第十三話 雷鳴
すでに雨は本降りになってきた。四阿の外では、ざあざあと雨音が聞こえ、時折雷も遠くで鳴っている。
その喧騒から切り取られたかの様に静まり返った建物内では、ヴァシュヌの怒れる忠臣が尚も言葉を続けていた。
「ルビー様をあのような下女と言う立場に追いやったのは、あの女です。マルス王を上手くたぶらかし、後宮を乗っ取った。それも、自分があたかも被害者面をして。全く反吐が出る」
そう吐き捨てたフレデリックは、心底憎々しげにその秀麗な顔を歪め、そのまま目線を水滴が踊る外へと向けた。
アールマティは、いくらなんでも言葉が過ぎると思った。
ルビーを思う気持ちは痛いほどに分かる。だが、アビゲイルとてヴァシュヌ王家の第一皇女である。いくら妹を差し置いて王妃になったとて、臣下であるフレデリックがそこまで言うのは不遜だ。
そう思ったのは、アールマティだけではなくシャリヴァーもだった。
フレデリックの言はどこか矛盾している様に思えるのだ。確かに、シャリヴァー自身の僅かに残る記憶を辿れば、あの妖精のようなルビー皇女が自分の国の王宮で虐げられているのは不憫でならない。
ヴァシュヌ王ポイニクス譲りの赤紫の瞳も、王妃ウンディーネによく似た空色の長い髪も覚えている。
本当に小さい頃にしか会った事はないが。
シャリヴァーは第二皇子と言う比較的自由な立場を利用して、何年かカーン王国を離れて製鉄業が盛んな国へ留学し、自ら行う事になる製鉄業等の勉強をしていたのだ。
だからルビーに会った事があるのは片手で足りる程だ。だが、その少ない時間でも、ルビーの幼さは確かに可愛らしかった。
アールマティがシャリヴァーと同じく、当時の記憶を辿れば、マルスはその当時から軍に所属していたのでルビーと会うのは出迎えの時か、晩餐会の時だけだった気がする。それ故に、彼女の人柄を知る事がないのだろう。
ポイニクスとウンディーネ、それにグレイプニルの愛情を一心に受けたルビーは、素直で優しく聡明、そして何より美しかった。人格者と名高いウンディーネと一緒になって孤児院を訪問していたし、子供目線ではあるが、しっかりとした見識を持っていた。
カーン国へ見聞を広げると称してたまに遊びに来ていたルビーは、その当時からくるくると遊びまわる妖精の様な愛らしさと、その見かけを裏切るおてんばぶりを発揮し、それにアールマティも加わり日が暮れる頃には二人よれよれの格好になって、よく女官長に小言を言われていた。
そんな時にも、この男は付いていたはずだ。ルビーのくしゃくしゃになった髪を梳いてやり、優しく諫めていたのは他ならぬこの男だった。
ルビーと目線を合わせるように膝を付いた彼は呆れたような顔であったが、その直後にルビーに謝られ、苦笑しながらもしっかりと手を繋いで王宮内へと戻って行く時、確かに二人は笑っていた。
それこそ、危うい位に。
だが、その聖域とも呼べる二人の間には決して入る事は出来なかった。
あまりに二人の信頼関係が構築されていたからこそ、踏み込むべきではないとアールマティは思ったのだ。
そんな事を思い出しながら、アールマティは記憶の中にある男の顔と、今現在目の前にいる男の顔とを見比べた。
ルビーの護衛をしていた当時から整いすぎた顔と、若輩ながらもヴァシュヌ王家親衛隊と言う肩書きはカーン国の有力貴族の令嬢や侍女達を浮き足立たせ、彼目当てに用もないのにルビーと会いたいと言う要望書が届いていた位だ。その事を教えてやると、苦笑しながらもはっきりと断った。
「私はルビー様を護る為に貴国に滞在している身ですから、ルビー様を差し置いて私が注目を浴びる等恐れ多い事です。申し訳ありませんが、ルビー様の御為とならぬのであれば、全てお断りさせていただきます」
そう言っていた彼は、今やもう冷ややかな態度を崩そうともしない。
あの時、くしゃりと笑った顔は今のそれと比べると大分若い。そして、今や感じる事の出来ない温かさがあった。
それなのに
本当に同一人物なのだろうかと思う位に、フレデリックは変わった。
年を重ねて行くに従い、身に付けたのであろう艶。若い令嬢だけではなく、夫人方まで籠絡出来そうな色気。きっと、彼の微笑み一つで女は堕ちる。だが、その瞳は誰も見ていない。
圧倒的な絶対零度。
ルビーを失った事が彼をここまで冷たくさせたのかと思うと、寒気がした。
もしもこのまま、ルビーをあの王宮に置いておくような事があったら、きっとヴァシュヌは戦争を起こしてでもルビーを取り返しに来る。
そして、彼女を救い出すのはフレデリック以外は有り得ない。
「貴方…どうしてこの国にいるの…先ほども言ったけれど、既にヴァシュヌとうちは国境が閉鎖されているでしょう」
視線をアールマティに戻したフレデリックの目には、先程のような炎は無かった。しかしそれは消えたのでなく、見えなくしているだけなのかもしれない。
「国境を閉鎖と言っても、カーン国側に渡る術はあります。ヴァシュヌに入る事は出来なくとも。皇太后様達も同じような事をしてこの国に入ったんでしょう?」
「…ああ、金でな…」
「金でも食糧でも。しかし最近は食糧が多いですね。今年は冷夏でしたからね、これから冬が来るのに蓄えらしい蓄えが無く、更に税も上がるとなれば、国境沿いでは否が応でもヴァシュヌからの物資が頼りになる。しかし、国境沿いの村や町は運がいい。むしろ悲惨なのは都市部です。農村部からの食糧は、富ある物に独占されてしまい、少ない物量でどうやってかこの冬を乗り越えねばならない。それに加え、最近では王都を中心に民が増加し、治安もますます悪くなっています。警邏も何ら意味を成さなくなっている現在、もはや瓦解は目の前」
「それなのに、マルスはアビゲイルの機嫌を取っているわけね…愚かとしか言いようがないわ…」
ぐったりとテーブルに肘を付いたアールマティを見て、グロアは心配そうに声をかけたが、大丈夫と言って断った。
まだ肝心な事を聞いていない。
「それで、貴方はどうしてこの国に?」
本題を切り出したアールマティは、しっかりと漆黒の目を見た。
フレデリックも居住まいを正し、アールマティ、そしてシャリヴァーをしっかりと見据える。
「我々はこの現状に、ただ手を拱いていたわけではありません。このままルビー様をあの魔殿に置く事は断じて許さない。既に事は始まっています、もう止まりませんよ、アールマティ皇太后陛下、並びにシャリヴァー殿下。」
「どういう事…?」
そう問うた刹那、眩く光り、バリバリと雷鳴が轟いた。どうやら近くに落ちたらしい。
未だにビリビリとした感覚が残る中、フレデリックは笑った。
邪心も何もない、先程の落雷の時のような眩いばかりの笑みだった。
「ルビー様を取り戻します。その為には、あの女を殺してでも取り戻します。例えそれが、ルビー様の悲しむことだとしても」