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中学2年

僕たちが中学2年になった年。僕は大きな怪我をした。

その日の放課後、僕はいつものように部活へ行った。道場に顧問の先生が来るのはいつも遅くなってからだから、早い時間は何をやっても平気だった。仲のいい友だちと一緒に、準備体操と試合の中間のようなことをやっていると突然「なぁ、お前アイツとどうなってるの?」そう聞いてきたのは、違うクラスのあまり親しくない男子だった。彼が言うアイツとは彼女の事で、どうなってるのとは僕と彼女の関係の事だと分かった。その発言からは下品な興味しか感じられなかった。それに僕が何と答えたのかは覚えていない。ただ、「なんでもないよ」とか「かんけいないよ」などの彼の興味を満足させるような言葉ではなかったはずだ。だからその後も彼は「なんでもないわけないだろ」「みんなお前たちのこと噂してるぜ」「この間も一緒にいるところ見たってやつがいるしよ」僕にまとわりついて離れなかった。そんな質問に答えるのが面倒だったし、なにより答えたく無かった。適当にあしらっていると、あまりに僕のいい加減な受け答えにだんだん彼も調子に乗ってきたようだった。

「なんだよ、そんなに否定ばっかりしてるって事は知られたくない秘密でもあるのか。あぁ、実はお前らもうヤッちゃったとか?」中学生の男子なのだから話がそういう方向に流れていく事は当然とも言えるが、その発言を聞いた時、僕は面倒という感情をはるかに超える怒りを感じた。それは突然自分の中に現れて、とてもコントロールなんてできそうにないほどの強い感情だった。

それを悟られまいと僕は「そんなわけないだろ」などと答えながら彼に背を向けた。そのまま道場を出てどこかで落ち着こうと思ったのだ。だけどそんな僕に彼は「嘘だろ、絶対やってるよ。どうだったんだよ、アイツもやっぱ声だすわけ?アァ、とか、もっと、とか」そういいながら彼はどうもあえぎ声の真似事をしたようだ。周りにいた部活の友達もそんな彼をみて、馬鹿だなと笑っていたらしい。

『ようだ』や『らしい』をつけるのは、その時の様子をあまり覚えていないからだ。彼が口にした言葉が彼女のことを指していると理解したとき、自然と僕は怒りを抑えようとするのをやめた。ゆっくりと振り返って、後で聞いた話ではうっすらと笑みを浮かべながら、僕は生まれて初めて全力で他人の顔を殴った。それは1年かけて体に覚えこませた空手の突きではなく、まるでピッチャーがボールを投げるときのような、そんなパンチだったらしい。僕の拳は油断していた相手の顔を正面から捉え、相手はそのまま後ろに倒れた。そこからは断続的な記憶が続く。無様にひっくり返る相手。素手で殴った右手に走る熱。その相手にさらに詰め寄ろうとする自分。それを必死に止める周囲の友達。その手を片っ端から振り解いて相手との距離を詰める。相手の鼻を押さえた手の隙間からこぼれる血、僕を見上げる怯えた目。それでも収まらない怒り。血に染まりつつある相手の道着の胸倉を掴み、今度は左頬を殴る。そこで後ろから羽交い絞めにされて相手から引き離される。僕と彼の間にも何人かが割ってはいる。

そこで僕は我に返った。まだ全身が熱いけれど、道場でうずくまり道着を血まみれにした相手と、「おい、誰か先生呼んで来い!」「待て、それくらいにしとけよ!」「やべぇぞ、鼻血がとまらない!」「落ち着けって!」「保健室つれてくぞ、2年手を貸せ!」周囲の叫び声を聞いて頭は冷静になっていった。

彼はそのまま数人に抱えられるようにして保健室へ運ばれていった。顧問の先生も来て、周囲の友だちに何が起きたのか聞いていた。そして最後に僕のところへと来た。きっとどうしてこんなことをしたのか、と聞こうとしたのだろう。けれどもその直前に、僕を後ろから羽交い絞めにした先輩が「おい、おまえ右手大丈夫か!?」と声を上げた。

自分の右手を見ると全体が青紫色に腫れ上がっていて、感覚はまるでなかった。指一本動かせない代わりに、全く痛みも感じなかった。

結局彼は鼻骨と左頬の骨折、僕は右手中指と人差し指と手の甲を骨折して、手首の筋を痛めた。


これも後で聞いた話だが、一発目の後3人が僕を取り押さえようとしたが、それを振りほどいた僕の手際は見事で、さらに相当物騒な事を口走っていたらしい。それは普段の僕からはとても想像できないような言葉ばかりで周囲の友達はとても驚いたそうだ。僕は僕が何を言ったのかにはあまり興味が無かったけれど、仲のいい友達はその時の言葉を一つだけ教えてくれた。僕は「それ以上あいつの事言ったらぶっ殺すぞ」と、大声で怒鳴ったそうだ。


この事件は学校中に知れ渡り、僕は一時有名人になった。そしてどうして僕がそんな事を、具体的には知人の鼻骨と自分の右手の骨を折ったのか、その理由も学校中に知れ渡ったはずだ。すれ違う生徒はまず右手にまかれた包帯を見てから僕を見て、そしてあざ笑うような顔をする者もいたし、逆に尊敬とも感動ともつかない顔をする者もいた。顔も名前も知らない下級生の女の子に「頑張ってください!」なんていわれたこともある。

当然それは彼女の耳にも入っていたはずだった。だから僕は少しの間、なるべく彼女と会わないようにした。きっとそれは彼女も同じだったはずだ。お互いがお互いに会わないように気をつけた。

そんな時、一度だけ階段で彼女とすれ違ったことがある。僕は友達と喋りながら階段を上がっていて、彼女は友達と喋りながら階段を下りてくるところだった。お互いがまるで友達との会話に夢中で気がつかなかった、という様子を装ってすれ違った。それでもその時、心に穴が開いたような、やりきれない悲しみを強く感じた。気を紛らわす為に右手を握ったけれど、やっぱり痛いだけだった。


最初は不便の連続だった。右手を使う事、文字を書いたり物を食べたり、そういったことは全て左手を使った。おかげで僕は今でも左手で箸を使える。風呂に入って体を洗うのも、着替えも、最初はとても時間がかかった。だけど人は慣れるもので、数ヶ月したらストレスを感じなくなるほどには、毎日の生活を過ごせるようになった。

そうなってから、僕はあの事件のあと初めて彼女と二人だけで会った。休日の昼間、少し離れた街で待ち合わせをした。

時間より少し前に待ち合わせ場所に行くと、すでにそこには彼女がいた。遠目でも僕には、彼女が少し緊張しているのが分かった。近づいていくと彼女は僕に気がついて、嬉しそうな、そして少し悲しそうな顔をした。

昼食のために入ったファーストフード店で向かい合って座ったとき、ごめんねと彼女は僕に謝った。何の前置きも無かったけれどそれが僕の右手の事だと分かった。こんなの平気だ、今じゃ特に不自由もなく生活できるようになったと、むしろおどけたように僕は言った。そうして今度は彼女は嬉しそうに、泣きそうな顔をして、ありがとうと言った。それから「大丈夫、傷は元通りに治るから」そう言ってくれた。

それから数ヶ月が過ぎて、僕の右手は完治した。病院へ行って包帯をほどいて医者から完治の告知を受けて、僕は違和感の残る右手の感覚を楽しんでいた。長い間使わなかった右手はすっかり細くなってしまい、しばらくはリハビリをする必要があると医者から言われた。

彼女はとても喜んでくれた。お祝いと言って、コンビニで小さなケーキを買って二人で食べた。元通りに治ったでしょう?という彼女に僕は首を横にふる。元通りじゃない、すっかり弱くなっちゃったよ、と。右手と左手は同じ人についているというには不自然なほど、すっかり違っていた。長い間包帯に包まれていた右手は細くて、真っ白だった。そんな白い骨のような腕に、まるで僕の腕だという目印のように残る傷跡を指して僕は、傷は元通りにはならないんだ、という。悲しそうな顔をする彼女に僕は笑顔で、でも大丈夫、これからリハビリをして絶対に元に戻すから。と、そう言った。

君が言った「傷は元通りに治る」という言葉を嘘にはしない、とそう強く思った。


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