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バゼット・バークローリーの夢幻紀行

英雄の眠る丘

作者: 和仁

 風が舞い、「あっ」と小さく声をあげるまもなく砂が目に入る。

 痛い。

 海が近いためか風が強く、風が吹くたびに白い小さな砂塵が舞う。

 彼が立つ丘からは見えないけれど、近くに砂浜でもあるのだろう。気をつけていたはずなのに、つい、目を眇めることもなく見入ってしまっていたせいだ。

 海辺の岸壁に広がる街を見下ろす丘の上に聳え建つ、古いけれど荘厳な廃墟の神殿パルティノンを。

 夕日を背後にいただいたそれは躍動するような熱を持ち、支柱に彫られた彫刻は今にも動き出しそうな確かな存在感があった。

「あれ?」

 ふと、建物の暗がりで何かしら影が動いたような気がして、目をしばたかせる。

 こんな時間に誰かいるのだろうか。

 しばらくの間目を凝らしてみるが、何の気配もなく、誰もいない夕暮れの神殿はとても静かだった。

 きっと柱の影か何かを見間違えたのだろう。

「っしゅん」

 ひやりと冷たい風が通り過ぎる。

 陽が沈み始め、夜気が迫ってきていた。

 もう既に街が見えてきているというのに野宿はごめんだと、彼は足を急がせる。

 彼の名はバゼット・バークローリー。

 ひょろりと高い長身に似合わずまだ幼さを残す精悍な顔つきの青年で、十五の時に故郷を旅立ち、五百余あまりの手記を残した冒険家、である。




 街の門をくぐったバゼットは真っ先に宿屋を目指す。

 店は酒場も兼ねていて、多少の賑わいを見せて履いたが活気はない。暗く淀んだ空気が店に充満していた。

 店の客たちは、扉を軋ませて現れたバゼットに一瞥をくれると、すぐに会話に戻っていく。しかしそこに漂う緊迫感は、突然現れたよそ者、バゼットの様子を遠巻きに観察しているかのようで居心地が悪い。

「あの、何かあったんですか?」

 言いようのない気まずさを感じながらも、カウンターに身を滑り込ませたバゼットが何気なくマスターに問いかける。

「あぁん? なんでぇ、よそ者が。なんでもねぇよ」

 店主は面倒くさそうに話す事はないと言い捨てるが、よそ者であるバゼットに話しかけられたくないのだろう。彼の態度からはよそよそしい隔たりを感じた。

 会話を諦めたバゼットの耳に、客たちの会話が漏れ聞こえてくる。彼らの話の端々には『戦争』という言葉があった。

 戦争。

 十年前まで、この地域ではある都市国家との小競り合いが続いていた。特にこの街は戦闘に巻き込まれ、甚大な被害を蒙ったと聞く。

 人々はまだその傷跡から立ち直れていないのだろう。見れば人側らしい客たちの着ている服はみすぼらしく、食事も安いエールと堅パンにシチューといった質素なものだった。

「あの、何か食べるもの、ありますか?」

 メニューがないのでどうしたものかと思って尋ねると、よそから野次が上がる。

「はんっ、ヨソ者にやるもんなんてねぇよ!」

「そうだ! そうだ!」

「さっさと出て行け」

 バゼットが驚いて振り向くと、誰もが知らない振りをしてひそひそと嗤い合い、誰が言ったのか判然としない。

 ただ不気味な笑い声だけが突き刺さる。

 嫌な空気だ。

「・・・・・・っ」

 言い返すことも出来ず歯を食いしばって耐える。自分以外に味方のいないこの場所で、怒りのままに行動することほど無意味なことはない。

 理由のない侮辱を受けて泣き寝入りをするバゼットの前に、ドンっと料理の乗ったトレイが大きな音を立てて置かれる。

「よそ者だろうがなんだろうが、金を払えば客は客だ」

 あっけに取られた客たちが、あからさまな怒りを露に睨みつけてきたが、マスターの一言によって鼻白む。

「この金の亡者が」

 という暴言が飛び交うが、マスターの威圧に気おされて、それもすぐに収まった。

 それで場の空気が良くなったわけではないが、胸のすく思いがした。

「あの。ありがとうございます」

「ふんっ」

 素直に感謝の言葉を述べれば、お前の為にやったんじゃないといわんばかりにそっぽを向かれた。

 バゼットは気にせず、スプーンを手にシチューをに運ぶ。

「よそ者というだけで忌み嫌い、排斥しようとする態度が気に食わないだけだ」

 ポツリとつぶやかれたその言葉に、バゼットは下を向いたまま密かにくすりと笑った。

 この街は戦争のせいで、よそ者に対していい感情を持っていないと聞いていたが、このマスターは違うのかもしれない。

 そう思えば気持ちは少し楽になった。

 二口目を口に運ぶ。

 出された料理は他の客と同じもので、おそらくそれ以外のメニューはないのだろう。思った以上にパンはスカスカで固く、味の薄いシチューは野菜のくずが入っているだけだ。

 それ以上の会話はなく、バゼットは出されたものをただ黙々と喉に流し込む。

 旅の道中、一人で食べた冷たい保存食と、冷たい緊迫感の中で食べる暖かい食事。どちらがいいかといわれれば前者だろう。マスターにその気はないだろうが、この場においてよそ者は、追い出されないだけましなのかもしれない。

「戦争が終わってからこっち、全然景気が回復しやがらねぇ」

「それもこれも、ヨソ者がやってきたせいだ」

「まったく、いつまでこんな状態が続くのやら」

 聞こえてくる会話の内容さえ、バゼットの心に影を落とすのだった。




 街で一泊の宿をとったバゼットは、朝から早速街に繰り出していた。

 すがすがしい朝日とは裏腹に、寂れた街はどこか活気のない陰鬱な空気が漂っていた。

 人通りはまばらで少なく、行き交う人の足は重い。

 大通りから見通せる裏路地には、家もなく仕事もない者たちが身を潜めて横たわっている。

 明らかによそ者と分かるバゼットは嫌悪の的だ。胡乱な目で見つめてくる視線を避けて、足は自然と早足になる。

 建物のあちこちに入った無数の傷も罅も今だ修復されず、終戦当時のままなのだろう。

「話には聞いていたけど、これは酷い・・・・・・」

 戦いの戦線にあったこの街は戦勝国に蹂躙され、子供が飽きたおもちゃを捨てるように、街は打ち捨てられた。

 戦争が終わっても未だ復興の兆しの見えないこの街は、今でも目に見えない戦争が続いているのだ。

 バゼットの足は、知らず昨日の丘に向かっていた。

 脳裏に焼きついたあの雄大な姿。海辺に広がる街を見下ろす丘の上に建ち誇り、すれた街の人々とは裏腹に、生き生きとした躍動感を感じさせるあの神殿にもう一度触れたくなったのだ。

 街の外れ。小高い丘へと続くこの一本道を歩いて行った先に、それがあった。

 燦然と降り注ぐ陽光を、鏡のように反射させてそそり立つ、白い巨柱の神殿。

 長く伸びた影から見上げるバゼットは、白日の下にさらされたその姿に愕然とした。

 目の前に広がるのはただひたすらの虚無と絶望。夕日の中に見た、あの圧倒的な存在感と力強さはどこにもない。

 美しかったはずの白亜は黒く薄汚れ、崩れ落ちた石壁や柱が無造作に積み上がる瓦礫の廃墟があるばかり。その上、長い間強い日差しと海からの潮風に晒され続けたために、風化の一途を辿っていた。

 これはまるで、街に住む人々の心を映す鏡のようだ。

 彼らもこの神殿のように戦争で深く傷つき、十年という年月が過ぎても、未だに癒えることなく昏い影を落としているのだろう。

 かつては街の象徴だった大昔の遺物は、今や忌まわしい戦争の傷跡でしかない。ここに残るのは、人々の心から忌まわしい戦争の記憶だと消し去られ、打ち捨てられた孤独な廃墟なのだ。

 神殿の入り口に立ったバゼットは、見えない手に押されるようにふらりと中に足を踏み入れる。

 埃のようなカビのようなツンとした臭いが喉を突き、昨晩、他の客が帰っていった後、マスターが語ってくれた『戦争』の話を思い出す。




 ある日突然、轟音とともに軍隊が現れ街中を震撼させた。

 黒光りする銃器を携え、怖いほど統率の取れた部隊はぴりぴりと緊張を周囲に撒き散らし、有無を言わさず瞬く間に街を占拠した。

 それが始まりだった。

 その手腕はあまりにも鮮やかで、戦うことを知らない住人たちはなす術もなく、軍隊に従うことしかできなかった。そのため怪我を負った者こそいなかったが、誰もが見えない先行きに不安を感じ怯えた。

 程なくして、彼らの予感は最悪な結果となって訪れた。

 王国軍の拠点として占領された街に、都市国家と呼ばれる宗教都市の、武装した聖職者たちが攻めてきたのだ。

 聖職者とは名ばかりで、彼らは宗教を温床に数多くの虐殺を繰り返す、性根の腐りきった犯罪者の集団だった。

 神の教えに背く異端者の粛清、という大義名分を掲げた彼らの勢いはとどまるところを知らない。最初こそ王国軍が有利に見えた戦いも、宗教兵団の数と猛威に圧倒されて敗走を繰り返した。

 そして王国軍は、ついに街と平野を一望できる丘に布陣を敷いた。

 そこは最後の砦。負ければ後はなかった。

 神殿に残り全ての兵を詰め、神聖な場所を多くの血と屍骸で汚しながらも勇猛に戦った。

 そこには強制徴兵された、あるいは街を守るために自ら志願した住民の姿もあった。しかし負けに傾いた戦況は覆ることなく、宗教兵団との度重なる衝突で磨耗していた王国軍は惨敗した。

 血みどろな戦いに終止符を打ったのは、王国軍が仕掛けた大量の爆薬による神殿の爆破だった。彼らは自らの敗戦を認めるや、あっさり街の人々を捨てて逃げ帰ったのだ。

 残された住民たちの逃げ場はない。後に異端矯正戦争と伝えられる聖戦は略奪や陵辱行為に姿を変え、街は勝鬨を上げいよいよ勢いづく僧兵たちによってことごとく蹂躙された。敗走兵はもちろん、街の男、女、子ども老人に至るまで無差別だった。

 先に来た王国軍の兵士は街の人々にこう言っていた。我々は街を守る為にきたのだと。

 しかしそれは違う。彼らは自分たちの土地に被害の及ばないこの地を、戦場として選んだのだ。

 戦争の生贄に選ばれた街は荒れ、価値ある美術品や建築物が無残にも数多く破壊された。この神殿パルテノンもそのうちのひとつ。

 人が生み出した文明など、他人を虫けらのごとく踏み潰す快楽の前ではなんの価値もないと、状況が語っていた。

 この街はある宗教都市と王国との戦にただ巻き込まれただけ。不幸にも両者の従軍進路上に存在していというだけなのだ。




 バゼットは、街で見かけた人たちの、よそ者に対する冷ややかな態度や猜疑心溢れる視線を思い出してうつむいた。

 あんな話を聞けば、街の人たちがよそ者を嫌うのも無理はない。

 よそから持ち込まれた戦に翻弄され、踏みにじらた人々の恨み。十年という決して短くない年月を経ても消えなかった痕と深い憎しみは、人々の心をどんなに蝕み続けていることか。

 バゼットに推し量ることが出来るはずもなかった。

 神殿内には誰の姿もなく、ひやりとした空気が漂っている。

 時折、東風(エウロス)の湿った空気が半壊した神殿を通り抜け、その後を追うように粉塵がぱらぱらと舞い上がる。

 一年を通してほとんど止むことのないその海風は、崩れかけた神殿の風化を進めていた。

 日の光が降り注ぐ神殿内で、折れて倒れた巨大な柱が、やはり崩れて落ちてきた天井をかろうじて支えていた。

 まるで瓦礫の山だ。 

 いつ全壊してもおかしくないその中を、バゼットは探検気分で散策する。

 どんなに危険なことだとしても、この奥に行かなければならない。という不思議な衝動がバゼットを突き動かしていた。

 特に何もない、柱ばかりの建物の構造は単純で、神殿の中心部。神を象った彫刻像を祭る祭壇の間に、彼が行き着くのは当然といえば当然。だから気づいてしまった。

「あれ? なんだろう。ここだけ色が違う」

 体の腹の辺りから上半分を失ったる彫刻像の足元。白亜の台座を汚す黒ずんだ染みに。

 不思議に思って顔を近づけると、かすかに鉄さびのような臭いがした。

「――っ」

 思わず飛び退り、この黒ずみの意味するところに気づいて顔をこわばらせる。

 それはバゼットの腰より低い位置にあり、ちょうど人が腰を下ろしたらこれくらいの高さになるだろうか。

 嫌な想像が働く。

 ここは戦場だったのだ、人が死んでいてもおかしくはない。分かっていたはずなのに、話に聞いていただけの『戦争』が急に身近なものとなってバゼットの胸に落ちてきた。

「・・・・・・行こう」

 胸の中で祈りを捧げ、その場を立ち去ろうとしたその時。


 ――止めろ。ここを破壊しないでくれ!――


「・・・・・・っ」

 ガツンと頭を殴られたような衝撃がして、バゼットはひどい頭痛に襲われた。

 目の前がぐにゃりと歪み、立っていられなくなって、手膝を付いてへたり込む。

(今のは一体・・・・・・)

 何だったのだろうか。

 男の声がした。

 耳から入る音というよりは、直接頭に直焼きつけられるような声。

 声の主は、戦場となるこの神殿が破壊されるのを、必死で止めようとしていた。

 着ている服こそ兵士のものだったが、戦場という場には相応しくない、甘さの抜け切っていない世間知らずな雰囲気の青年。

 一瞬のことだっただけに、それ以上のことは分からない。声の主が誰と話していたのかも、その後どうなったのかも。

 考えようとすればひどく頭が痛んだ。

「おやぁ?」

 吐き気に蹲るバゼットの耳に、妙に間の抜けた声が聞こえてきた。幻聴かと思ったが、続く声と気配に幻ではないことを確認する。

「大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ」

 祭壇の間の入り口から現れた男は、そう言ってバゼットに近づくと手を差し出した。

「あの・・・・・・大丈夫、です」

 まだ少し気分が悪く、ひどく青ざめてはいたものの、めまいと吐き気をやり過ごしたバゼットが何とか言葉を搾り出す。と――

「え――――?」

 男はひどく驚いた表情でこちらを見た。

 一体なんなのだろう。

 だがそれも一瞬のことで、彼はすぐに何事もなかったように、

「ああ、そうかい。それなら良かったよ」

 と、言葉を続ける。それがあまりにもさりげなかったせいで、バゼットは聞き返すタイミングを失ってしまった。

「いやぁ、普段ここには誰も来ないんだけどね、なんか足音がしたから気になって来てみたら、君がこんなところで頭を抱えて蹲っているのだもの。ビックリしたよ」

 彼の様子に妙な違和感を感じたけれど、まくし立てられた言葉の勢いに呑まれて唖然となる。

「・・・・・・ええと、あなたは?」

「ああ、これは失敬。私はエリアス。ただのしがない画家さ」

 そう言ってエリアスは、手にしているスケッチブックをひらひらさせてみせる。それがバゼットの好奇心をくすぐった。

「スケッチ!」

 声をあげながら、バゼットは気分が悪いのも忘れて立ち上がる。

「良かったら見せてくれませんか?」

 勢い込んで頼めば、はははと失笑を買う。

「もうすっかりいいようだね。ほら、手慰みに描いたラフみたいなものだけど、こんなものでよければいくらでも」

 スケッチブックを受け取って表紙を開く。

「わぁ――すごい」

 ラフとは思えないほど細かく丁寧に描かれたスケッチに、感嘆が漏れる。

「これって――」

「そう、ここだよ。私はいつか、この場所を絵に描きとめたい。この神殿が建てられてから何百年たった今でも、色あせない迫力。ここに奉られた物言わぬ英雄ヘルクレスの、力強さ溢れる生命の躍動を」

 彼が力強くたたえる神殿は、今や白亜の天井や柱は長年の風雨で色あせて、半壊したまま放っておかれたうつろな廃墟と成り果てている。日中の、明るい日差しの下にさらけ出された神殿には、お世辞にも生命力に溢れた神々しさはない。

 エリアスが気づいていないはずはないだろうが、あえてその事実を指摘する気にはならなかった。

 バゼットがスケッチブックに目を落とせば、自然と会話も少なくなり、しばらくページをめくる音だけが続いた。

「それにしても、こんなにまともに人と会話したのは久しぶりだよ」

「――え?」

 エリアスのポツリとしたつぶやきに、スケッチに見入っていたバゼットは驚いて顔を上げる。

「毎日毎日この丘に登って・・・・・・そして気がつくとここにいる。最近はここに来る人もめっきり少なくなってね。たまに見かけても誰も私の話を聞いてくれない」

 彼はそこで言葉を切ると嘆息した。

「悲しいね。こんな偏屈な絵描きの相手は嫌だとさ」

「そんなこと・・・・・・」

 ――ない。と言いかけてバゼットは続きを飲み込んだ。

 バゼットはエリアスのことをなにも知らない。だから皮肉げに笑う彼に、口先だけの気休めなんて意味はない。

「そんなわけで、人との会話に飢えている私の話に、しばらく付き合ってくれるかい」

 といかけるようでありながら、有無言わせない強制力にバゼットはうなずいて、それを見たエリアスは熱に浮かされたように話し始めた。




 私には憧れている男がいる。

 彼は幼馴染で友達で。喧嘩が強くてリーダで、誰とでもすぐに仲良くなって、だけど意地悪するやつには容赦がない。頼れる男だ。

 体の弱かった私は何度いじめられ、そのたびに彼が駆けつけて助けてくれた。

 私の英雄だ。

 私が画家を目指すといった時。町を出て修行をすると決めた時。反対する周囲を押しのけて彼だけが渡しを応援してくれた。

 そしてもう一人、この街には英雄がいる。

 この街の象徴で、弱気を助け悪を懲らしめる、神と人との間に生まれた英雄へルクレス。

 見てくれよ、すごいだろう。

 ここにくれば彼の伊吹を感じられる。荒々しい彼の命の激しさを。

 私はこの壮大で荒々しい英雄ヘルクレスの命の躍動を、この手で書き留めたくて毎日ここにいる。

 なのにどうしても描けない。

 何枚描いても、何を描いても。どうしても描けない。

 そう、何か大切なことを忘れているような・・・・・・




 壊れた石像を見上げていたエリアスは急にがたがたと震え出し、両腕を抱いて言葉を切った。

 既に壊されて、ぼろぼろになった英雄像ものを今だ存在しているかのような振る舞い。

 彼にはこの崩れかかった神殿の姿が見えていないのだろうか。

「そう、私は怖いんだ。誰も私に話しかけてくれない。私が話しかけてもみんな知らないフリをする。それがまるで、本当に自分がここにいないみたいで怖いんだ」

 そう言う彼の瞳はどこか遠くを見るようで、バゼットの姿を映してはいない。

「昔から、私は何か嫌なことがあるとよくここに来た。神殿の奥の英雄がおわすこの場所に腰掛けて・・・・・・そうすると、いつの間にか隣にはあいつの姿があって・・・・・・」

 エリアスの体の震えは次第に激しくなって、顔面は蒼白になっていた。言っていることも脈絡がなくてめちゃくちゃだ。

「私は臆病者だ。何か大切なことを忘れてしまったのに、思い出すのが怖くて、だから逃げてきたんだ。絵を描いていれば何もかも忘れられた」

「エリアスさん、落ち着いてください」

 伸ばした手に触れたエリアスの肌が、石膏のように冷たくてぞっとする。

 何か嫌な胸騒ぎがバゼットの心をかき乱す。

「本当に、なんなのだろう。逃げてきたはずなのに、私はここに来るのが少し怖い。ねえ、君。そろそろ行かないか?」 

 エリアスきょろきょろと視線を彷徨わせて、バゼットを別の場所へと急がせる。

「ここはなんだか嫌な感じがする。今すぐここを離れよう」

 つい先ほどまでの穏やかさは消え失せて、突然態度を変えたエリアスの瞳が不安げに揺れる。

 その視線の先をたどり、バゼットがつられて振り向いたとき、頭の中でノイズが走る。


 ――止めろ!


 砂嵐の濁流の中で、あの声が聞こえた。

(――まさかっ!)

 あれが彼だと言うのだろうか?

 そんなはずはない。認めたくない。

 頭痛に襲われながら必死に否定を繰り返しても、バゼットは気づいてしまった。

 あの声はエリアスの声に似てはいなかったか?

 戦場に似合わない世間知らずな男の顔は、エリアスに似ていなかっただろうか?

 エリアスの声も顔も、あの青年に驚くほどそっくりで、その事実に震える。

 十年だ。

 たとえあの幻影がエリアス本人だったとしても、戦争当時から十年以上もたって、年をとらない人間がいるだろうか。

 そんな人間、いるわけがない。

 ならばここにいる彼は――

「・・・・・・これはあなたじゃないんですか?」

 バゼットは思わずつぶやいていた。

「え?」

 聞き返すエリアスの表情が抜け落ちて、聞きたくないことを聞かされた子供のように愕然と絶望に変わる。

「君は何を言っているんだい?」

 エリアスの姿は恐れと怯えに震え、ゆがんで見える。

 しまったと思ったが、一度口に出してしまったことを言わなかったことにすることは出来ない。

「この影のように見える黒ずんだ痕は・・・・・・」

 声が震えた。

 恐怖と痛みで胸が張り裂けそうになる。

 それでも誰かが伝えなければいけないのだ。大切なことを忘れてしまった彼に、真実を。

 バゼットは意を決してもう一度、彼に告げる。

「ここはあなたが亡くなった場所じゃないんですか?」

「っ――――――――!!!!」

 事実を突きつけられたエリアスが声にならない悲鳴をあげた瞬間、光に飲み込まれるように目の前がまっしろになった。




 何も見えない

 ここはどこなんだろう。

 白い空白をたゆたっていたバゼットの視界が不意に変わる。

 知らないけれど見覚えのある場所。

 壊れているはずの彫刻像は健在で、まだ廃墟と化す前の神殿。だから、さっきまで自分がいた場所と同じなのだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。

 そこで二人の男が対峙している。

 バゼットはそれを斜め上から眺めていた。

 きっとあの時の続きなのだろう。

 エリアスの声が聞こえる。

「やめろ! やめてくれっ! ここを破壊しないでくれ!!」

 向けられた銃をものともせず、必死で言い募るエリアスに、男は冷ややかな一瞥をくれる。

「戯言を。ここを敵の拠点にされてしまえば街はおしまいだ。お前がやらないなら俺がやる――」

 一瞬のためらいの後、男の手の中で重たい銃器がうなりをあげた。

 ズドンっと音がして、エリアスの体がぐらりと倒れた。胸に空いた大穴からどくどくと溢れ出る赤い血が、白亜の神殿に染み込んでいく。

「お前が邪魔をするからだ・・・・・・」

 力なく友を見上げるうつろな瞳から目をそらし、エリアスと同じ制服を着た男は気まずさに眉根を寄せてつぶやいた。




「――そうか、私はもう死んでいたんだね」

 刹那の空白から戻ってきたバゼットは、虚空を見つめたままつぶやくエリアスの声を聞いた。

「神殿の遺跡を、敵の手に落とさない為に破壊しなければならなかった。それがひ弱で臆病者で、絵を描くことしか能のない私に与えられた役目だった」

 エリアスは誰に言うでもなくそう言った。

「だけど! 私にそんなことは出来なかった。この美しい神殿を破壊するなんて!

 たとえここが敵の手に落ちることで仲間が、街のみんなが犠牲になるとしても、出来なかったんだ」

 思い出した記憶を感情にのせて語る彼の告白を、バゼットは時折、相槌を打ちながら聴いた。

「私は、人の命とこの薄汚れた遺跡を天秤にかけて、この遺跡を選んだのだ。もしここに敵の軍勢が押し寄せてきていたら、私は間接的に自分の大切な人たちを見殺しにしていたかもしれない。だから、あの時のあいつの判断は、正しかったんだ」

 あいつとは、あの幻影に見たもう一人の男のことだろう。

 重苦しい沈黙の中、エリアスはふっと笑った。

 泣き出しそうな顔に、無理やり笑顔を貼り付けたちぐはぐな表情かおだった。

「ありがとう、名前も知らない君。思い出させてくれてありがとう。そして、私の話を聞いてくれて」

「エリアス、体が・・・・・・」

 彼の悲しい笑顔は、いつの間にか背景に溶けて、透けていた。

 忘れていた記憶を取り戻し、彼をここに縛り付けるだけの未練もないのだろう。

「最後にひとつ、頼まれてはくれないか?

 私の親友に会うことがあったら伝えてほしい――――」

 彼の頼みに、バゼットは手元に残されたスケッチブックを抱きしめながらうなずいた。




 祭壇の間を後にしたバゼットは、足音に気づいて振り向いた。

「誰と話してたんだ?」

 柱の影からゆらりと現れたその顔は、

「マスター」

 街の酒場のマスター、その人だった。

 店を開いているはずの彼がなぜここにいるのか。声に出さないでも顔に出ていたのだろう。

「お前がこっちの方に行くのを見かけてな」

 マスターはばつが悪そうに顔をしかめて弁解する。

 まさか、気にかけてくれていたとは思わず驚きに目を丸くするバゼットに、彼はよりいっそう不機嫌になって眉を寄せる。

 その鋭い瞳が何かを捉え、

「それよりもお前――」

 と、探るようにじろりとバゼットを睨みつけてきたが、近くで朽ちた砂片がぱらぱらと落ちてくる音がして、すぐに彼の方から目を逸らした。

 ここにいつまでもいるのは危険だと判断した為だろう。

「まあいい、とにかく早くここから出るぞ」

 その提案に異論があるはずもなく、あごをしゃくってきびすを返すマスターの後ろを、足元に気をつけながらついていく。

「ここは危ないし街の汚点だからな。普段は誰も来ねぇんだよ。お前みたいな観光客が、興味本位で訪れる他はな」

 マスターは背を向けながら吐き捨てる。

「俺は別に、ただの興味本位って訳じゃ」

 言い返しながら、見る見るうちに遠ざかっていくマスターの広くがっしりとした背中に追いすがる。

 今更ながら、よくこんなところに入り込んだものだ。

 折れた支柱が折り重なって、ところどころ通路をふさいでいる中を、どうやって歩いてきたのか、まるで覚えていない。熱にでも浮かされていたようだ。

 スケッチブックを落とさないよう細心の注意を払いながら瓦礫を避け、折れた柱を潜り抜けていくと広い場所に出た。

 崩れ落ちた天井の向こうは黄昏に染まりつつあった。

「あの街はよそ者に厳しい街だ」

 声を頼りにマスターの姿を探すと、背景に溶け込むように、海側にある、先が折れた支柱の間に手をついて立っていた。

「このままじゃいけない。よそ者を忌み嫌い、排斥しているだけではだめだ、と思っていても、どうすることも出来ない」

 彼の傍まで歩いていくと、柱の間から、海辺の斜面に連なって広がる街が望める。

 夕日に染まりつつある白亜の家々は、その白さがよりいっそう際立って、美しく輝いて見えた。

「お前はあの街をどう思う?」

「ええと・・・・・・」

 突然話を振られて、バゼットは返答に困って戸惑った。

 率直な意見を言えば、人々の態度は陰湿でとげとげしく、街全体の空気を淀ませて気分は悪い。だけどそんなことを、そこに住んでる本人に言えるはずもなく、言葉を濁す。

「ここに来るのはあの時以来だ。親友あいつを殺して神殿を破壊した、な」

「――えっ?」

 まさかと思った。

 この話は聞いたことがある。

 いや、バゼットは知っている。

 何の偶然か、バゼットが視て、エリアスに聞かされた話と同じ。

(この人が、エリアスを殺した――?)

 急に息がが苦しくなって、動悸が激しくなる。

 混乱している間にも、マスターの話は続いていた。

「見ての通り、ここはちょうど街を見下ろす場所にある。戦争時、奪われた神殿が敵の拠点になることを恐れて、神殿を破壊する作戦が立てられた。その中であいつだけが断固として反対した。それを、俺が殺して破壊した」

 そこで言葉を切って息を吐く彼の手が、かすかに手が震えていた。

 ここに来るのが初めてだという彼にとって、この告白もまた、初めてのことなのかもしれない。

「だが、その後すぐに戦争が終わった。俺たちは負けたんだ」

 バゼットには背を向けたまま、町を見下ろす彼がどんな表情をしているのか分からなかったが、自傷気味に口元をゆがめるのが見えた。

「結局、頼みの綱だった王国軍は、神殿を爆破することによって敵軍の注意を逸らし、その間にさっさと逃げ帰っていた。気がついた時には一気に敵軍が押し寄せて、町を蹂躙していた」

 話を聞いているだけのバゼットは、緊張につばを飲み込んで、乾いた喉を湿らす。

「今となっては、あいつの方が正しかったんじゃないかとさえ思う。親友を手にかけ、大切な街の遺産であるこの神殿を破壊までしたのに、結局大切なものは護れなかった」

「そんなこと、ない」

 息切れに、バゼットは思わず叫んでいた。

「そんなことないですよ。あなたはあの時の最善をやったんだ! だから・・・・・・」

 バゼットの反発に、マスターが初めて振り向いた。

「何を知った風な口を」

 恫喝の声が響く。

「だって、エリアスが言ったんだ。あなたの行動は、街の人たちを守る為に決断したことだから、自らの欲望のために、他人を犠牲にしようとした自分とは違う。だから自分を止めてくれてありがとうって」

「エリアス?」

 バゼットの腕の中にあるものに目を留めた彼が、怒りを顕に声を荒げる。

「ああそうだ。どうして俺がこんなことを話す気になったのか。それはエリアスのだろう? どうしてお前が持っている。どこで見つけた? あいつが死んで、どこを探しても見つからなかったのに!」

 自分よりも一回り以上は体格差のある強面のマスターに詰め寄られ、バゼットは初めて彼に恐怖を感じた。

 怖い。心が折れてしまいそうだ。

 けれど、ここで目をそらすわけにはいかない。と自分を奮い立たせ、スケッチブックを抱えて身構えて、彼の瞳を真っ向から見つめ返す。

「信じてくれないかもしれないけど、俺はここでエリアスと会って、これを受け取った。エリアスは貴方が過去を引きずって、停滞することを憂いていた」

 バゼットは抱えていたスケッチブックを差し出す。

「これはあなたが持つべきものだと思う」

 マスターは無言でそれを受け取ってぱらぱらとをめくり始める。

「・・・・・・」

 ただの数分がとても長く感じられる頃、突然彼が関を切ったように笑い出した。

「ふ・・・・・・ははは、はははははは。何言ってんだよ、馬鹿だろお前。お前を殺したのは俺なんだぞ? なのに英雄だって? ふざけんなっ!」

 マスターは握りこぶしを思い切り柱に叩きつけて、行き場のない怒りと虚しさをぶつける。それがバゼットには、笑いながら泣いているように見えた。

 やがて怒りも笑いも収まった頃、彼はバゼットに尋ねた。

「あいつはなんて言っていた?」

「あなたには、過去を乗り越えられる強さがあるはずだって」


 ――そうだろう? 私の英雄ヘルクレス


 バゼットの声に重なって、エリアスの声が聞こえたような気がした。もちろんそれはただの気のせいで、マスターはそうかとだけつぶやいた。

「・・・・・・俺は、神殿を建て直そうと思う」

 再びマスターが顔を上げたとき、彼はつき物が落ちたようなすっきりとした表情かおで穏やかに笑っていた。

「いいさ、やってやろう。これがあれば、それが出来る」

 マスターは力強くエリアスのスケッチブックを握り締めた。

「一度は全て諦めた俺だから。エリアスのように、この場所が新しい人の希望になるのなら、俺はその導となろう。それが人々から希望を奪った俺の償い。かつて英雄と呼ばれ、今ではただの人殺しと成り果てた俺の・・・・・・」

 海からひやりと風が吹く。

 夕日に染まった白亜の街は、彼の決意を受けて赤く、生命の息吹に燃えていた。




 その後、マスター主導の下、神殿の再建が行われた。

 最初はたった数人で始められた事が、次第に賛同者を増やし、街を挙げての事業へと発展するのにそう時間はかからなかった。

 こうして、神殿の再建という目的と希望を取り戻した人々の手によって、街は一気に活気を取り戻したとは伝え聞く話。


『私の魂は丘に眠る英雄とともに』


 これはエリアスが残したスケッチブックの最後のページに書かれた一節だ。

 後で知ったことだったが。酒場のマスターの名前はヘルクレスというらしい。

 エリアスのスケッチを元に再現された英雄の彫刻像は、あの伝説の英雄と同じ名前を持つマスターとそっくりな顔をしていることだろう。

 久しぶりに聞いた街の噂話に、バゼットは遠く別の地で、夕日に染まった白亜の、燃えるような美しさに思いを馳せる。

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます。


以下は雑文なので、読み飛ばしていただいても大丈夫です。

この話は三つのキーワードから物語を考える三題話ですが、昔すぎて「白い」以外のキーワードは忘れました。

昔途中まで書いて、うまくまとめられずにそのまま放置していたものをもう一度書き直したものです。


バゼットくんシリーズは第四弾です。

と言ってもそれぞれの話につながりはなく、一話完結なのでどこから読んでもらっても楽しんでもらえると思います。

今回の舞台はギリシャ。白亜の建築物の町並みが赤々と夕日に染まる、躍動感に胸が高鳴りますね。

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