異界の門
オレはバランの差し出したペンを手にすると、指示されるがままに父の署名の上の欄にサインをした。人に見られながら文字を書くのはどうしてこんなに緊張するのだろうか。
「それではダン様、こちらに左手を────失礼いたします」
促されるまま意味もわからずに契約書の上に左手を乗せると、バランは蛇のような生物の頭を模した褐色の小さな筒を取り出した。拇印だろうか。オレの人差し指をそこへ差し入れた。『!?』噛みつかれた。そんな一瞬の痛みと共に筒の反対側から、鮮血が契約書の上に滴る。
バランは悪びれる風もなく真剣な表情で契約書に視線を落とす。
一瞬、契約書に怪しい輝く紋章のようなものが浮かび上がった。気がした。
「アンタら何者なの? さっきから何してんですか!?」
部屋の外から中年男性の不機嫌そうな声が聞こえる。
まずい。隣の204号室に住む中年男性の声だ。きっと外で待たせているバランの連れを不審に思ったのだろう。ご近所さんとの関係は大切だ。迷惑を掛けず干渉をせず。当たり障りのない距離感が大切だ。オレは急いで部屋の外へ出た。
「あ、すいません。ご迷惑お掛けしました」
「あれ? 亜門さんとこのお客さんなの? それならそう言ってくれればいいのにさぁ。聞いても何にも言わないもんだからさぁ」
「ですよね。ホントすみません!」
オレは愛想笑いを浮かべながら何度も会釈をし、慌ててバランの連れの2人を自分の部屋の中へと押し込むように招き入れた。
1人は長身の美しい外国人女性だ。透き通るような白い肌に艶やかな白銀色の長髪。生で目にしたことはないが海外の一流モデルというのは、きっとこんな感じなのだろうと思わせる均整のとれた顔立ちとスタイルをしている。美人には違いないが黒科のそれとは明らかに嗜好が異なる。もう1人は茶色のフードを深く被り女性の陰に隠れるようにしている。
「ルチル、ダン様に承諾の証は頂いた。時間がない。一刻も早く【門】を開く。準備を頼みます」
バランに指示をルチルと呼ばれる女性が何かの準備に取り掛かる。じつは先程から気に掛かっていたことが1つある。土足のまま何食わぬ顔で部屋へ上がって来たことは、外国との生活習慣の違いのためだと自分に言い聞かせたが、ルチルの陰に立つ人物がどうも気に掛かる。どことなくオレを避けるかのような素振りが気に掛かる。どことなく見覚えがある気もする。
「ダン様、こちらの扉をお借りします」
ルチルがトイレの扉を指す。トイレを借りたいと言う意味だろう。日本語が上手いとは言えそこは外国人だ。間違った言葉使いをすることもある。逆にその完璧すぎる容姿とのギャップが、これから訪れるツンデレを予感させる。それに美人に『様』付けで呼ばれるのは何とも言えない心地良さだ。
ルチルいいな。こんなことならトイレ掃除をして芳香剤でも置いておくのだった。
オレは申し訳なさそうに会釈をしながら『どうぞ』とトイレの扉へ手を向けた。
オレは再び茶色のフードの連れに目を向ける。部屋の中が薄暗いためもあって顔ははっきりと見えないが、低い身長のわりにガッチリと言うかムッチリとした体形に見える。視線に気付いた様子のフードの連れが、隠れるようにそそくさとオレに背を向けた。怪しい。怪し過ぎる。他の2人も十分に怪しいため紛れていて見過ごしていが、明らかにオレの視線から隠れるようにしている。
「あの、失礼ですけど、どこかでお会いしたこと────」
「ないッス。ぜんぜんないッス!」
フードの連れが喰い気味に答える。
この声、この特徴的な話し方。どこかで。
次の瞬間、背中に気味の悪い寒気が走った。
「ま、まさか……」
「ち、違うッス。会ってないッス! オイラ、ダン様のこと食べようなんてぜんぜん思ってないッス!」
やはりコイツだ。間違いない。オレが問い詰める前に自分から自白した。
でも、なぜゴミ置き場で会った都市伝説の化物がここに。
バランとルチルの仲間だというのか。
「バラ────」
「バラン様、準備が整いました」
「わかった。では【門】を開けるぞ」
バランを呼ぼうとしたオレの言葉を掻き消す様にルチルが準備完了を告げ、矢継ぎ早にバランが何かを始めると言い出した。
「うわ! ちょっと何してるんですか!?」
オレの目に飛び込んだのは、ルチルの手によって劇的な変貌を遂げたトイレの扉だ。扉一面に奇妙な輝きを放つ文様が描かれ、ドア枠は血を連想させる赤色の液体が一周ベットリと塗られていた。当然だがこの部屋は賃貸だ。フードを深々と被ってコソコソしている連れに気を取られているうちに何て劇的ビフォーアフターだ。そこへバランが追い打ちを掛ける様に、鞄から取り出した紫色の小瓶の中身を勢い良くぶち撒けた。
「ちょっ! マジで何してるんですか!?」
「ダン様、ご安心ください。すぐに準備が整いますので」
ご安心できない。今からプロの掃除屋でも来ると言うのか。誰がトイレの扉を貸してくれと言われてこんなことになる事を想像できると言うのか。バランはそんなオレの怒りと困惑などまったく届かない様子で滅茶苦茶になったトイレのドアに静かに両手を添える。
「紅蓮の棺、常闇の鍵、迷霧の捷路、隔たりし世界へ我が身を運べ────【異界の門】開放!」
バランが謎の言葉を放つ。それに反応するように袖口から僅かに見える漆黒の数珠が、眩い輝きを放ち音も無く砕け散った。その一連の出来事に呼応するかのように、トイレのドアの隙間から奇妙な光が溢れ出る。
バランは躊躇なくドアノブに手を掛ける。
『ガチャ』僅かに開いたドアの隙間から溢れ出る光がユラユラと蠢く。
ゆっくりと開かれたトイレの中には、本来そこにあるはずの便座の姿はない。そこには扉の枠の大きさ通りに切り取られたかのような、闇と光がない交ぜになった不思議な空間が広がる。
チカチカと輝く小さな光が集まり、やがて大きな光りの塊へと成長していく。その中から産まれた闇が少しずつ大きく膨らんだかと思うと、霧散するかのようにまた光りの中に溶け込んでいった。いったい何がどうなっているのだ。悪い夢でも見ているのか。既に都市伝説の怪物のことなど頭の中から消え去っていたオレは、目の前に広がるラバライトを連想させる光と闇の渦巻く姿を茫然と見つめる。
「ルチル、【門】が安定していない。お前はダン様をお守りしながら先に行きなさい。私とポルチは後から続く」
「わかりました。さあ、ダン様────」
ルチルがオレの手を握る。女子と手を繋いだのは幼稚園以来だ。突然のやや冷たく柔らかい感触に腰を抜かしそうなほど驚きながらも、オレはありったけの平常心を総動員して何事もなかったかのように装う。
「ダン様、この手を離さないでくださいね」
「は、はい?」
手を離さないでと言われたことに舞い上がっているうちに、ルチルは半ば強引にオレの手を牽き闇と光がない交ぜになった不思議な空間へと進んで行く。あっと言う間にルチルはその不思議な空間の中に身を投じ、手を繋いだままのオレの半身もそこに浸かっている。熱さも冷たさも感じない。ただ光と闇がネットリと体に纏わり着く。やがて全身がそこに浸かると、恐怖を感じるよりも早く強烈な光がオレの視界を奪った。
無音の世界にポッカリと開いた大穴をどこまでも深く落ちていく感覚。必死に叫び声を上げようとするが声にならない。そんな中でどれくらいの時間が過ぎ去ったのだろうか。次第に自分が落ちているのか上っているのかも解らなくなり、激しい目眩に襲われ目の前が真っ暗になった矢先だ。
『ステータスを更新しますか? ──── YES ── NO ────』
突然、オレの脳裏に見覚えのないアイコンが浮かぶ。
まるでゲームの画面を見ているようだ。
こんな時までゲームの事を考えているのか。
流石に自分自身の危機感の欠如に呆れる。
いや、ひょっとするとオレは今夜もアナザ―ワールドをしながら寝落ちし、夢の中でゲームの画面を見ているのか。そう言うことか。オレにお似合いの夢だ。だがアナザ―ワールドにこんな場面があっただろうか。
意味不明なのでとりあえずそのまま放置する。何だか疲れた。
そのままオレは深い闇の中に自らを置き去りにするかのように深い眠りについた。
『ズーンッ』微かに聞こえる怒号と地響き。微かに感じる頬に当たるムチムチ。少し目眩が残っているものの、オレはこれまでに覚えたことのない多幸感に包まれ目を覚ました。
「ダン様、お気付きになりましたか?」
逆さまになって白銀色の髪が上から垂れ下がる。
その奥にはオレの顔を覗き込む美しい女性の顔が。
誰だっけ。まつ毛が長いな。ちょっと顔が近過ぎないか。
オレは頭の下に敷かれたムチムチにそっと手を伸ばす。
長くて気持ちの良い低反発と高反発の中間くらいの柔らかさの枕が2つ。
その間にオレの頭がうずくまる。あれ、これってまさか。
「ダン様、起きられますか?」
「は、はい!」
オレはいつの間にかルチルに膝枕をしてもらっていたようだ。
勢い良く飛び起きると目眩で脚がフラつく。
「ダン様、ご無理をなさらないでください。【異界の門】は体に負担が掛かります。とくに初めての際にはしばらくは────」
『ズズーンッ』ルチルの声を遮る様に地響きが鳴り響く。
ここはどこだ。我に返ったオレはゆっくりと周りを見回した。
アパートの部屋の中ではない。もちろんトイレの中でも。
オレの住んでいたメゾン・アルカディア204号室の2倍以上はあろうかという広い洋室。安い造りではないのがひと目でわかる。重厚な造りの机と揃いの椅子。その後ろに広がる壁一面の本棚には、びっしりと本が並んでいる。部屋の片側に出入り口と思われる扉が1つ、対面の壁には大きな窓が2つある。
壁には艶のある黒色の木材で額装された、2枚の巨大な肖像画が飾られている。
向かって左には漆黒のローブに揃いの帽子姿の白色の長い顎髭の老人が。鋭い眼光と眉間から額にかけて走る2本の深い縦皺がその人物の意思の強さを現すかのようだ。ローブと帽子には細部まで銀糸と思われる繊細な刺繍が施され、その手には白亜の杖が握られている。
もう1枚には、黒色のジャケット姿に同色のリボンタイを締め、書物を小脇に抱え穏やかな表情でこちらを見つめる男性が描かれている。父だ。オレが物心つく前に事故で他界した父の写真はほとんど残っていなかったが、母が隠す様に持っていた写真を以前に見せてもらったことがある。その父の姿がそこにあった。
「これって────」
「そちらは先代と先々代のロックランド領主である、ダン様のお父上のレイ様と、ご祖父様のジン様でございます」
「ロックランド。もしかして、ここって……」
「はい。ロックランドにあるダン様のお屋敷でございます」そう言ってルチルは深々と頭を下げる。
ロックランド。この短時間でオレはヨーロッパまで来たというのか。
それともオレは自分が思っていたより、遥かに長い時間にわたって気を失っていたのか。
いや、そもそもオレはルチルに手を牽かれてトイレの扉を潜ったはず。
「もしかするとダン様は、ジン様をご覧になられるのは初めてでしょうか?」
「はい。自分のお爺ちゃんが外国人だったなんて知りませんでした」
「ガイコクジン?」
「まるで魔法使いみたいな服装ですね」
「────あぁ、なるほど。今のは『冗談』というやつですね。私も最近、少しだけ冗談を理解するようになりました」
そう言ってルチルは微かに硬い笑顔を浮かべる。
別に冗談を言ったつもりはないのだが、ルチルにはそう聞こえたようだ。外国のジョークを日本語に訳すと意味不明だったりぜんぜん面白くなかったりするように、日本語での冗談というのは外国人には理解し辛いという意味なのかも知れない。
『ドド―ンッ』再び強い地響きが起こる。
近くで大きな爆発が起きているかのようだ。
「あ、あの音って────」
「近隣の盗賊どもでしょう」
「と、盗賊!? ロックランドには盗賊とか出るんですか!?」
「近隣の領土からの境界から勝手に侵入して来たのです。このところはどこからか領主が不在だという噂を聞き付けた盗賊どもが、身の程をわきまえずに侵入を繰り返しており困っております」
ロックランドはあまり治安の良くない国なようだ。
オレはこんな屋敷の中でぼんやりと座っていて大丈夫なのか。
「ご安心ください。既に仲間の者から討伐に向かったとの知らせがありました。盗賊風情では万が一にも、お屋敷の敷地内に足を踏み入れることは叶いません。もし、そのようなことがあったとしても、私がこの身に代えてもダン様をお守りいたします」オレの不安を読み取るかのようにルチルが言う。
「あ、ありがとうございます……」
とりあえず礼を言ってみたものの、こんな綺麗な女性に守ってもらうのは微妙な心持ちだし、この身に代えてもなどと言われるとちょっと重い。オレは恐る恐る爆発音聞こえる窓辺へと進み薄暗い外の景色を眺めた。窓の外には見たことのない景色が臨む。
屋敷は高台の上にあり、そこからしばらくゴツゴツとした岩肌が続く。更にその先には背丈の低い植物と人の背丈ほどもありそうな岩石が混在する荒地と、その向こうにははっきりとは見えないが、屋敷の付近とは対照的に巨木がそびえ立つ森が広がっているようだ。
ちょうど荒地と岩肌の斜面の境目辺りにたくさんの松明らしき灯りが見える。恐らくそこが盗賊たちとの戦闘が繰り広げられている場所なのだろう。爆弾でも使用しているのだろうか。時折、地響きと共に激しく火の粉が飛び散り、悲鳴とも怒号とも区別のつかないものが聞こえる。それはオレのイメージする盗賊の戦い方とはかけ離れたものだ。
「何か爆発とかしてるみたいですけど、大丈夫なんですか……」
「恐らく大丈夫ではないでしょう」
「え?」
「もちろん大丈夫でないのは盗賊の方でございます」
ロックランドも自衛用に強力な銃器などを所有しているということか。たしかに外国では身を守るための備えとして銃を所持する場所もある。しかし、いくら外国とは言え、そのために爆弾まで使用して良いものか。もしかすると地雷のような物なのかも知れない。
それにルチルは『盗賊』と呼んではいるが、それほどの武装をした相手ということは実際にはテロリスト的な存在なのではないか。勝手にロックランドがヨーロッパにあるものと思い込んでいたが、もしかすると中東なのかも知れない。どうやらオレは洒落にならないほど危険な場所に来てしまったようだ。
恐怖のあまりオレはその場にしゃがみ込んだ。ここはヤバイ。さっさと日本に帰ったほうが身のためだ。でも、いったいどうやって。そんなことを考えているうちに地響きも怒号も聞こえなくなっていた。
【To be continued……】
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