mの距離を指す