悪役令嬢の娘だから何ですの? 母が滅ぼした王国の王子に婚約破棄されました
婚約破棄ですか? では、王国を支えたものをすべて返していただきます の続編です。
前作はこちらから↓
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セレスティア・フォン・アルヴェインが世界各地を巡る旅に出てから、さらに十六年の歳月が流れた。
かつて彼女を悪役令嬢と呼んだ王国は、もう存在しない。
腐敗した王家は退位し、王宮は病院と学校へ姿を変え、搾取に苦しんでいた民は自分たちの手で新しい暮らしを築いた。
セレスティア自身も、帝国宰相として国の仕組みを整えた後、夫のユリウスとともに各国を巡った。
学校を建て、診療所を開き、飢饉に苦しむ土地へ新しい農法を伝えた。
彼女の名は、いつしか国境を越えて知られるようになった。
賢宰相。
救国の聖女。
銀の女公爵。
呼び名はいくつもあったが、セレスティア本人がもっとも気に入っていたのは、かつて敵がつけた呼び名だった。
悪役令嬢。
理不尽な命令に従わず、奪われたものを自分の手へ取り戻した女性。
今では、その言葉は侮辱ではない。
権力者の横暴に立ち向かう、強く賢い女性への敬称として使われていた。
セレスティアとユリウスには、二人の娘が生まれた。
姉の名はリディア。
母譲りの銀色の髪と青い瞳を持ち、数字と法律に強い少女だった。
妹の名はアリシア。
父譲りの黒髪と灰色の瞳を持ち、剣術と外交を得意としていた。
姉妹は仲が良かった。
性格も得意なことも違ったが、どちらが優れていると比べられても気にしなかった。
母が幼い頃から、繰り返し教えていたからだ。
「人の価値は、誰かに勝つことで決まるものではありません」
ある日、幼いリディアが尋ねたことがある。
「では、お母様はレオナルドという方に勝ったのではないのですか?」
その名は歴史の教科書に載っていた。
婚約者の功績を奪い、虚偽の断罪によって財産まで奪おうとした愚かな元王子。
彼の話は、権力を私物化してはならないという教訓とともに、学校で教えられていた。
セレスティアは娘の問いに、少し考えてから答えた。
「わたくしは、あの方と競争していたつもりはありません」
「でも、最後にはお母様が宰相になって、あの方はすべてを失ったのでしょう?」
「それぞれが、自分で選んだ道を進んだ結果です」
「では、お母様が何もしなくても、あの方は不幸になったのですか?」
「いいえ」
セレスティアは娘の目を見た。
「あの方がわたくしのものを奪おうとしたので、取り返しました。罪を隠そうとしたので、証拠を示しました。民を傷つけようとしたので、止めました」
「それは戦ったということでは?」
「そうですね」
セレスティアは微笑んだ。
「けれど、戦うことと、相手を不幸にすることは同じではありません。わたくしは自分と民を守っただけです。その結果、あの方は自分の行いに見合った責任を負いました」
「ざまぁ、というものですか?」
どこで覚えたのか分からない言葉に、ユリウスがむせた。
セレスティアはしばらく瞬きをした後、声を立てて笑った。
「ええ。世間では、そのように呼ぶそうですね」
それから十年後。
十八歳になったリディアは、帝国と隣接するルクシア王国へ留学していた。
ルクシア王国は、小さいながらも美しい国だった。
森と湖に囲まれ、希少な薬草や宝石を産出する。
しかし、国政には深刻な問題を抱えていた。
現国王は病弱で、王太子オスカーは遊び好き。
重臣たちは派閥争いに明け暮れ、地方では重い税に苦しむ民が増えていた。
それでも国が崩壊せずに済んでいるのは、帝国からの援助があったからだ。
その援助計画を作ったのはセレスティアであり、現在の運営を任されているのが長女リディアだった。
リディアが留学した目的は、王立学院で学ぶことだけではない。
援助金が正しく使われているかを調査し、必要であれば制度を改める。
それが彼女に与えられた役目だった。
もっとも、ルクシア王国の上層部はリディアを歓迎した。
彼女が有能だからではない。
彼女がアルヴェイン家の後継者だからだった。
広大な穀倉地帯。
世界各地につながる交易網。
帝国の財政を支える商会。
そして、数多くの国から尊敬されるセレスティアの名。
リディアと婚姻を結べば、ルクシア王国は今後も安泰だと考えられていた。
そのため、リディアは十六歳のとき、王太子オスカーと婚約した。
母と同じく、王子の婚約者となったのである。
婚約が決まった日、セレスティアは娘へ尋ねた。
「本当に、よろしいのですか?」
「はい」
リディアは迷わず答えた。
「オスカー殿下が国を良くしたいと願っているのなら、わたくしにもお手伝いできることがございます」
「願っていなかった場合は?」
「そのときは婚約を解消いたします」
「離れることが国を見捨てることになるとしても?」
リディアは少しだけ考えた。
「わたくし一人に支えられなければ存続できない国なら、仕組みから作り直すべきです」
セレスティアは満足そうにうなずいた。
「それをお忘れにならないでください」
「お母様と同じ失敗はいたしません」
「わたくしの失敗?」
「自分一人ですべてを背負い、愚かな方の失敗まで隠したことです」
セレスティアは胸を押さえた。
「娘の成長は嬉しいものですが、ときどき容赦がありませんね」
隣で聞いていたユリウスは笑いながら言った。
「あなたによく似ています」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
リディアは両親のやり取りを見て、穏やかに笑った。
あの日の彼女は、実際に婚約を解消することになるとは考えていなかった。
オスカーは決して愚かな青年ではなかった。
初めて会ったときには、国を豊かにしたいと熱心に語っていた。
「父上の代で広がった貧富の差を、私がなくしたい」
「それはすばらしいお考えです」
「リディア。私を支えてくれるか」
「もちろんです。ただし、わたくしの意見もお聞きくださいませ」
「当然だ。君の母上は世界でもっとも偉大な政治家だ。その娘である君の力を、私は尊重する」
少なくとも、その言葉は嘘ではなかった。
最初の一年、オスカーはリディアとともに勉強した。
会議にも出席し、地方を視察し、国民の声へ耳を傾けた。
リディアが提出する報告書も、最後まで読んでいた。
二人が協力して作った灌漑事業によって、干ばつに悩んでいた地方では収穫量が増えた。
王太子とその婚約者の功績として、二人の名が並んで発表された。
リディアは、この人となら国を良くできるかもしれないと思った。
ところが、成果が出始めるとオスカーの態度は変わっていった。
周囲の貴族たちが彼を褒めたからだ。
「さすがは殿下です」
「この国を救ったのは殿下でございます」
「殿下のお考えによって、民は豊かになりました」
最初のうち、オスカーは訂正していた。
「リディアと共同で考えた政策だ」
しかし、褒められる機会が増えるにつれ、訂正する回数は減った。
やがて彼は、リディアの名を口にしなくなった。
会議へ出席する回数も減った。
報告書も読まなくなった。
リディアが注意すると、オスカーは不機嫌そうに答えた。
「君が読んでおけば問題ないだろう」
「最終的に決定するのは殿下です」
「私が君を信用しているということだ」
「責任を押しつけているようにも聞こえます」
「なぜ、そのように悪く受け取るのだ」
オスカーはため息をついた。
「君は何でもできるのだから、少しくらい私を助けてくれてもよいではないか」
「わたくしは殿下を助けるために、こちらへ参りました」
「なら、私が楽をすることの何が悪い?」
その言葉を聞いた瞬間、リディアは母から教えられた話を思い出した。
最初は小さな仕事だった。
次に重要な判断。
最後には国全体。
支える者が黙って引き受け続ければ、支えられる者は自分が何もしなくても当然だと思い始める。
リディアは、それ以上オスカーの仕事を引き受けなかった。
彼女が補佐をやめると、問題はすぐに表面化した。
予算の承認が遅れる。
視察の日程が重なる。
必要な物資が届かない。
地方からの陳情書が、未開封のまま積み上がる。
そのたびにオスカーはリディアを責めた。
「なぜ先に処理しておかなかった!」
「殿下の署名が必要だからです」
「代わりに書けばよいだろう!」
「王太子の署名を偽造しろとおっしゃるのですか?」
「言葉のあやだ!」
「では、ご自分で署名してくださいませ」
正論で返されるたび、オスカーはさらに苛立った。
そこへ現れたのが、伯爵令嬢フローラだった。
フローラはリディアとは対照的な少女だった。
明るく、無邪気で、難しい言葉を使わない。
彼女はオスカーがどれほど間違えても責めなかった。
「殿下がお疲れなら、仕事なんて明日でよいではありませんか」
「そうだな」
「国よりも、殿下のお体のほうが大切です」
「君は優しいな」
「リディア様は厳しすぎるのです。愛する方には、もっと自由にしていただきたいと思わないのでしょうか」
オスカーは急速にフローラへ傾倒していった。
二人は授業を抜け出し、王都の商店で買い物をし、夜になるまで劇場で過ごした。
その費用は王太子の交際費として処理された。
当然、予算は足りなくなった。
オスカーはリディアへ命じた。
「アルヴェイン家から補填してくれ」
「お断りいたします」
「なぜだ?」
「交際費の上限は、殿下ご自身が承認されたものです」
「将来の夫が困っているのだぞ」
「遊興費を使い果たしたことを、困っているとは申しません」
「君は冷たい女だな」
「必要な支援と浪費を区別しているだけです」
「フローラなら、私の心を理解してくれる」
「では、フローラ様にお支払いいただいてはいかがでしょう」
フローラは泣いた。
「ひどいです、リディア様。わたしの家が、それほど裕福でないとご存じでしょう?」
「でしたら、身の丈に合った遊びをなさってください」
「お金がない者は楽しんではいけないとおっしゃるのですか?」
「自分で支払える範囲で楽しむべきだと申し上げています」
「難しい言葉で、ご自分を正当化しないでください!」
フローラは涙を流し、オスカーの腕へすがった。
オスカーは彼女を守るように抱き寄せた。
「謝れ、リディア」
「何についてでしょう」
「フローラを傷つけたことについてだ!」
「事実を申し上げただけです」
「君は、本当にあの悪役令嬢の娘なのだな」
部屋の空気が変わった。
オスカー自身も、口にしてから失言に気づいたらしい。
だが、リディアは怒らなかった。
静かに彼を見る。
「母のことを、悪役令嬢と?」
「歴史上、そう呼ばれていたという意味だ」
「どのような意味でお使いになったのですか?」
「それは……」
「理不尽な権力に立ち向かった女性、という意味でしょうか。それでしたら、母も喜ぶでしょう」
「違う!」
オスカーは焦りから、さらに声を荒らげた。
「国を一つ滅ぼした冷酷な女という意味だ!」
リディアは目を細めた。
「母が滅ぼしたのではありません」
「同じことだろう!」
「王家が自ら結んだ契約を破り、借金を返済できず、民からの信頼を失った結果です」
「君も、私に同じことをするつもりなのか?」
「同じこととは?」
「私に逆らい、国から金を引き揚げることだ!」
「わたくしは、まだ何もしておりません」
「まだ、だと?」
オスカーの顔に怯えが浮かんだ。
自分が失敗を重ねている自覚はあったのだろう。
それでも、行いを改めるのではなく、失敗を指摘する者の口を塞ごうとした。
「リディア」
彼は命令するように言った。
「今後、王家の許可なく帝国やアルヴェイン家へ連絡することを禁じる」
「理由をお聞きしても?」
「婚約者が王家の内部情報を外国へ流せば、国家の安全に関わる」
「わたくしは帝国から派遣された援助監査官でもあります」
「監査官の地位も返上しろ」
「王家に、その権限はございません」
「私は未来の王だ!」
どこかで聞いたことのある言葉だった。
母を苦しめた元王子も、同じ言葉を口にしていたという。
リディアは目の前の王太子を見つめた。
「殿下」
「なんだ」
「わたくしの母は、かつての婚約者へ何度も機会を与えました」
「それがどうした」
「報告書を渡し、事実を説明し、誤りを認めるよう求めました。それでも相手は変わらなかった」
「だから国を奪ったと?」
「いいえ。その方が、自分で国を手放したのです」
リディアは一礼した。
「殿下には、同じ道を歩んでいただきたくありません」
「私を脅すのか?」
「警告です」
「同じことだ!」
「脅しとは、不当な害を加えると告げて相手を従わせる行為です」
リディアは静かに答えた。
「契約を守り、ご自分の仕事をなさってくださいと申し上げることは、脅しではございません」
「もうよい! 出ていけ!」
「失礼いたします」
リディアは背を向けた。
扉へ向かって歩く彼女の背後で、フローラの甘い声が聞こえた。
「殿下。怖がることはございません。婚約さえ破棄してしまえば、あの方には何もできませんわ」
リディアの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
それから何事もなかったように部屋を出た。
廊下には、妹のアリシアが待っていた。
彼女は学院の制服ではなく、帝国騎士団の制服を着ていた。
姉とは違い、アリシアは留学生ではない。
帝国大使館の護衛官として、この国へ派遣されていた。
「全部聞こえていたわ」
アリシアは壁にもたれたまま言った。
「扉の外まで響いていましたか」
「あれだけ叫べば、宮殿の端まで聞こえるでしょうね」
「お恥ずかしいことです」
「姉様が恥じる必要はないわ」
アリシアは扉を冷たく見た。
「それで、どうするの?」
「一度だけ、正式な警告書を提出します」
「まだ機会を与えるの?」
「母も同じことをしたでしょう」
「そして、その機会を踏みにじられたわ」
「だからこそ、わたくしも手順を守ります」
リディアは微笑んだ。
「王家が自ら選んだ結果だと、誰の目にも分かるように」
アリシアは姉の顔を見つめた。
「姉様」
「何でしょう」
「今の顔、お母様にそっくりよ」
「嬉しい褒め言葉です」
リディアはその日のうちに、王家へ警告書を提出した。
王太子が公務を放棄していること。
援助金の一部が遊興費へ流用されていること。
帝国から派遣された監査官の職務を妨害したこと。
改善がなければ、援助契約を見直すこと。
証拠となる帳簿と、オスカー自身の署名が入った請求書も添えた。
国王は警告書を受け取った。
王妃も読んだ。
宰相も、財務大臣も確認した。
だが、誰もオスカーを止めなかった。
理由は単純だった。
王家は、リディアが婚約を解消するはずがないと考えていたからだ。
アルヴェイン家の令嬢が王太子に嫁ぐ。
それほど名誉なことはない。
どれだけ不満があっても、最後には受け入れる。
そしてセレスティアも、娘かわいさに援助を続けるはずだ。
彼らはそう信じていた。
リディアが警告書を提出してから、ちょうど一月後。
王立学院の卒業祝賀会が開かれた。
国内外から多くの貴族や大使が招かれ、大広間は華やかな衣装に包まれていた。
その中央で、オスカーがリディアを呼び止めた。
彼の隣には白いドレスを着たフローラがいる。
涙を浮かべながらも、その口元には抑えきれない笑みがあった。
会場の配置。
集められた証人。
得意げに胸を張る王太子。
そして、その腕へすがる令嬢。
歴史書の一場面を、雑に再現したような光景だった。
「リディア・フォン・アルヴェイン!」
オスカーが声を張り上げる。
「貴様との婚約を、ここに破棄する!」
広間に、驚きの声が広がった。
リディアは何も言わない。
ただ、王太子をまっすぐに見つめた。
オスカーは勝ち誇った顔で続ける。
「貴様は母親の権力を笠に着て、王家を脅迫した! 援助の打ち切りをちらつかせ、私を意のままに操ろうとした!」
「ほかには?」
「フローラを身分によって侮辱し、学院から追放しようとした!」
「まだございますか?」
あまりにも落ち着いた問い返しに、オスカーは一瞬だけ言葉に詰まった。
それでも、懐から書類を取り出した。
「さらに、貴様は帝国の監査官という立場を利用し、我が王国の情報を盗んだ! これは国家への反逆だ!」
リディアは静かに尋ねた。
「殿下。それで、わたくしをどうなさるおつもりですか?」
「アルヴェイン家の後継者としての権利を返上しろ」
「なぜでしょう」
「反逆者に、世界有数の領地と財産を持たせるわけにはいかない!」
「わたくしが返上した後、アルヴェイン家の財産はどなたのものに?」
「王家が管理する」
「こちらの王家が?」
「当然だ!」
リディアは周囲を見渡した。
「陛下も同じお考えでしょうか」
玉座に座る国王へ、すべての視線が集まった。
国王は落ち着かない様子で身じろぎした。
彼の手元には、一月前にリディアが提出した警告書が置かれている。
それでも国王は、息子を止めなかった。
「オスカーは次代の王だ」
国王は威厳を装って答えた。
「その判断は、王家の正式な意思である」
「そうですか」
リディアはうなずいた。
「では、婚約破棄を受け入れます」
オスカーの顔から笑みが消えた。
「待て」
「何でしょう」
「受け入れる、だと?」
「殿下が望まれたことでしょう?」
「謝罪はどうした!」
「わたくしに謝罪すべき行為があったのでしょうか」
「今、罪を説明した!」
「証拠は?」
「私が証人だ!」
広間のどこかから、小さなため息が聞こえた。
オスカーは気づかない。
「ひざまずき、自分の行いを謝罪しろ! アルヴェイン家の財産を王家へ差し出すと誓え!」
「お断りいたします」
「何だと!」
「婚約は破棄されました。もはや殿下の指示に従う理由はございません」
「婚約を破棄されても、王家へ仕えるのが臣下の役目だ!」
リディアは小さく笑った。
それは母によく似た、穏やかで冷たい笑みだった。
「殿下は、大きな勘違いをなさっています」
「何がだ」
「アルヴェイン家は、ルクシア王国の臣下ではございません」
オスカーが口を閉じた。
リディアは帝国大使へ目を向ける。
大使が一歩前へ進み、正式な文書を掲げた。
「アルヴェイン家はグランフェル帝国の公爵家です。リディア様は帝国公爵家の後継者であり、皇帝陛下から任命された援助監査官でもあります」
大使の声が広間へ響く。
「他国の王族が、その財産と地位を没収する権限はございません」
「しかし、リディアは私の婚約者だ!」
「先ほど、ご自分で婚約を破棄されました」
「それとこれとは別だ!」
「いいえ」
リディアが答える。
「婚約に付随していた契約も、すべて終了いたします」
国王が立ち上がった。
「契約?」
「陛下」
リディアはわずかに首をかしげた。
「ご署名なさった契約を、お忘れですか?」
大広間の扉が開いた。
数十人の書記官が、帳簿と契約書を運び込んでくる。
その先頭に立っていたのは、黒い正装に身を包んだユリウスだった。
さらにその隣には、銀色の髪を結い上げた一人の女性がいる。
彼女が広間へ足を踏み入れた瞬間、誰もが息をのんだ。
十六年の歳月を重ねても、その立ち姿は少しも揺らいでいない。
かつて王国を支え、帝国を豊かにし、世界各地で改革を成し遂げた女性。
セレスティア・フォン・アルヴェイン。
伝説の悪役令嬢が、娘の婚約破棄を見届けるために現れた。
オスカーが青ざめる。
「なぜ、あなたがここに……」
「娘の卒業祝賀会ですもの」
セレスティアは優雅に微笑んだ。
「母親が出席してはいけませんか?」
「これはルクシア王国の問題だ!」
「ええ。ですから、口を挟むつもりはございません」
セレスティアは娘へ視線を向けた。
「リディア」
「はい、お母様」
「ご自分で片づけられますね?」
リディアは微笑み返した。
「もちろんです」
「では、わたくしは見守っております」
リディアが指を鳴らす。
書記官が最初の契約書を開いた。
「第一契約。リディア・フォン・アルヴェイン嬢とオスカー王太子殿下の婚約期間中、アルヴェイン家はルクシア王国へ年間二十万金貨の無利子援助を行う」
国王の顔から血の気が引いた。
「第二契約。アルヴェイン家は凶作時に小麦を市場価格の三割で提供する」
「第三契約。帝国はルクシア王国の国境防衛費の半額を負担する」
「第四契約。アルヴェイン商会は王国産の薬草および宝石を優先的に買い取る」
「第五契約。王立学院の運営費、奨学金および研究費の七割をアルヴェイン家が負担する」
契約が読み上げられるたび、会場の空気が重くなる。
生徒たちは自分たちの学費が安かった理由を知り、教師たちは研究費の出所を知った。
貴族たちは、王国の交易が成り立っていた理由を知った。
「以上の契約は、婚約の終了と同時に失効いたします」
書記官が告げる。
「なお、王家側の都合によって婚約が破棄された場合、支援金の未使用分を返還することが定められております」
国王が震える声で尋ねた。
「未使用分とは、いくらだ」
財務官が帳簿を確認する。
「本来なら、十二万金貨です」
国王の顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
それを見たリディアは続ける。
「ただし、監査の結果、援助金から四十八万金貨が不正に支出されていることが判明しております」
「四十八万?」
国王が振り返った。
財務大臣が目をそらす。
「何に使ったのだ!」
リディアは一冊の帳簿を開いた。
「王妃殿下の宝飾品。オスカー殿下とフローラ様の旅行費用。王家主催の狩猟会。離宮の改装。そして、貴族への個人的な贈答品です」
王妃が立ち上がった。
「それは王家に必要な支出です!」
「援助金は飢饉対策、教育、医療および国境防衛のために提供されました」
「王妃が美しく着飾ることも、国家の威信に関わります!」
「村の診療所を閉鎖してまで購入する必要がございましたか?」
王妃は言葉に詰まる。
「北部の診療所は、三月前に予算不足で閉鎖されました」
リディアは淡々と告げた。
「その結果、治療を受けられなかった者が二十三名亡くなっています」
広間が静まり返った。
「一方、同じ日に王妃殿下が購入された首飾りの価格は、診療所十年分の運営費に相当します」
王妃は反射的に胸元を押さえた。
そこには、大粒の青い宝石が輝いている。
リディアの視線も、そこへ向けられた。
「現在お召しになっているものです」
人々の視線が一斉に王妃へ集まる。
王妃は首飾りを隠そうとした。
だが、隠せる大きさではなかった。
「こ、これは王家のものです!」
「援助金で購入されたため、返還対象です」
「私に外せと言うのですか!」
「ご自分でお外しになるのでしたら、そのように」
王妃が動かないのを見て、女性財務官が一歩前へ出た。
「こちらで回収いたしましょうか?」
「触らないで!」
王妃は慌てて首飾りを外した。
宝石を机へ置くと、広間のあちこちから冷たい失笑が漏れた。
フローラがオスカーの腕を引いた。
「殿下、何とかしてください」
「分かっている!」
オスカーはリディアをにらむ。
「王家は婚約を破棄したが、国同士の援助は続けるべきだ!」
「なぜでしょう」
「ルクシア王国が困るからだ!」
「その原因は、援助金を浪費した王家にございます」
「罪のない民を見捨てるのか!」
リディアの表情から、わずかに笑みが消えた。
「民を人質になさらないでください」
「何だと?」
「援助は王家を通さず、地方自治体と救済組織へ直接届けます。食料、医療、教育への支援も継続いたします」
国王が目を見開く。
「では、今までどおりではないか」
「いいえ」
リディアは国王を見た。
「王家と、王家に協力した貴族への支援だけを打ち切ります」
その言葉が意味するところを理解し、王族たちの顔が凍った。
民の暮らしは守られる。
困窮する村にも食料は届く。
学院の生徒も学び続けられる。
一方、援助金を自分たちの金だと思い込んでいた王家だけが、すべてを失う。
国王は声を震わせた。
「我々に、何も残らないではないか」
「返還すべき四十八万金貨が残っております」
「借金ではないか!」
「その借金を作ったのは王家です」
「私たちは王族だぞ!」
オスカーが叫ぶ。
「国民のために働いている王族へ、豊かな生活を提供するのは当然だ!」
リディアは帳簿を閉じた。
「では殿下に、お尋ねいたします」
「何だ」
「北部の診療所が閉鎖された件について、どのような対策をお取りになりましたか?」
オスカーの口が止まる。
「報告書が届いていなかった」
書記官が一通の封書を取り出した。
「殿下の受領署名がございます」
「読んでいなかったのだ!」
「南部の洪水被害については?」
「担当の大臣に任せた!」
「国境警備隊の給与が、二月遅れていることは?」
「今、知った!」
「凶作に備えた小麦の備蓄量は?」
「そのような数字を王太子が覚える必要はない!」
リディアは小さくうなずいた。
「国民のために働いているとおっしゃいましたが、具体的に何をなさったのでしょう」
「私は王太子だ!」
「それは身分であり、仕事ではございません」
広間から笑い声が漏れた。
「笑うな!」
オスカーは周囲を怒鳴りつける。
しかし、誰も笑いをやめなかった。
リディアは彼へ近づいた。
「殿下は、わたくしの母と同じことをするつもりなのかと尋ねましたね」
「それがどうした!」
「わたくしは、お母様と同じにはいたしません」
オスカーの顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
だが、リディアは続けた。
「母は十年間も耐えました」
青い瞳に、冷たい光が宿る。
「わたくしは最初の警告を無視された時点で、すべての準備を終えております」
大広間の扉がもう一度開いた。
今度は王国の法務長官、騎士団長、地方領主たちが入ってくる。
その手には、王家による援助金流用の証拠があった。
さらに、フローラの実家である伯爵家の家令が連れられてくる。
フローラの顔色が変わった。
「なぜ、あなたが……」
家令はリディアの前へひざまずいた。
「フローラ様のご指示により、王太子殿下から受け取った宝石を売却し、伯爵家の借金返済へ充てました」
「嘘よ!」
「売却記録と領収書がございます」
「お父様が勝手にしたことです!」
「フローラ様ご自身の署名がございます」
「偽物よ!」
「では、筆跡鑑定を行いましょう」
「必要ありません!」
フローラは叫んでから、自分で失言に気づいた。
広間に失笑が広がる。
オスカーはフローラから腕を離した。
「私が贈った宝石を売ったのか?」
「違います、殿下!」
「大切にすると言ったではないか!」
「伯爵家に借金があったのです!」
「私を利用したのか!」
「殿下だって、わたしを利用したでしょう!」
フローラは声を荒らげた。
「リディア様を嫉妬させるために、わたしを連れ歩いていたではありませんか!」
広間が静まり返った。
リディアはオスカーを見た。
「わたくしを嫉妬させるため?」
「ち、違う!」
フローラはもう止まらなかった。
「婚約破棄をちらつかせれば、リディア様が泣いて謝り、以前のように仕事も全部引き受けるとおっしゃったでしょう!」
「黙れ!」
「王家の援助を増やさせた後、わたしを側妃へ迎えると約束したではありませんか!」
「黙れと言っている!」
「王になれば、法律など好きに変えられるとも!」
オスカーがフローラへ手を伸ばす。
その前に、アリシアが彼の腕をつかんだ。
「そこまでです、元王太子殿下」
「元王太子?」
「はい」
アリシアの背後で、王国の法務長官が文書を掲げた。
「援助金の不正流用、監査妨害、他国公爵家の財産強奪未遂、虚偽告発、および王権の私的利用が確認されました」
国王が叫ぶ。
「待て! まだ罪は確定していない!」
「陛下」
法務長官の声は冷たかった。
「王家が一月前の警告書を黙殺した記録もございます」
「それは……」
「陛下と王妃殿下も、不正を知りながら放置なさいました」
国王は周囲を見渡した。
しかし、助けようとする者はいない。
地方領主たちはすでに王家から距離を取っていた。
騎士団長も国王ではなく、法務長官の隣に立っている。
「国に援助をもたらす人物から財産を奪おうとした上、飢饉対策の資金を浪費した王家へ、これ以上国政を任せることはできません」
法務長官が宣言する。
「貴族議会は、オスカー殿下の王位継承権剥奪、および国王陛下の統治権停止を決議いたしました」
国王の膝が崩れた。
王妃は宝石のなくなった首元を押さえ、声にならない悲鳴を上げる。
オスカーはリディアへ手を伸ばした。
「待ってくれ!」
リディアは一歩退いた。
「婚約破棄は取り消す!」
「お断りいたします」
「今のは間違いだった!」
「間違いではございません」
「何?」
「殿下は準備を整え、大勢を集め、わたくしへ虚偽の罪を着せました。衝動的な間違いではなく、計画的な選択です」
「フローラに惑わされていたのだ!」
「まあ」
リディアはフローラを見る。
「今度は、愛した女性へ責任を押しつけるのですか?」
「愛してなどいない!」
フローラが振り返った。
「何ですって?」
「お前など、リディアを従わせるために利用しただけだ!」
「わたしも、あなたが王太子だから近づいただけよ!」
「この詐欺師!」
「無能!」
「金目当ての女が!」
「わたしがいなければ、婚約破棄の計画すら思いつかなかったくせに!」
つい先ほどまで寄り添っていた二人が、互いを罵り始める。
リディアはその光景をしばらく眺めた。
やがて、母へ尋ねる。
「お母様」
「何でしょう」
「過去にも、このような光景がございましたか?」
セレスティアは遠い記憶を振り返るように、目を細めた。
「驚くほど似ています」
「歴史から何も学ばなかったのですね」
「教科書へ載せるだけでは、足りなかったようです」
「次の版では、文字を大きくいたしましょう」
広間に笑いが起こった。
オスカーが怒りに震える。
「私を笑うな!」
「殿下」
リディアが呼びかける。
オスカーは彼女を見た。
「わたくしは、あなたを笑っているのではございません」
「ならば、何だ」
「憐れんでおります」
オスカーの顔が引きつった。
「母を陥れた元王子の話を学びながら、まったく同じ道を選ばれたのですから」
「私はあの男とは違う!」
「そうですね」
リディアはにっこりと笑った。
「母の元婚約者は結末を知りませんでしたが、殿下は結末まで知った上で同じことをなさいました」
広間から、本日もっとも大きな笑いが起こった。
オスカーは何か言い返そうとした。
けれど、言葉が出てこない。
リディアは彼へ最後の一礼をした。
「婚約を破棄してくださり、感謝いたします」
「待て!」
「これで殿下の後始末に使っていた時間を、国民を助けるために使えます」
「私は変わる!」
「変わる機会は、すでに差し上げました」
「もう一度だけ!」
「一度目を無駄になさった方が、二度目だけを求めるのは不思議ですわね」
「リディア!」
「わたくしの名を、気軽にお呼びにならないでくださいませ」
リディアは母の隣へ歩み寄った。
オスカーは衛兵に拘束されながら、なおも叫んだ。
「私はお前の婚約者だったのだぞ!」
リディアは振り返る。
その表情には怒りも、悲しみもなかった。
「お二人とも、過去形を正しく使えるようになるのですね」
セレスティアが口元へ手を当てた。
アリシアはこらえきれず、声を立てて笑った。
リディアは母と妹とともに、大広間を後にする。
回収された宝石の並ぶ机。
泣き崩れる王妃。
床へ座り込む国王。
互いを罵り続けるオスカーとフローラ。
そのすべてを背後に置いて、三人は扉の向こうへ進んだ。
廊下へ出たところで、セレスティアが娘へ尋ねる。
「大丈夫ですか?」
「はい」
リディアは少しだけ考えた。
「心が痛まないと言えば、嘘になります」
オスカーが最初から愚かだったわけではない。
一緒に学び、国の未来を語り合った日々もあった。
彼が最後まで正しい道を歩いてくれるなら、リディアは隣で支えるつもりだった。
けれど、それはかなわなかった。
「かつてのお母様も、このようなお気持ちでしたか?」
「ええ」
セレスティアは娘の手を取った。
「期待を手放すことは、ときに相手を手放すことよりもつらいものです」
「わたくしの選択は、正しかったのでしょうか」
「その答えは、これからのあなたが決めることです」
「これからの、わたくしが?」
「今日の選択を正解にするような人生を、ご自分で築いてください」
リディアは母の言葉を胸の中で繰り返した。
婚約破棄は終わりではない。
人生を奪おうとする者から離れ、自分の足で歩き始めるための出発点。
母の物語がそうだったように、リディアの物語もまた、この日から始まるのだ。
廊下の窓から、朝の光が差し込んでいた。
夜通し続いた卒業祝賀会が終わり、新しい一日が始まろうとしている。
リディアは立ち止まり、母を見る。
「お母様」
「はい」
「一つだけ、お願いがございます」
「何でしょう?」
「わたくしを、悪役令嬢と呼んでいただけますか?」
セレスティアは目を瞬いた。
やがて、誇らしそうに微笑む。
「悪役令嬢リディア。これから、どちらへ?」
リディアは朝日に照らされた王都を見渡した。
救いを待っている民がいる。
直すべき制度がある。
返還させなければならない四十八万金貨もある。
やるべき仕事は、山ほど残っていた。
けれど、もう無能な王子の失敗を隠す必要はない。
誰かの功績として奪われることもない。
すべてを、自分の名と責任で成し遂げられる。
リディアは晴れやかに笑った。
「もちろん、請求書を届けに参ります」
その背後では、王家の財産を数える書記官たちの声が響き始めていた。
真実の愛は自由である。
婚約破棄も自由である。
けれど、どれほど美しい言葉を並べても、使い込んだ金が消えるわけではない。
そしてアルヴェイン家の女性たちは、決して請求を忘れない。
母から娘へ受け継がれたのは、広大な領地や莫大な財産だけではなかった。
理不尽へ屈しない意志。
誰かの努力を正しく評価する心。
民を守るための知恵。
そして、自分を粗末に扱う者へ笑顔で別れを告げる強さ。
その日、歴史に二人目の悪役令嬢が誕生した。
もっとも、彼女を悪役と呼んだ王家は、翌月には四十八万金貨の請求書を前に、それどころではなくなっていた。




