第十七話 生母ミネルヴァ
急いでミネルヴァの自室へ向かったアールマティとミネルヴァは、応接室でうなだれているシャリヴァーを見て、ルビーの容態が相当良くないと判断する。
今は医女であるグロアが看ているが、予断ならない状態のようだと聞き思わず天を仰いだ。
「そんなに悪いのか…?」
「それだけじゃないんです。どうも皇女は直前に頬を殴られています。それに足も捻挫しています。それから来た熱もあるんだろうとグロアが。元々あまり身体が丈夫でないようですので、それも手伝って今回の事が多大な負担になっているんでしょうと」
「…殴られた?」
「一国の皇女に手を上げても何も咎めがないなんて…。一体この城はどうなっているの」
アールマティが椅子に沈み込む様子を見て、ミネルヴァは自分の記憶にあるルビーを思い出していた。
この国に来た時には期待と不安で、どこかぎこちなかった笑みだったが、一生懸命ミネルヴァに付いていこうとする彼女を可愛らしく思っていたのだ。
それなのに、式直前になって言い渡されたのは、王妃になるのはルビーではなくアビゲイルだと聞かされた時の、彼女が衝撃を受けた表情が忘れられない。
泣くでもない、かと言って喚くわけでもない。只ひたすら混乱していた彼女は、ただ黙って自分が歩むはずだったヴァージンロードを進む姉、アビゲイルを呆然と見ていた。
それからルビーへの扱いは一変した。皇女を帰国させなかったばかりか、侍女として使うと言ったアビゲイルの神経を疑った。
それも、側妃達や侍女達から罵詈雑言を投げつけられる妹をその場では慰めておきながら、どうしてかそのまま悪意ある女達を重用していたため、一向にルビーに対する悪意がなくなる事がなかった。
その時点でミネルヴァは、アビゲイルがルビーに抱く憎悪を嗅ぎ取っていた。
しかし、王妃となってからというもの、アビゲイルの権力への執着は計り知れなくなっていた。すでにマルスを懐柔していたアビゲイルは、それを幸いとばかりに、後宮内での支配権を完全に掌握。マルスの母であるミネルヴァの発言は、アビゲイルによってもみ消された。業を煮やしたミネルヴァは、マルスに直談判をしに行ったのだが、全て黙殺された。
それではとルビーを自分の侍女にしようとすると、今度はルビーの立場を逆手に取られた。そうしたやり取りを続けているうちに、ルビーの顔から表情の一切が消えた。
結局、彼女を助ける事が出来なかった。
離宮に移ってからも、考えるのは自分が何も出来なかったルビーがどうしているだろうかという事だった。
鬱々と考えている時に、ヴァシュヌからあの男がやってきた。
美しいのに、 真っ黒な獄炎を纏うあの男が。
「ルビー様を救い出す為には、ミネルヴァ様、貴女のお力が必要です。アールマティ皇太后がおられぬ今、ミネルヴァ様しか頼る術がございません」
「おぬし、それを妾に言うのか。マルスの母である妾に」
「…わかっておられるのでょう。民の声は最早大きくなるばかりで、無くなることはないと。」
「………」
「マルスは既に王に非ず。王妃を甘やかし、機嫌を取ることしか出来ぬ単なる愚者に過ぎない。現実を認めて下さい、ミネルヴァ様。このままではいずれにせよ、この国は沈む。それが遅いか早いか、民の手で討たれるか、官の手により廃されるか、軍が反乱を起こすか…」
「おぬしっ!まさか焚き付けておるのであるまいな!?」
卓を扇で叩く。
微動だにしない目の前の男が小憎らしい。
「焚きつけるも何も…。既に火種はそこここにありますよ。気付いておられないのですか?我らヴァシュヌが食糧から輸出を止めたのは報復措置からとお思いでしたか?そんな簡単な話ではありませんよ、ミネルヴァ様」
酷薄に笑った男に寒気がしたミネルヴァは、寒くもないのにも関わらず、思わず腕をさすった。
「食糧を得るためだったら何でもすると言う奴らがいるんですよ。特に、飢えて、それでも蔑ろにされている中間層以下の民達が。王宮にいる飢えた事など無い奴らや搾取する事に慣れてしまった上流階級の人間にはわからない、その向けられている憎しみが。火が点けば、あっという間に全土まで燃え広がりますでしょうね。その憎悪の対象が誰にあるのか、ミネルヴァ様でしたからおわかりになるでしょう?」
「…マルスか…」
力無く呟く。
それをさも嬉しそうに男が微笑んだ。見るものを虜にするような笑みだが、この男の笑みはそんな生易しい物ではない。人外すぎて、気味が悪い。
「ミネルヴァ様に是非とも、反体制派の急先鋒になってもらいたいと思っています。貴女にしか頼めません。ヴァシュヌ王ポイニクス、並びに次王グレイプニルの代わりにお願い申し上げます。どうか、ルビー様をお助け下さい」
そう言って頭を下げた男をぼんやり見ていた。
自分の頭に過ぎる、ルビーの窮状。アビゲイルの懐妊が伝わり、今や下女に落とされたと聞き及んでいる。あれ以上されると、本当にルビーは、遅かれ早かれ、限界を迎えるだろう。
それに
離宮まで来て、この国の惨状がよくわかる。
耕されていない田畑に、燃え落ちそのままの状態の家屋。浮浪者、孤児、犯罪者。
自慢の息子のはずだった。
マキディエルの風貌を受け継いだ端正な顔、果断な決断力、勇猛果敢な闘争力。
それが全てカーンを発展させるのではなく、腐敗させているだけなんて。
何よりも腹立たしいのは、そんな息子を諫められなかった自分だ。
自分の不甲斐なさに腹が立つ。
ギリッと男を睨んだミネルヴァの目には、決心と覚悟の光が宿っていた。それを感じ取った男は満足げに笑んで、ミネルヴァに反体制派の頭となる事を了承させた。
「…一つ聞いても良いか?」
「何なりと」
「そちはルビー様をどう想うておるのだ?あぁ、主従関係は無しだぞ、野暮になるからな」
くすくすと笑ったミネルヴァに、困ったように笑った彼は、ルビー様には内緒ですよと妖艶に笑い、ミネルヴァを赤面させた。
「っ…!おぬしっ!無駄に色気を振りまくでない!」
「ああ、すみません」
「無意識か、全く質が悪いな。しかし…そちのような男に思われる女は大変だ。妾は不憫に思うぞ。なぁ、フレデリック」
「ふっ。それは私への褒め言葉と受け取っておきますよ」
穏やかに注ぐ陽の光を受けた二人は、忍びやかに笑った。
「ミネルヴァ?」
はっと我に返り、アールマティを見ると、寝室から出てきた医女が深刻そうな顔で説明を始める所だった。
慌ててそれを促すと、どうやらルビーは肺炎の一歩手前まで病状が悪化していて、後少し発見が遅れたら命に関わっていただろうとの事だった。捻挫をしていた足首と、殴られ腫れていた頬の治療も済ませたが、慢性的な疲労と、極度の欠食により決して彼女の状態は良くない。しばらくは目を覚まさないだろうと。
「いつ意識が戻るかわからないのか…」
「この城ではなく妾の離宮に移してあげたいのだが、そのような状態では…」
「動かすのも危険でしょうね。特に離宮は王宮から少し離れているし」
「大丈夫です。きっとルビー様は元気になります!」
暗い雰囲気になった三人だが、グロアが明るい声で皆を励ます。
ふふっと笑ったミネルヴァは、その明るい声に少しだけ救われた感じがした。