中学1年
小学校を卒業して、僕達は同じ公立の中学に進んだ。同じ地域にあるほかの小学校からもたくさんの子がこの中学校に入学してきた。1学年で5クラスもあった。
林間学校の後、彼女とはよく話す程度には仲良くなったけれど、それ以上の事は無かった。中学では彼女と違うクラスになってしまったけれど、それを残念がる暇は無かった。新しい友達を作ったり、部活に入ったり、初めての定期テストを受けたりして毎日を忙しく過ごしていた。廊下ですれ違えば挨拶はするけど、僕の方から積極的に、あるいは彼女のほうから積極的に話しかけるようなことは無かった。
僕は空手部に入部した。今考えてもその理由がよくわからない。ただ、右腕の傷を稲妻みたいだね、と言ってくれた彼女の言葉から何かひらめくところがあったのかもしれない。もしくは、柔道部なら坊主頭だけど空手部なら髪型は自由だ、という理由だったかもしれない。
一応は型、つまり演舞に重きを置いていたが、そこは中学生の空手部だ。顧問が見ていない隙、あるいはごく稀にある試合なんかはほとんどケンカだった。
彼女と二人だけで会ったのは、入学してから半年後の9月だった。その日僕は部活の片付けに手間取って、学校を出たのは午後7時を回っていた。残暑が残る時期で僕は半袖のワイシャツを着ていた。
夕方ももうすぐ終わる、空の色が深い赤色から藍色へと変わる時間帯。学校からの帰り道の途中に公園があった。住宅街の中にあって、昼間は子供をつれた母親でにぎわう場所だがこの時間はさすがにだれもいない、はずだった。
そこに、彼女がいた。
一人で公園のベンチに座って、うつむいている。僕はこのまま通り過ぎてもよかったのだけれど、結局公園の中へと足を向けた。彼女は最初、誰かと思って驚いた素振りを見せたが僕だと分かると微笑んでくれた。
何をしているのか、と僕がたずねると曖昧に笑ってちょっとね、と答える。そして、ちょっと話をしていかない?と言われた。
隣に座って彼女の話を聞くと、それは中学生の女の子によくある友達関係の悩みらしかった。ぽつぽつと話す彼女に相槌を打ちながら、僕はその横顔にドキドキしていた。会話の内容よりも今こうして二人だけでいるという事が、すぐ隣に、手を伸ばせば触れられる距離に彼女がいるということが僕を緊張させていて、会話の中身はほとんど聞いていなかった。
だから「私はダメなんだよ」という彼女の言葉に「そんなことない」と答えたのは、ほとんど反射条件のようなものだった。つられて僕は、小学校3年生の時の事を話した。いつもからかわれるだけだった右腕の傷を褒めてくれたこと、それがどれだけ僕を励ましてくれたか。腕の傷でどれだけつらい思いをしてきたかを他人に話すのは、この時が初めてだった。
僕が話し終わった時、空にはきれいな満月がかかっていて、公園の中は外灯がいらないくらい明るかった。まるであの夜のようだ、と思った。彼女もそう思ったのだろう、話は自然と林間学校の事へと移っていった。集合に遅刻してきた友達、山登りで見た花畑、不ぞろいなジャガイモの入ったカレー。そして、肝試し。
「あの時、男子と女子で別れて誰とペアを組みたいか希望を取ったでしょ?誰と組みたいって言ったの?」彼女は笑顔でそう聞いてきた。
思わず答えに詰まり空を見上げる。雲ひとつない空には本当に綺麗な月が浮かんでいて、涼しい風が僕の腕を撫でた。その瞬間、僕の心はあの肝試しの夜に戻っていた。だからさっきまで感じていた緊張は消えて、特に気負うこともなく、自然と彼女の名前を口にすることができた。
彼女は少し驚いたような顔をした。そして一度うつむいて「実は私が組みたかった相手も君だったんだよ」と言った。
それに何と答えればいいのか迷っている間に、彼女は椅子から立ち上がってそろそろ帰ろう、と歩き出した。僕もそれに続いて歩き出す。その時僕たちの間には、あの深夜の森の中と似た空気が流れていた。手を伸ばせば彼女の手をつかめるのに、中学生になった僕にはそれができなかった。
不意に外灯の下で彼女が立ち止まる。
「今でも誰かとペアを組むなら、私の名前を書いてくれる?」静かに、少し緊張した声でそう聞いてきた。僕はそれに、今度は迷うことなく、今でも君の名前を書くよ、と答えた。
振り向いた彼女は嬉しそうに、目には少し涙が浮いていたと思う。
ありがとう、私も絶対あなたの名前を書く。彼女がそう言ったあと、僕達は抱きしめあった。僕は彼女の体温や、髪の毛から漂うシャンプーの匂いや、呼吸の音を感じていた。それは手を繋いだときとは比べ物にならないくらいの、彼女の存在そのものだった。
学校の中では僕達は普通に振舞った。周囲の友達に言いふらすようなこともしなかった。ただ、肝試しの時にいた友達の間では僕達はほぼ『確定』しているらしかった。
休日にはデートのような事もした。少ないお小遣いの中から、何とか彼女と出かけるためのお金を集めた。といっても、中学生だった僕にはあまり大きなお金は出せない。遠出もできないときは自転車に二人で乗って、色々な場所に行った。少し遠くの公園や、水族館にも行った。お金があるときは電車で街に行って、ウィンドウショッピングをしたりもした。
部活も続けた。自分では自覚がなかったが、両親が言うには僕は中学で体が一回り以上大きくなったらしい。部活と勉強を両立させて、彼女とも仲良く過ごした。そうして、とても充実した時期が過ぎていった。
今振り返っても、僕の人生でその時以上に充実していた時期はない。