虎蛇之決闘
その場に居合わせたのなら、雷が落ちたのかと疑っただろう。
音の主はもうそこにはなく、大地が深々と抉られているばかりである。
キイスの踏み込みは虎のそれを思わせた。一足飛びに、一間はあった距離を彼はゼロにした。宙に跳んだ彼は、勢いそのまま拳を振った。
しかし李由はひどく落ちついた様子で、両腕をその豪腕に絡ませる。
それは、蛇が獲物を捕らえたような。
「シィッ――――!」
勢いを殺すことなく、李由はキイスの腕を導き、そのまま地面に叩きつける。
李由はグンと体を引かれ思わず手を離した。その隙にキイスは後転すると首をバネにして跳ね起きて、バク転して距離を置いた。
キイスは唖然とした様子で自分の敵を見据える。
李由は彼にまた笑いかけると、先ほどと同じように構えをとった。
右手を軽く伸ばし、左手を胸元に引き締めた姿勢。
キイスが虎だとすれば、李由は蛇だ。
どう動くかわからない不気味さが、キイスの本能を痛いほどに突き刺している。キイスは拳をぐっと握りしめ、僅かな動きも見逃さないようジッと獲物を睨みつけた。
何分か経ったかわからない。それほどの時間、二人はジリジリと睨み合ったまま、円を描くように移動して間合いを詰めずにいる。
互いの位置が入れ替わったとき、李由が足を止めた。合わせてキイスも踏みとどまる。
にらみ合い。静寂。悲鳴にもにた風の凪ぐ音。
松明の弾けると同時に、李由が一歩を踏み出した。
キイスもそれに合わせて一歩を詰める。
すると李由が、さらに踏み込んでくる。
少しずつ、少しずつ距離が縮まる。
二人の呼吸が同調する。吸う、動く、吐く、吸う、動く、吐く、――
キイスが次の足を出そうと息を吸った。
「把ッ」
その瞬間を狙い澄まして、李由は穿掌を放った。キイスの顎を、重い一撃が撃ち抜く。李由は手応えを確信した。
しかし、李由の臓腑が一瞬の内に冷え切った。直感のまま李由は腕をひこうとするが、すでに遅すぎた。
キイスは動物的な反射に任せて顔を反らして直撃を避けると、引き戻そうとした李由の手首を掴んだ。
次の瞬間、李由は鋭い痛みに思わず声を上げそうになった。押し倒され、声を上げる与えられなかった。
遅れて李由は視線を向ける。
がり、と李由の小指の骨とキイスの犬歯が擦れた鈍い音。キイスは穿掌に横合いから噛み付いていた。
「虎か、君は!?」
「そういうお前は蛇か」
噛み付いたまま器用に話すキイス。ゴリゴリといたぶられて、李由は思わず苦悶に顔を歪める。首元にキイスの太い指が乗っていた。このまま力を加えられれば、へし折られるかもしれない。
「どうする、やめるか。負けを認めるか?」
ぎらつく瞳が李由を捉える。
「――冗談!」
李由はしかし、笑ってみせた。
そして頭を振りかぶると、思いっきり頭突きをかました。
「あ痛ァ!」
二人ぶんの声があがる。悶えるキイスを横に突き飛ばして立ち上がると、李由は左手を押さえながら距離をとった。
血が流れている。
どくどくと、心臓の鼓動にあわせて、朱い血が。
李由は傷口を口に含むと、血を吸って唾とともにぺっとはいた。
唇を舐めると鉄の味。それに混ざって、知らない味わい。
キイスを見ると、くらくらと目を回していたのもつかの間、平然と立ち上がってまた李由を睨みつけている。
李由の心の中から湧き起こるものが、彼の全身を震わせた。
その正体を確かめようと、今度は彼が先手を取った。
中段に潜り込んでの突きを放つ。キイスは反射的に、李由の鼻っ柱めがけて拳を振るっていた。
だが、合わせるようにして李由は地面を蹴って下がり、拳をはたき落とした。
キイスの表情が驚愕に変わると同時、引き戻された勢いそのまま繰り出された上段突きがキイスの鎖骨を捉えた。
平然としていたキイスの顔が痛みに歪んだ。だがそれで体を止めるキイスではない。
身を引く李由に向かって蹴りが飛び出す。李由は足を上げてそれを受け止める。
「――ッ」
あまりに重い一撃。
李由は自分が相手をしているのが、本当に同じ人間なのかと思わず疑う。同時に自分の内側に、隠しきれない衝動が熱を帯びているのを感じた。
手が止まったその一瞬、キイスは蹴り出した足をそのまま踏み込みの足に変えて肩から体当りした。
華奢な李由の体が、宙に浮いた。
数尺後方になんとか李由は着地できたがその瞬間に全身が総毛立った。感覚のままに腕で顔を守るようにする。
そこに拳。衝撃に押され李由は後退する。
次も拳だと李由は直感した。腕を下ろし、手のひらで迫る二の腕を押して向きをそらす。
隙間の空いた脇に推掌。
キイスが体勢を崩した。
その黒い瞳には、燃え盛る闘志。そして、打ち合いを愉しむ喜色。
――同じだ。こいつは、僕と同じ思いでいる!
李由は湧き起こるものの正体――歓喜を見出した。
『不畏打、不貪打』
瞬間、李由の脳裏に師匠の言葉がよぎる。恐れず、冷静に、衝動に身を任せずにただ徹底的に肉体を制御する。
沸き立つ思いを理性が飲み干し、沸騰寸前の熱量を以て李由の拳がキイスに食らいつく。
がら空きの鎖骨に向かって推掌、挑掌が続けざまに。
仰け反ったキイスの肋にむけて、冲拳。両の拳を叩き込む。
硬い筋肉の感触。己の拳に伝わる熱さ。
李由はそのままの勢いでさらにもう一度、一連の拳を叩き込んだ。
刹那のうちに振るわれる練り上げられた技の数々。制御された肉体の最適な運用が生み出す究極の技。
「アァッ!」
最後の一撃で残心。正中線に叩き込まれた拳によろけたキイスに、李由はトドメの廻し蹴りを叩き込んだ。
だが、――キイスは反応してみせた。
キイスの左腕が、李由の蹴りを受け止めた。そして右手が彼の足首を掴む。
李由はぐっと引かれて体勢を崩し、背中から地面に落ちる。
次の一撃を腕で守ろうと李由が力を入れた瞬間に、掴まれた足が離された。
即座に李由は横に転がった。
先ほどまで李由がいた場所に、戦端を開いた雷が落ちた。
今度は規模は小さいものの、当たっていたらどうなっていたことか、容易に想像がつく。乾いた大地の欠片が撒き散らされて、転がる李由は土埃をもろにあびた。
李由は咳き込みながら体を起こして距離を取る。
顔を振って前を見ると、キイスがはっきりと笑みを浮かべていた。
李由は確信した。彼もまた、同じことを考えている。
いつまでも、この時間が続いてほしい。
この打ち合いで二人は互いの呼吸を、動きを覚えた。
二人はもはや一心同体。李由は、そしておそらくキイスも、次に相手がどう動くかわかっている。そしてその上を行こうとする。その研ぎ澄まされた時間が、あまりにも惜しい。
二人は互いの拳に熱を感じていた。だが、それに気を配らなかった。二人には互いしか見えていない。
だから、共に気づけていなかった。
朱い幾何学模様が、キイスの右の手の甲に浮かび上がっていることに。
そして蒼い幾何学模様が、李由の左の手の甲に浮かび上がっていることに。
松明の弾ける音も、野次馬の呼吸も、夜の訪れを告げる肉食獣の遠吠えも、すべてがかき消されていた。
彼らには互いの呼吸の音しか聞こえていない。自らのうちから湧き上がる歓喜の声に打ち震えている。
二人は同時に息を吐いた。
キイスが来る、次は拳だ。だが狙いを外して突進か、――なんでもいい、来い!
「そこまで!」
三度目の雷に割り込むように、孫起の大声が場を覚まさせた。
李由は無言で孫起を睨みつける。だが李由に向かって慌てた様子で近づいてきたのはダクターリの方だった。
彼は李由の手を取って様子を見るなり青ざめた。
「血が出ている。これはまずい、ペポプンダ――ええと、破傷風のおそれがある。すぐに来てください」
「何故止めるんです。まだいいでしょう」
「時間との勝負なんです。判ってください。さあ、早く!」
手を引かれるまま李由はダクターリと孫起に連れられ村長の棲家にへと向かう。
去り際、背後が騒がしかったので李由は振り返った。
人々が――ミジージも諧も問わず、先ほどまで李由がキイスと拳を交えていた舞台に殺到していた。
その中央に赤い髪が見え隠れしている。
「キイス、やっぱ強いじゃん!」
「見直したぞ!」
村人たちの、キイスに向けた純粋な賞賛が李由にまで聞こえてきた。
それが、たまらなく嬉しくて――思わず李由は、声を出して笑っていた。
その声が聞こえたのだろうか、キイスは彼の視線に気がついた。
野次馬をかき分けて前に出ると、キイスは大きく手を振って、嬉しそうに言った。
「またやろう!」
李由は満面の笑みで、手を振り返した。
「また、かならず!」
かくして最初の夜は過ぎてゆく。
第二章、お楽しみいただけましたでしょうか?
第三章も鋭意製作中です。
ついにはじまりの地へと向かう李由たち。その旅路で、彼らが見つけたものはなにか?
仲良くなったキイスに、李由が告げる言葉はいったい?
遅筆ゆえ更新はまた遅くなるかもしれませんが、また、よろしくお願いします。