閉店間際
閉店20分前。今夜は客数が少なかった。
ラストオーダーの時間を過ぎた厨房に蛇園と鞭目の笑い声が響く。
「そのときのアモン君ったら捨てられた子猫みたいな顔してさぁ~」
「そんな顔してないですよ……」
「してたじゃないの。そんで『ありがとうございます。店長ダッコして~』って」
「ダッコは絶対に言ってないですからね」
オレと蛇園のやり取りを聞いて鞭目が腹を抱えて大笑いする。彼女は普段あまり店にいない店長の蛇園の代理としてチーフを務める。整った顔立ちにショートヘアー、体は小さいが勝気な性格のしっかり者だ。オレたちバイトの姉的な存在でもある。
2人の笑い声を聞きながら、オレは1人でコツコツと厨房の掃除を続ける。ふと手を休めるとゴミ置き場での出来事が脳裏を過る。すぐさま心臓が狂ったように脈動し、背中に嫌な汗が流れるのを感じる。今は腹筋が破壊されると言って大騒ぎしている2人と一緒にいられるのが救いだ。出来ることなら今夜は彼らと朝まで談笑していたい気分だ。
『カラン、カラン』その時、入口のドアに付けられたレトロなドアベルが来客を知らせた。その音を合図に蛇園と鞭目が馬鹿笑いを止め一瞬だけ思いを巡らす。店の入り口はシャッターが半分下げられ、ドアには『CLOSE』のサインが掲げられいるはずなのにと。すぐに鞭目が厨房を出て接客に向かった。
このタイミングで訪れる客はあまり歓迎されない。
単純に空腹を満たそうと慌てて店に飛び込んだ客ならまだマシだ。
そうではない訳ありの客を2人は何度も経験している。
その客はひと言で表せば『白銀』。その女性の肌は血の気の引いた白色で、仕立ての良さそうな鉛色のロングコートに長く滑らかな白銀色の髪が垂れる。同じ白銀色のまつ毛に眉毛。瞳までもが蒼みがかった銀色に見えた。アルビノと呼ばれる先天白皮症とも違った独特の雰囲気を持っていた。
その女性はとても背が高く小柄な鞭目と比べるとその身長差は大人と子供ほどもあった。同性の鞭目が思わず目を奪われるその容姿は、中世の宗教画にでも登場する崇高な存在を彷彿とさせる。海外のスーパーモデルか何かだろうか。とても一般人には見えない。鞭目はそんなことを思いながら接客に取り掛かる。
「お客様、申し訳ございません。本日は既にラストオーダーのお時間を過ぎてしまっております。ですが、よろしければ温かいお飲み物でもお持ちさせていただきますがいかがでしょうか?」
エルミタージュでは閉店時間を過ぎてからの来店客でも無下に帰すことはしない。必ずサービスでワンドリンクを提供し再度の来店をお願いする。店長の蛇園が決めた日頃から行っている接客ルールの1つだ。ところが、その女性は鞭目の言葉にはまったく興味を示さずに、そのままの表情でゆっくりと瞳だけを動かし店内を見回した。何を考えているのかまったく読み取れないその表情は、まるで蝋人形のようにも見える。だが、鞭目もプロだ。これしきで不快感を顔に出すなどしない。
「お客様、何かお探しでしょうか?」
「我らが道標はどこにお出でだ?」
女性は鞭目を見るともなく感情の読み取れない声で尋ねた。
「み、道標……ですか? 地図か何かをお探しでしょうか?」
女性は鞭目の問い掛けには答えず、店の中程まで進むともう一度ゆっくりと店内を見回した。
「し、失礼ですが場所をお間違えではないでしょうか?」
鞭目はその女性の言動に少なからず当惑を覚え始めていた。これまでに様々な客の相手をしてきたが、この女性はそのどれとも明らかに違う。女性は鞭目を無視するかのように店内をゆっくりと一周する。やがて、自分の探し物が見付からないことを悟ったらしきその女性は、再び鞭目に向き直り冷たい視線で見下ろした。
「こ、困りますお客様。もし、ご用がないのであればお引き取りください」
女性は何も言わずに鞭目を見下ろす。
その身長差がまるで2人の力の差を現すかの様に鞭目に圧し掛かる。
ゆっくりと掌を鞭目に向けるように左手を突き出す。何をしようとしているのだ。最初は話を遮るための動作かとも思ったがそうではなさそうだ。ましてや握手を求める者の仕草でもない。まさか掴みかかる気では。鞭目の当惑が一気に危惧の念へと変わる。
『パチンッ』「きゃっ!」
その刹那だ。静電気だろうか。
鞭目頭上で何かが小さく弾けた。
音に驚き鞭目の口から小さな悲鳴が漏れる。
「いかが致しましたか、お客様?」
いつの間にかホールの入口に立っていた蛇園が、笑顔で歩み寄りながら声を掛けてきた。微かに厨房まで聞こえる話し声から異常を察して出て来たのだろう。蛇園は笑顔を崩すことなく、それでいて毅然とした態度で適度な距離感を開けて女性に対峙する。優しい口調で口角を僅かにつり上げてはいるが、目の奥はまったく笑ってはいない。こんなときの蛇園は本当に頼りになる。
女性は一瞬だけ蛇園に視線を向けると、初めて僅かにだが表情らしい表情を浮かべる。その表情は不快を意味するものだ。すぐに表情を消し去った女性は、左手を降ろし何事もなかったかのように無言で店を立ち去った。いったい何者なのだろうか。静かな店内に響くドアベルの音が、嵐が過ぎ去ったのを教えてくれた。
「店長……さっきのって、いったい?」
「まったく、閉店間際ってのはどうしてこうなんだろうねぇ~」
蛇園が深いため息をつく。
「モデルさんですかね?」
「どうだろうねぇ。いずれにしろ一般人じゃないだろうね」
ドアベルの余韻が感じられる入口を眺めながら2人は同時に溜息をついた。
「店長、厨房の掃除が終わりました! あれ、何かあったんですか?」
蛇園と鞭目が厨房の掃除を終えて来たオレをポカンと見つめる。
蛇園と鞭目は顔を見合わせると、また弾けるように大笑いし始めた。
少し軋む鉄製の階段を上った2階の突き当たり。メゾン・アルカディア204号室。古代ギリシャの地名で楽園の代名詞ともなっているこのボロアパートがオレの家だ。元々は考古学者の母と2人で住んでいたのだが、1年前に手紙と生活費の入った通帳を置いて出掛けたまま帰って来ない。
『急ぎの大切な用事ができました。しばらく家を空けます。当面の生活費です。大切に使ってください。体に気を付けて シズエ』
にも関わらず、小さく年数も経ち過ぎているこの部屋は、今ではオレだけのものとなっていた。
『ただいま』誰も居ない部屋に向かって呟く。もちろん『おかえり』の返事を期待しているわけではない。ときどきあえて口に出して言うように習慣付けないと、ひと言も発さずに1日を終えることも少なくないからだ。とくにバイトが休みの日などは、話さないだけでなく部屋からまったく出ないことも少なくない。エルミタージュでのバイトは単に黒科に会えると言うだけではなく、人間らしい生活をするという意味でもオレにとって欠かせないものになっていた。
コタツに入りコンビニで買った弁当を広げる。8畳1DKの部屋の中は、男子のひとり暮らしの割には片付いている。生活感の無いミニマムな生活と言えば聞こえが、実際にはただ単に殺風景で散らかるほどの物がないのだ。
父はオレが物心ついてすぐに他界した。考古学者の母は遺跡の調査などでもともと家を空けることが多かったのだが、約10ヵ月前に手紙と生活費の入った通帳を置いて出掛けた。
『急ぎの大切な用事ができました。しばらく家を空けます。当面の生活費です。大切に使ってください。体に気を付けて シズエ』
これまでも家を空けることは少なくなかったが、どれだけ長くても2ヵ月ほどで帰ってきたし連絡もくれた。ただ、手紙を残したのは今回が初めてだった。もしかするとこれが失踪と言うものなのか。半年が過ぎ通帳残高が徐々に心細くなってきた頃に、初めてそんな考えが脳裏を過った。
5分足らずで食事を終えてコタツに潜り込む。
ノートパソコンの電源を入れ、両手を組んで手首の体操をする。
よし。いよいよ大詰めだ。ゲップをしながら眺めるPC画面に映し出されているのは【ANOTHER WORLD 特別限定版メイドブースターパック vol.4】の外観設定画面だ。程なくして全ての設定を終えログインすると、ゲーム内で自分が所有する小さな家の中にメイド姿の黒科が登場した。
「おぉー!」
異常なまでの胸の高鳴りに思わず心の声が漏れまくった。
無理もない。3日掛かってついにPC画面に黒科を再現したのだから。
いつの間にか握り締めた拳には水に浸けたほどの汗をかいていた。
「ピンポーン」
突然のチャイムで感動の絶頂から一気に現実へと引き戻される。誰だこんな時間に。部屋の壁掛け時計は10時を過ぎている。せっかくの幸せな余韻をぶち壊した扉の向こうの人物に敵意が沸き上がる。何かの勧誘か、それとも訪問販売か。いずれにしろきっと厄介事に違いない。そう考えたオレの脳裏にゴミ置き場での記憶が過る。
まさかあの都市伝説の怪物が。
いや、そんな、あり得ない。
だが、そもそも相手はあり得ない存在だ。気配を悟られないように恐る恐るドアに歩み寄り、息を殺してドアスコープを覗いてみる。そこにはある意味、怪物以上に予想外の存在が映る。黒色の山高帽と同じ色の外套を肩からかけた小柄な老紳士。左目には黒色の革製の眼帯をしている。外国人、もしくはハーフだろうか。そんな顔立ちだ。どことなく漂う気品と相反する左目を覆う黒色の眼帯が何とも言えない胡散臭さ増長させている。
怪しい。よく見ると背後には別の人影も見える。複数でこんな時間に何かの勧誘など怪し過ぎる。それとも新手の押し売りか。いずれにしろドアの向こう側に待つのは厄介事を持ち込む存在に変わりないはずだ。
「亜門ダン様でございますね?」
「!?」
老紳士はまるでドアスコープから覗き見るオレの姿が見えているかのように、真っすぐにこちらを見据えて話し掛けてきた。オレの名前を呼んだ。名前などいくらでも調べようがあるだろうが、名字ではなく下の名前で呼ばれることはまずない。老紳士はオレの心の中を見透かす様に、綺麗に刈り揃えられた白髪混じりの口髭の端を少しつり上げ優しい笑みを湛える。だが、通路に設置された切れ掛けの薄暗い蛍光灯に照らされて、その笑みすら逆に言いようのない怪しさを感じさせる。
「お迎えに上がりました」
「へ!?」
こんな夜更けにどこへ連れて行こうと言うのだ。
何から何まで明らかに怪し過ぎる。
「あ、あの、どちらさんでしょうか?」
「おぉ、これは大変に失礼いたしました。私はバラン=ドラグロスと申します。どうかバランとお呼びください。年甲斐もなくダン様にお会いできたことで興奮してしまったようです」
老紳士は聞き覚えのない名前を名乗ったかと思うと、ドア越しにも関わらず帽子を手に取りゆっくりと綺麗な動作で深々と頭を下げた。国籍は特定できないが、その名前や仕草から外国人なのは間違いなさそうだ。いずれにしろ新聞の何かの勧誘ではないのは確かだ。いったい何者だろうか。
「あの、もしかして部屋を間違ってるのでは?」
このアパートには101号室から205号室までの10部屋あり、101号室には管理人の老夫婦が住んでいる。それ以外には102号室に2人の子連れの元ヤンキー風の女性と、隣の部屋の204号室に巨漢で年中ジャージを着ている眼鏡を掛けた中年男性が住んでいる以外は、どの部屋にどんな人が住んでいるのかまったく知らない。
バランは何かに納得したように小さく頷きながら、手に持った大きな黒革の鞄から1枚の古めかしい紙を取り出した。
「ダン様、どうぞこちらをご覧ください」
ドアスコープ越では良く見えないが何かの書類のようだ。
「遺産相続のための契約書でございます」
「遺産相続!?」
まったく話が見えない。
やはり部屋を間違っているのではないか。
それとも新手の詐欺ではないか。
「ダン様、この契約書に承諾の証を頂戴したいのでございますが。つきましては、まずこの扉を開けていただくわけにはいかないでしょうか?」
「え? いや、その……」
このドアを開けるのはまずい。以前に映画でこんなシーンを見たことがある。ある男が無防備に部屋のドアを開けたと同時に、巨大なボルトクリッパーが差し込まれ、一瞬でドアチェーンを切り捨てられる。次の瞬間には黒ずくめの集団が部屋になだれ込み、男は抵抗も許されずに連れ去られる。
無理。怖過ぎる。
バランの後に見える人影がボルトクリッパーを隠し持っているのかも知れない。
「すみません。今ちょっと立て込んでますので────」
オレは在り来りな台詞を並べ入口に背を向けると、出来るだけ足音を立てないようにゆっくりとコタツへと戻った。これで良い。オレにはようやく完成させた黒科(アナザ―ワールド版)と楽しく過ごすという重要任務が残っている。
「ガチャ。ギ、ギィィ……」
「!?」
PCの画面に集中していると不意に玄関のドアが開く音がした。まさか。玄関のドアにはちゃんと鍵が掛かっていたし、ドアチェーンもしていたはずだ。それなのに何故。
「ダン様、申し訳ございません。無礼は重々承知しております。罰はこのバランが全て請け負います。どうか少しだけ話しを聞いていただけないでしょうか」
玄関まで侵入したバランが深々と頭を下げたまま神妙な面持ちで話す。いったい何が起こったのだ。オレは腹這いの恰好でコタツに入ったまま、部屋へと侵入してきた老紳士たちを目を見開いたまま見上げ硬直する。
「えっ!? 何で!?」
「この遺産相続はレイ様の悲願であり遺言でもございます。それにシズエ様もこの相続にご賛同されております。ダン様どうかご相続の手続きを────」
オレはバランの口から亡き父、亜門レイと、失踪中の母、シズエの名前が出たことに困惑を隠せないでいた。しかし、バランはそんなオレの動揺などおかまいなしに続ける。
「こちらの契約書は、ダン様が20歳になった本日より効力が発揮されるものでございます。我々はこの日を心待ちにしておりました。」
バランは今日でオレが20歳になったことまで知っているようだった。
それにしても心待ちにしていたとはどういう意味だろうか。
「ダン様が相続の権利を有されるのは、生前にお父上が所有されていた全ての財産、お屋敷と領土それと爵位でございます。手続きの一切はレイ様に申し使った私が責任を持って行わせていただきました。残るはこの契約書にダン様の承諾の証をいただくだけでございます」
そう言ってバランが差し出した契約書は、英語とは違う見た事のない言語で書かれていた。
オレに理解できるのは下段中央に書かれた父『亜門レイ』のサインだけだ。
財産と屋敷はならまだ理解できるが、領土と爵位とはいったい何のことだ。
「バランさんはもしかして母の居場所をご存じなんですか?」
「勿論でございます。ただいまシズエ様は重要なお役目に着かれております」
「重要な……お役目?」
「はい。向こうに着けばいずれお会いすることになると思います。ただ、今は時間がございません。どうか一刻も早くこの契約書に承諾の証を────」
この男は失踪したと思われていた母の居場所まで知っている。ずいぶんと急いでいるようだが、これが焦らせてオレの判断を鈍らせる詐欺の手口だとすれば、彼らに何のメリットがあるのだろうか。考えを巡らすが答えは出ない。話の内容自体は腕の悪い詐欺師のそれに近い。だが、バランの話し方や立ち振る舞い、話の節々に感じられる父や母に対する敬意のようなものには演技とは違う何かを感じる。
「あの、バランさんは父と母とは、どのようなご関係なんでしょうか?」
「はい。私はレイ様のお父上にあたるジン様の代より、ロックランドのお屋敷で執事としてお仕えしておりました」
「ロックランド?」
「はい。この遺産相続の内容に含まれているお屋敷がある場所でございます。この契約が完了するまでのお屋敷と領土の管理と、使用人たちのまとめ役をレイ様に仰せつかっておりました。シズエ様があちらへお越しになるまでは、定期的に状況などをご連絡させていただいていたのですが、何もお聞きではなかったでしょうか?」
「いえ……初耳です」
ロックランド。聞いたことのない地名だ。ヨーロッパのどこかだろうか。オレは見たことのない祖父の代から、父にも執事として仕えた相手を新手の詐欺かと疑った自分を恥じる。今のオレに出来るのは誠意を持った対応だけだ。
「父が亡くなった後もずっとその言い付けを守っていたんですか?」
「勿論でござます」
バランが優しい笑みを浮かべて答える。
「オレ相続とかそういうのは良くわからなくて────」
「ご安心くださいませ。手続きはこの契約書に承諾の証をいただくだけで十分でございます。細々としたことは私にお任せいただければ、全て滞りなく処理いたします」
「あの、その費用とかはどれくらい掛かるんでしょうか?」
「費用の心配はございません。全ての手続きが完了するまでを責任を持って執り行うようにとレイ様に申し使っておりますし、そのための費用と対価も既に頂戴しております。いずれにしろ今回の相続に関しましては、この国の法律が適用されることはございませんので」
バランは矢継ぎ早に並べた全ての疑問に丁寧に答えた。真っ直ぐにオレを見据えながら口にするバランの言葉には誠実さが感じられ、その荒唐無稽な相続話すら信じたいという気持になってきた。それにバランの言葉が本当なら母にも会える。
よし。それなら契約書に承諾の証をしようじゃないか。
ところで承諾の証ってのはいったい何ですかね。
【To be continued……】
読んでいただきありがとうございました。