地下の蛙
思いも寄らず危険な場所に連れて来られたオレは、混乱する頭の片隅で今更ながら深い後悔の念に駆られていた。きっと厄介事だと思っていたのに、どうしてあの老紳士の話を鵜呑みにしてしまったのだろうか。
そんな事を考えていると、突如、ルチルの頭上に蛍ほどの小さな光球が現れた。オレは呆気に取られてその光を目で追った。小さな光球はルチルの頭上で何度か点滅をしたかと思うと、そのまま音も無く消え去った。まさか先程までの戦闘で命を失った者の霊魂では。背筋に心地の悪い寒気を感じる。
ルチルがオレの不安を煽るかのように、虚ろな表情のまま独り言を始めた。霊に取り憑かれでもしたのか。オレは恐怖と心配がごちゃ混ぜになった視線をルチルに向ける。助けなければ。でも、どうやって。オレにできるのは彼女の側で佇みながら、ただ見守るだけだ。
「ダン様、どうやら盗賊の方は片付いたようでございます」
「片付いた?」
「はい。宜しければ軽くお食事でもなさいますか?」
ルチルは何事もなかったかのように、いつもの抑揚の少ない話し方で問い掛ける。本当に盗賊たちは大丈夫なのか。オレは恐る恐る立ち上がり窓の外へと視線を向けた。たしかに先程まで見えた松明の灯りがほとんど無くなり、激しい爆発の火の粉もどこにも見当たらない。薄暗くてよく見えないがあの場にたくさんの死体が転がっているのだろうか。
「ダン様? いかがなされましたか?」
「あ、えっと、できれば温かい飲み物とかいただけますか?」
「スープで宜しかったでしょうか?」
「はい」
「かしこまりました。1階の食堂へ参りますか? それともこちらへお持ちいたしましょうか?」
盗賊たちの姿は見当たらないが、出来れば今はこの部屋から動きたくない。戦争やテロなんてテレビの中だけでの話だと思っていたのに、窓の向こうでは実際にテロとそれから身を守る者たちが命の奪い合いをしている。いや、これは夢だ。オレの頭の中での話に過ぎない。あまりのリアルさに現実と夢の区別がつかなくなりそうだ。
申し訳ないと思いながらもルチルに部屋までスープを運んでもらうことにした。ルチルは快く返事をすると部屋の隅に置かれたランプに灯をつけ、深々と頭を下げて部屋を後にした。
爆発の地響きが聞こえなくなった部屋の中に、ランプの光に照らされたオレ自身の影が浮かび上がる。見知らぬ地で、見知らぬ部屋に独りぼっちになったせいだろう。それはまるで闇に巣食う怪物のように映った。
大学受験の時、オレは緊張のあまり試験中にウンコを漏らした。
すぐに異臭に気付いた周囲の者がざわつき始め、やがて試験会場は騒然となった。
当然オレは受験に失敗した。
最初に『臭い』と言い出したのは隣の席の男子だった。周囲がざわつき始めるとすぐに試験監督員が駆け寄り注意をするが、その試験監督員もただならぬ異臭に別の試験監督員の元へと駆け出した。ちょうど世間では危険薬品による異臭騒ぎが取りただされていた時期だ。誰かが『異臭だ!』と叫んだと同時に試験会場は騒然となる。今更『オレのウンコです』などと言い出すこともできない。でも、いつかきっとバレる。
そして今、あの時の緊張感とはまったく別の種類の緊張感がオレを襲う。何故こんなことになった。そうだ、バランはどこへ行ったのだろう。あの都市伝説の化物の姿も見えない。たしかオレはPCの前でいつも通り寝落ちしたはず。つまり今は夢の中だ。
落ちつけオレ。全て夢だ。
財布も携帯も、ましてやパスポートすら持たずに海外に来るなどあり得ない。
トイレの扉を潜って海外へ来るなど、そんな事が出来るのはネコ型ロボットだけだ。
だとすればどこからが夢だったのか。
目を瞑って記憶を遡る。
まずは都市伝説の化物。あれはどう考えても夢だったとするのが妥当だ。
他には。オレの脳裏に黒科からもらった誕生日プレゼントが浮かび上がる。
やっぱりあれも夢だったのだろうか。
「ゲロロッ」
そんなことを考えている最中、蛙の鳴き声がオレの耳に飛び込んできた。
慌てて顔を上げて周囲を見回すが蛙の姿は見当たらない。
やはりオレの勘違いだったか。
「だいぶお疲れのご様子でございますな」
「!?」
オレは突然の背後からの声に跳び上がって後退りする。薄暗い部屋の中にランプに照らされた蛙の姿が浮かび上がる。人間の子供ほどもある大きな蛙だ。細身のズボンに揃いの上着、肩から羽飾りの付いた丈の短いケープを羽織っている。まるで蛙の道化だ。蛙の道化は後脚だけで直立しながら、窓明かりに照らされて艶やかに輝く大きな瞳でこちらを見つめている。
「ダン様でございますね?」
道化の蛙は当たり前のように人の言葉を話し、あまつさえオレのことを『ダン様』と呼んだ。
「……は、はい」
強烈な違和感を覚えながらも、とりあえず返事をしてみる。
この状況で聞こえないふりが出来るほどオレは豪胆ではない。
「ご挨拶が遅れました。私の名前はクレーテンと申します。主に地下の書庫と宝物庫の管理と警備を任されております。口の悪い仲間には『地下の蛙』などと呼ばれております」
「ク、クレーテンさん……ですか。亜門ダンと申します」
名前を呼ばれたばかりではあるが、オレもクレーテンと名乗る蛙に自己紹介をした。
「ダン様『さん』は不要でございます。この身から溢れる気品に思わずそのようにお呼びしてしまうのはわかる気もいたしますが。私はダン様の忠実なる僕にすぎません。どうかクレーテンとお呼びください」
クレーテンはそう言うと滑らかな動作で、右脚を後ろに引きながら左手を水平方向に広げ深々と頭を上げた。たしかに自らそのように言うだけあって、クレーテンの仕草は洗礼された貴族のそれを連想させた。かなり異様な存在ではあるが敵意はまったく感じない。
「ここには地下もあるんですね」
「はい。ダン様にぜひお見せしたい物もございます。お望みとあれば今からでも私がご案内いたしますが?」
「い、いえ。あの、今はちょっと────」
ルチルにスープを頼んでいたからではない。
クレーテンと2人きりで地下室へ行くのが怖かったからだ。
「ダン様に是非お渡ししておきたい物があるのですが」
クレーテンはそう言うとピョコピョコと後脚だけで歩いてオレに近付く。
そして、懐からチョークほどの長さの錆色の棒を取り出した。
「さあ、ダン様。どうかお納めください。レイ様からお預かりしていた品でございます。いつかダン様がお屋敷に来られた時に、直接お渡しするようにと申し使っておりました」
ク会釈したままの姿勢でクレーテンが錆色の棒を差し出す。
父から預かった品物。無意識に受け取ったがいったいこれは何だ。
『コンコン』「失礼いたします」
クレーテンに質問しようとした矢先に、部屋の扉がノックされルチルがスープを運んで戻って来た。
「ダン様、お待たせいたしました」
「……あ、はい。ありがとうございます」
思わず返事に詰まったのはルチルの服装が替っていたせいだ。先程までの鉛色のロングコートではなく、葡萄色を基調としたシンプルなロング丈のメイド服に着替えたようだ。それともコートの中にあらかじめ着ていたのだろうか。凛とした佇まいに白色のレースが僅かに甘さを添え、先程までの美しさとはまた別の魅力を醸し出す。
「おぉ。これはルチル嬢、いつもながら見目麗しい」
「珍しいですねクレーテン。ここで何をしているのですか?」
「何をとはつれない物言いですねルチル嬢? ダン様にご挨拶に上がったのだよ。もちろん思いがけず貴方のその可憐な姿を拝ませてもらえたのは想定外の幸運だったがね」
クレーテンはそう言って長い舌でぺロリッと自分の目玉を舐めまわした。この辺の動作はまるっきり爬虫類のそれだ。ルチルはクレーテンの答えにはまったく興味を示さずに、机の上に湯気が立ち上るスープを置き、静かに椅子を牽いてオレの方を向いて席を勧める。
「あ、ありがとうございます」
ルチルに勧められるままに席に着きスプーンを手にした。柔らかな湯気が鼻をくすぐる。スプーンで温かいスープをひと掬いし口へと運んでみる。深い旨みと優しい甘味が口いっぱいに広がる。美味い。オレはあっと言う間にスープを飲み干した。
「ゲロ。人心地ついたご様子でございますね」
「ダン様、宜しければお代りをお持ちいたしましますか?」
オレがスープを飲むのを見守っていた、道化姿の蛙とメイド姿の美女が口々に言う。
この悪夢はいったいどこまで続くのだろうか。そんな事を考え始めた矢先だった。
「ダン様、すぐに沐浴のご用意も出来ますがいかがでしょうか? 宜しければお背中をお流しいたしますが?」
「モクヨク……ですか?」
聞き返しながらオレはその言葉の意味をようやく理解した。風呂か。何故か露天風呂に浸かりほんのりと頬を桃色に染めるルチルの姿が浮かぶ。沐浴のイメージとは程遠い気もするが、きっとそれは『お背中をお流しいたします』の言葉に反応して勝手に湧き出たオレの妄想だろう。
「そ、そんなの……良いんですかね?」
「はい。勿論でございます」
勿論なのか。流石はオレの夢。無茶苦茶な展開ではあるがもしかする一概に悪夢とも言えないのかも知れない。よし。どうせ夢ならこのままムフフな展開に持ち込んでしまったほうが得策だ。
オレは知っている。世間で品行方正と思われている人物が、夢や妄想の中では決して人には言えないあんな事やこんな事をしていることを。それを現実世界で実際に行ったものは犯罪者や精神破綻者のレッテルを貼られるが、夢の中ではどんな重罪も無罪放免。やったもの勝ちなのだ。
この悪夢をムフフにしてみせる。
途端にやる気が沸いてきた。
「是非お願いします!」
「かしこまりました。では、ご案内いたします」
オレは席を立ってルチルに続く。部屋を出る際に僅かにクレーテンの喉が鳴った。
目を向けるとクレーテンは深々と頭を下げオレを見送ってくれた。
【To be continued……】
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