第十八話 選択
目を覚ましたルビーは、前に目覚めた時よりも随分と気分が良くなった事に安堵の息を吐いた。しかし、何日も床に臥していたお陰で、随分と体力が落ちている事にため息をついた。
三日間も意識が戻らず、ようやく目を覚ましたばかりだと聞いた。わかっていたとは言え、ここまで弱っていたとは思わなかった。
ルビーは元々身体があまり丈夫でないのも手伝って、華奢な身体だ。皇女であるために力仕事をした事がない。しかし、侍女になり下女に落とされ、慣れない仕事…それも重労働ばかりで酷使された体は、既に限界寸前だった。そこへ王宮にいる人達からの精神的ストレスも加わり、ボロボロの状態だった所に今回の熱だ。
寝込んでも仕方がなく体力が落ちているのも当たり前なのだが、ルビーはそれでも溜まりに溜まっているであろう仕事を思い、もう一度息を付く。
そして、仕事へ戻った時には言われるであろうマルスからの激しい叱責と、冷たい侮蔑の目を考えてルビーは身震いをした。
ルビーは何故ここまでマルスに疎まれているのか、今もなおわからない。
先王マキディエルの喪が明け次第、ヴァシュヌ王家と婚姻を結びたいとマルスから書簡を通して、突然の申し込みがあった。
『婚約していた娘は不幸な死を遂げてしまった。新たに正妃を迎えねばならないと考えた所、自分は是非ともヴァシュヌから妻を迎えたい。然るに当たっては、ヴァシュヌ王家の第二皇女と婚姻を認めて欲しい』
そう書簡には認められていたらしい。
それに対して、グレイプニルとフレデリックは、年の離れたマルスにルビーを娶らせる事など猛然と抗議した。それよりだったら、年の近いアビゲイルを嫁がせる方がいいのではと、暗にカーン側に打診してみたが、結果は思わしくなかった。そこまでルビーに執着する理由がわからなかったが、結局はアビゲイルを特使に立てて、ルビーを嫁がせる事になった。
アビゲイルは大使として既にカーンへ向けて出発しており、受け入れる側のカーン側も式の準備は整い、城下も華やかに祝賀ムード一色である。それを不安と期待が入り交じる中、どこか浮き足立つような、ふわふわとした感じで馬車の中から城下を見ていた。そうして、粛々と馬車はカーン王国の城に入った。
マルスの生母ミネルヴァからの歓迎の挨拶を済ませ、マルスが待っている部屋に通された時、ルビーの世界は一変した。
マルスはアビゲイルを隣に座らせ、面と向かってルビーに宣言したのである。
「私はアビゲイルに惚れた。君のような青白いだけの小娘にはなんの興味も無い。それに、アビゲイルから聞いたが、君は自国の親衛隊の男と婚約しようとしていたらしいな。しかも、その男は事もあろうに第一皇女であるアビゲイルの命令を断ったとか。臣下の分際で生意気だとは思わないか?そんな男と婚約間近だった君にもタカが知れると言うものだ。現に、ヴァシュヌではアビゲイルが国の貧困対策を指揮していて、君はただ遊んでいるだけだったんだろう?そんな子供はカーンの王妃に相応しくないな」
そう吐き捨てて、アビゲイルの手を取ったマルスの満足そうな顔と、不安げに、それでも幸せそうにマルスの隣に立って、微笑みかけながらルビーを見ているアビゲイルのその顔を覚えている。
そして、それをルビーは脇で呆然と見ているだけしかできなかった。
ルビーは本来ならば本国に送り返されることになるはずだったのだが、送り返すのも忍びないと姉から口添えがあった。
「大切な妹ですもの。私の側に居て欲しいんです。…無理にとは言いません。例えば…私専属の侍女…などはどうでしょうか」
「アビゲイルがそう言うのなら。おい、今からお前は皇女であっても、この国では我が王国の王妃、アビゲイルの侍女だ。その事を努々(ゆめゆめ)忘れるな」
そうして、ルビーは今侍女として、この国…そして王宮、それも後宮で働く事になった。
その時に浮かんだアビゲイルの笑顔。
満足そうな、それでいて何か楽しそうな、そんな笑顔だったのをぼんやりと見るとも無しに見ていた。
マルスが言っていた事…初めは何を言っているんだろうと思った。
フレッドと婚約なんてしていないし、そんな話も聞いていない。確かにフレッドとは一種の信頼関係みたいなものがあったけれど、それは恋愛感情ではなかった。グレイプニルの他にも頼れる兄のような存在だったのだ。
それに、フレッドがアビゲイルの命令を断ったと言うのも初耳だ。フレッドはルビーのどんな些細な命令も断らない。たまに小言をもらうけれども、それでも最後は結局叶えてくれた。それなのに、アビゲイルの命令を拒んだ。何を命令したのかはわからないけれど、王家へ絶対的な忠誠を誓っているフレッドが命令拒否をするなんて信じられなかった。
そして、貧困救済の件。アビゲイルは貧困層や孤児に見向きもしなかった。それとなく孤児院に一緒に行こうと誘ってみても、やんわり拒否されるのが常だった。皇女たる者がおいそれとそのような場所に行くものではないと言って。遊んでいたのは本当だ。だが、親を亡くした子供達に、広すぎる城の庭を解放して、一緒に遊んでいたのだ。勿論、遊具は自分達で作ったもので、たまに父から贈られる物があっても、それを全て孤児の子供達と分け与えていたのは自分だ。
何かが間違っていると思いながらも、不思議と涙は出なかった。
それからと言うもの、マルスはルビーを放蕩皇女と呼び、それは後宮内の女達に伝播していった。
考えに沈んでいると、寝室の扉が開いた。入ってきたのは、前に目を閉じる前に会ったグロアと言う医女だ。
彼女は本当に根気よくルビーを看病してくれた。たまにふっと意識を取り戻すと、必ず彼女が側にいてくれのでルビーは安心して眠れていたのだ。
「大分お加減もよろしくなってきたようですね。良かったです、アールマティ様も心配していらっしゃいますよ。早く元気になって下さいませ」
「ありがとう…あの…アールマティ様は…?」
「はい、ミネルヴァ様と隣の部屋にいらっしゃいますよ。お加減も宜しいようですから、お話なさいますか?」
まさかミネルヴァまでいると思わなかったルビーは、驚きで目を見開いた。
ミネルヴァは、ルビーがこの国にやってきた当初は王宮に住んでいたのだが、息子マルスとの様々な確執もあって、現在は離宮へと住まいを移している。
彼女がまだ王宮にいた時は、それほど目立って苛められると言うことはなかったのだが、ミネルヴァが王宮を出てからは、たがが外れたかの如く王宮にいる者達が一斉にルビーに牙をむいた。
そのミネルヴァにもいろいろと迷惑をかけたのだ、一言謝罪しなければ気が済まない。
「あの…もしもご迷惑でなければ…」
「迷惑だなんて!!お二人はとても心配してらっしゃったのですよ!あ、シャリヴァー殿下もですよ!!ただ、女性の寝室ですからね、今日は殿下には少し我慢してもらいましょうか。それでは呼んで参りますね!」
グロアが呼びに行った二人はすぐに寝室に入ってきた。憔悴しているような顔のアールマティと、少し、らしくもなく慌てた風のミネルヴァ。そんな二人を見て、ルビーは思わず視界がぼやけるのを感じた。
「この様な格好で申し訳ありません。お二人にはなんて感謝を申し上げたら良いのか…」
「気にしないでちょうだい!それよりも大丈夫?苦しくない?こんなに痩せて…可哀想に…。何かお腹に入れないと駄目ね。グロアに持ってこさせないと!」
「これアールマティ、少し落ち着け。そのように急いては、ルビー皇女も驚いてしまう。すまぬな、皇女。アールマティはそなたが心配でならんかった故、このように感情が高ぶっていてな。許せ。それより、ご気分は如何だ?」
正妃であるアールマティを身分が下であるミネルヴァに咎められても、「あらそうね」と言っているし、ミネルヴァ自身も咎めた事を別に気にしていないようだ。
そんな関係を不思議に思いながらも、ルビーは体を起こして二人をしっかりと見つめた。
「はい、随分と良くなりました。まだ少しフラフラしますが、仕事をするうちに何でもなくなります。本当にありがとうございます」
「…ルビー皇女…そなたは仕事なぞしなくてよいのだぞ?それに…今は下女まで落とされたと聞いたが?」
苦しそうに眉をしかめたミネルヴァは口元を、持っていた扇で隠した。
「そうよ、ルビー!貴女が下女…いいえ、下働きをする必要はないのよ!?貴女はヴァシュヌ王家の皇女なのでしょう。しっかりとその矜持を取り戻しなさい!それが出来るまで、この部屋を私の許可無く出てはいけませんよ。いいですね!?」
「え?お…お待ち下さい、アールマティ様!!私は…」
「返事はどうしたの、ルビー?口答えは許していませんよ?」
キッと睨んでくるアールマティに困り果てたルビーは、助けを求めてミネルヴァを見るが、彼女もまたルビーの味方ではなかったようだ。
「ルビー皇女、観念なさってアールマティの言うことに頷いておれ。そなたは体を厭ねばならぬ。文句を言う前に、まずはその身体を癒さねば」
「…そんな…」
「これは私…カーン国皇太后の決定ですよ、ルビー。黙って従いなさい。いいわね?」
「うんと頷いておれ。これからは、決して拙達がそなたを傷付ける事は許さぬと約束するからな」
ミネルヴァはそう言って、柔らかく微笑み、ルビーの頭を優しく撫でた。
信じられないわけではない。
だけれど、この国に来て苦しく悲しい事ばかりで、信じていた者達に裏切られ嘲笑されすぎたルビーは信じる事が怖かった。
何よりも悲しいのは、見向きもされない事だ。
好きの嫌いは反対じゃなく、無関心だとはよく言ったものだと今更ながらに感心する。
ヴァシュヌにいた頃は、その意味を知るともなく知っていただけ。
実際に自分の身におこると、苦しくて哀しい。誰もいないんだと嘆くだけの自分。そこから抜け出したくても抜け出せず、いつしか全てを諦めた。
救いなんてないし、誰も私の事なんて気にしない。
アールマティが発見しなかったら、きっと…いや、確実に行き倒れて死んでいただろう。それも、亡骸は無造作に、どこかへ棄てられていたはずだ。マルスやアビゲイルが目にする前に、秘密裏に。
秘密と言ったって、私に価値はないのだから、マルスが気にかける事など無かっただろう。
ただ、城の庭を汚されたという事実だけを見て、憤慨するだけだろう。
きっとそうだ。
この誰も知らない、冷たい国で誰にも知られずに死ぬのだろうとすら思っていたのだ。今更自分がヴァシュヌ王家の皇女だと言う矜持を取り戻す事に、何か意味はあるのだろうか。
だが、そんな考えを許さないと言うかのように、目の前の皇太后と国の生母は強い光を湛えて、自分を真っ直ぐ見つめている。
まだ信じる事は怖いし、希望を見つける事が出来ない。
それを手にする前に失う怖さと悲しさを知っているから。
だがしかし、少なくともこの二人はマルスの命に逆らって、自分を助けてくれた。
それを信じてもいいのではないのだろうか。
そう考えて、ルビーはようやく首を縦に振る。アールマティやミネルヴァは知らなかったが、それは、カーンに来てから誰も信じられなくなっていたルビーが…全てを諦める事しか出来なかった彼女が、再び自らの意志で決断を下した瞬間だったのである。