ロックランド
ピエネの作ってくれた食事をまるで餓鬼のごとく食い漁ったオレは、ベッドから出もせずに食うだけ食って再び深い眠りについた。
トイレに行きたい。どれくらい眠ったのだろうか。オレは強烈な尿意で目を覚ました。かなりテンションの下がる目覚めのきっかけではあるが、いい歳して寝小便でもしたらテンションが下がるどころの話ではない。
窓の外が薄暗い。ピエネたちに囲まれながら食事をしていた時に高く昇っていた陽は、既にそこにはない。夕方なのか、それとも明け方まで眠り続けたのか。体内時計は完全に機能を停止しているようだが、寝過ぎた後の朦朧とした感覚はない。
起き上がりベッドから降りると一瞬フラついたが何とか歩けそうだ。オレは寝室を出ると、そのままトイレを探して屋敷内をさまよった。
まるで大使館を思わせる広く豪華な作りの廊下をひたすら歩き続ける。階段を下り、また上りそして歩く。そんな事を何度か繰り返しているうちに、廊下の突き当たりの扉を開けると中庭のような場所に出た。オレのタンクは既に表面張力ギリギリの満タン状態だ。悪い事だとは知りながらもオレは奥の茂みに掛け込む。パンツから息子を解放してやるのとほぼ同時に、タンクの元栓が解放され勢い良く放水が始まった。
ギリギリの膨張状態から解放される快感に浸っていると背後に気配を感じる。カツカツと硬さを感じさせる蹄の音が止まると、スンスンと音を立てて匂いを嗅ぎはじめた。気まずい事に放水作業は尚も続いており止まる気配がない。辺りに聞こえるのはオレの背後にいる何かの蹄と鼻息と、オレの垂れ流す放水の音だけだ。
ようやく息子をパンツの中に回収したオレはゆっくりと振り向く。
そこには立っていたのは赤茶色の毛皮を纏った小学生くらいの背丈の少女だ。
毛皮と同じ赤毛の前髪が顔に掛かり表情が読み取れない。
「ダレ? シンニューシャ?」
少女は小首を傾げながら声ともつかない声で訊ねる。
侵入者とは失礼な。誰なのかを聞きたいのはオレの方だぞオチビさん。
そう言いたい気持ちをぐっと押さえてオレは大人の対応を見せる。
「こんにちは。亜門ダンです。君は誰かな?」
「アモン……」
そう呟くと少女は自分の名前を答えもせず、無防備にオレに近付くと胸辺りに顔を近付けてスンスンと匂いを嗅ぎはじめた。何だこの子は。こんな時間に屋敷の中庭をうろついているなんて、この屋敷で暮らしている子なのだろうか。
「君は誰なのかな? 何で匂いを嗅ぐのかな?」
その時、少女が纏う赤茶色の毛皮の裾から、スルリと長く太い紐のようなものが垂れさがった。それはフワリと持ち上がり、先端だけがオレの方へ向いて動きを止めた。黒緑色の大蛇だ。少女の毛皮の中から黒緑色の大蛇が現れた。
「へ、蛇だ!? 君、服の中に蛇がいるぞ!」
オレは脊髄反射的に後退り、大声で少女に警告する。
だが、少女は呆気に取られた様子で小首を傾げてオレを眺める。
ダメだ。あの様子ではオレの言葉が通じていない。
このままでは少女が蛇に咬まれてしまう。かなり大きな蛇だ。毒でも持っていたら大変なことになるぞ。黒緑色の大蛇が金色の瞳で少女越しにオレを見つめる。
「失礼ですが、もしやレイ様の御子息では?」
「あ、はい……」
黒緑色の大蛇が流暢に問い掛けてきた。オレは内心でかなり驚く。大蛇が話し掛けてきた事にではない。それに対して普通に受け答えする自分にだ。色々と不思議なことが続き過ぎて神経が麻痺しているのだろうか。
「キディング、この方は亜門ダン様だ。ロックランドの新たな領主であり、我々の新たなご主人様だ」
「ダンサマ。ゴシュジンサマ」
「ご挨拶が遅くなりました。私の名はトロイエ。この娘はキディングと申します。私とキディングは一心同体。共にレイ様に生み出された身でございます。これよりはダン様に忠誠を誓わせていただきたく思います」
トロイエはそう言って静々と頭を垂れた。キディングはトロイエとオレに交互に視線を向け、意味も解らずにとりあえずペコリと会釈をした。どうやらこの大蛇の方が話は通じそうだ。一心同体とはペットとして常に一緒にいるという意味なのだろう。どちらがペットか微妙だが。
「ところでダン様、ここで何を?」
「あ、えっと散歩的な?」
いくら自分が相続した屋敷とは言え、まさか立ち小便をしていたとは答えられない。まして少女の前で言って良い回答ではない。
「なるほど。我々がお供いたしましょうか?」
「オトモ……」
トロイエとキディングが同時にオレを見る。
「いや、大丈夫です。そろそろ部屋に戻りますんで────」
「そうですか。では、我々は見回りを続けさせていただきます」
トロイエとキディングは深々と頭を下げると中庭の奥へと歩いて行った。たしか見周りをするとか言っていたが、少女と蛇にそんな仕事を任せて大丈夫なのか。そう思って振り返ると何故か既にそこに2人の姿はなかった。
「ダン様、こんな所にいらっしゃったのですか」
屋敷の戸口にルチルの姿が見えた。オレの様子を見に寝室を訪ねたが、姿が見えなかったため屋敷内を探していたらしい。
「どうかされましたか?」
「今さっきトロイエさんとキディングさんに会いまして」
「妹に? 何か失礼などありませんでしたか?」
「え? 妹さんなんですか?」
白銀をイメージさせる完全美のルチルと、燃え上がる様な赤毛のキディングではずいぶんと見た目が違う。父親似と母親似で見た目が分かれたのだろうか。『あまり似てないですね』そんな言葉が喉元まで出掛けていたが思い止まった。あれだけ似てないのであれば訳ありの可能性が高いと思ったからだ。
「はい。妹には屋敷周辺の警備を担当しております。昨夜の盗賊を討伐したのも妹たちです」
「え!? 本当ですか!?」
やはり見周りの件はオレの聞き間違いではなかったらしい。
この国はあんな子供にまで危険な重火器を使わせているのか。
それともロックランドだけが世間からずれているのか。
「ところでダン様、具合はよろしいのですか?」
「はい。だいぶ頭もスッキリしてきました」
「それは良かったです。バラン様からご様子を確認するようにと言われましたもので」
「ところで、今って早朝ですか? 夕方ですか? 寝過ぎたら訳がわからなくなっちゃって」
「早朝でございます。ですが屋敷の者たちは既に皆、起きて活動しております。ご用がありましたら何なりとお申し付けください」
ルチルの言葉に密かに安堵した。
これが夕方だったら病的な寝過ごしとも言える。
「バランさんも起きてるんですよね? 今ちょっとお話とかできますかね?」
「はい。よろしければお呼びいたしますが?」
「是非お願いしたいです」
オレはルチルに書斎まで案内してもらいバランを待つことにした。
途中でトイレの位置を確認したのは言うまでもない。
書斎でバランを待つ間に何気なく、机の後の壁一面を使った巨大な本棚に並んだ本に目をやる。不思議なことに英語ではない外国語で書かれた本の題名が全て読めた。試しにその中の1冊を手に取ってみる。【便利な植物 危険な植物(魔界編) 著者 亜門レイ】父の著書だ。試しにページをめくってみる。
『カラス菜』【薬】【食】
便利度☆☆☆☆☆
危険度☆
美味度☆☆☆
希少度☆
備考:平野から山林まで幅広く生息する一般的な薬草の一種。根を乾燥させ粉末にしたものを『スイキョウカ』と混ぜ合わせたものは胃腸薬に用いられる。その他、葉は味に癖が少なく通常の食材として人気があり、種は主に香辛料などに用いられる。近親種に『紅カラス菜』があるが、こちらの根には麻痺性の毒があるため注意が必要。
『妄想茸』【薬】【毒】
便利度☆☆
危険度☆☆☆
美味度☆☆☆☆
希少度☆☆
備考:山林や渓谷の日陰に生息する強烈な幻覚作用を持つ茸類。全体的に丸味を帯び、鮮やかな紅色に乳白色の斑点模様の傘の形状が特徴。食味は抜群とされているが、摂取すると幻覚作用の他に下痢やおう吐などの症状を引き起こし、大量に摂取した場合には死亡することもある。麻酔薬の材料や狩りなどに用いられる。
どうやら植物図鑑のようなものらしい。
聞いた事のない植物がイラスト付きで説明されている。
オレは更にページをめくり別の項目を読み進める。
『三つ葉ミスルト』【薬】
便利度☆☆☆☆
危険度☆☆
美味度☆
希少度☆☆☆☆
備考:森林に生息する樹木に寄生する半寄生植物。その葉が回復薬の材料に使われる代表的な薬草の一種。樹木の裂け目や枝の折れた先から寄生する。繁茂が旺盛でときには宿主を枯らしてしまこともある。その場合には結果的に自らも死滅することになるため、通常は宿主から養分を搾取する他に自らも光合成することでバランスを取る。葉が丸く三つ葉状に茂る特徴がある。一般的な『ミスルト』に比べ薬効性が高いが、葉の先端に鋭い棘を持つため収穫には注意が必要。
説明文の中の『回復薬』という文字に目を止めた。それはどこか中2心をくすぐる単語であり、一般生活で用いられるものではない。オレの中でずっと燻っていた疑念が再び浮かび上がる。次から次へと起こる不思議な出来事、喋る蛙に喋る蛇。何が何だかわからない。ただ、1つだけはっきり言えるのは、オレが今いるこの国は普通じゃないという事だ。
『コンコン』「バランでございます。失礼してよろしいでしょうか?」
「はい。どうぞ」
オレはその本を元の場所に戻し、バランを部屋へと招き入れた。
「お呼びでございますか」
「すみません、わざわざ来ていただいて。バランさんに聞きたいことがありまして」
「私でお役に立てる事であれば。それで、お聞きしたい事とはどのような?」
バランがいつもと変わらない優しい笑みを浮かべて快く質問に応じる。
オレの質問は単刀直入だ。『オレの身に何が起きてるんですか?』だ。
バランは一瞬だけ僅かに驚きの表情を浮かべたが、真っ直ぐにオレを見据えると得心がいったように小さく頷いた。
「わかりました。良い頃合いの様ですのでお話いたします」
「はい。お願いします」
バランが明らかに含みある受け答えをする。
それなのにオレの精神は不思議なほどに安定していた。
「まず初めにダン様はこのロックランドをご相続されたことにより、対外的にはロックランド伯爵と名乗っていただく事となります」
「伯爵……ですか。なるほど」
20歳フリーターで彼女いない歴20年のオレが伯爵。
天地が引っくり返ってもあり得ない内容にも、オレの心境に大きな変化が起こらない。
むしろその事に微かな不安さえ覚える。
「その落ち着きぶり、どうやらステータスの更新が完了されたようでございますね」
突如、バランが意味不明な事を口にする。
「ダン様も既にお気付きなのではございませんか。目の前で起こる人間界では決して目にすることのない物事にも、お気持ちが左右され難くなっていることに」
「あっ……そう。そうですね。これって……」
「ステータスの更新により伯爵位の基本スペックが、ダン様のステータスに上乗せされた為でございます」
『ステータスの更新』や『基本スペック』などバランの話は現実味のない内容ばかりだが、不思議とそれに対して不快感を覚えることなく聞き入った。そこまで話すとバランは本棚の中から1冊の本を取り出しオレに手渡した。
「この本は数あるレイ様の著書の中でもベストセラーとなった、初心者向けの1冊でございます」
「初心者向け? 何の初心者ですか?」
「この地の全てに対してでございます」
あまりにも漠然とした表現にバランの言葉の意味が飲み込めてないオレは、訝しげな表情を浮かべながらその本を手に取った。
【魔界の歩き方(初級編) 著者 亜門レイ】
何じゃこりゃ。思わずそんな言葉が出そうになる。
表紙をめくると様々な名前が並ぶ『もくじ』の中に【ロックランド】の文字を見付けた。
オレは急いで186ページを開く。
【ロックランド】
人口☆
工業地☆
商業地☆
観光地☆
資源量☆☆
武力☆☆
総合評価☆
備考:魔界に登録される72の領土中、第66番目の登録領土。魔界で最も小さな領土。第2次魔界大戦後に新たに登録された領土の1つ。陸地面積は約648平方マイル。年間を通じて乾燥した時期が多く、年に2度の雨季には1週間程まとまった降雨がある。主な種族構成は多様。タルパ族という原住民が生息する。ただし、都市などの人口密集地は存在しない。
魔界。そこには紛れもなくそう書かれていた。
表紙の題名だけではなく、ロックランドを説明する内容の中にもその文字がある。
「ダン様、おわかりになられましたか?」
バランはオレの表情から確信を得たであろうことを悟る。
あまりにも荒唐無稽で俄かには信じがたい内容だが、これが真実なのだろう。
「魔界。ここは……ロックランドは魔界にある領土の1つなんですね」
「はい。魔界に存在する72の領土の中でも最も小さな領土。それがここ、ロックランドでございます」
バランが優しい笑みを浮かべながらも少し沈んだ声で答える。全て現実。そう考えた瞬間に都市伝説の化物の顔や、浴室でのムフフな記憶が蘇る。夢じゃなかった。
こうして遺産を相続したオレは、いつの間にか魔界の領主となっていた。
【To be continued……】
読んでいただきありがとうございます。