表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

異世界にジャージがない?ないなら作れば良いじゃない!〜転生令嬢はドレスを脱いで、ひた走る〜

作者: 棗 月雫
掲載日:2026/06/05

 ルミ・アルヴァレスは、社交界で評判の令嬢である。


 上位貴族の娘でありながら驕らず、誰にでも穏やかに微笑み、困っている者がいればさりげなく手を差し伸べる。


 今夜の舞踏会でもそうだった。


「まあ、ヘルミ様。お顔の色が優れませんわ。少し風に当たりましょうか」

「ルミ様……ありがとうございます」


 小柄な令嬢ヘルミの背を支え、ルミは人の波を避けるようにして壁際へ誘導した。

 重そうなドレスの裾を踏まないように、さりげなく自分の扇で周囲の視線を遮る。


 完璧な気遣い。完璧な笑顔。完璧な淑女。


 近くにいた貴族夫人たちが、感心したように囁く。

「アルヴァレス嬢は本当にお優しいわね」

「ええ。あれほど気配りのできる令嬢は、なかなかおりませんわ」


 ルミは微笑んだ。

 優雅に。

 淑女らしく。


 だが、心の中では叫んでいた。


 帰りたい!

 今すぐ帰りたい!

 この重いドレスを脱ぎ捨てて、だる着で床に転がりたい……。


「ルミ様? あの……大丈夫ですか?」

「ええ、もちろんですわ。ヘルミ様こそ、ご無理なさらないでくださいませ」


 にこり。

 完璧な笑顔である。


 だが内心は違う。

 腰が痛い。

 肩が凝る。

 コルセットが肋骨を締め上げている。

 靴が硬い。

 髪飾りが重い。


 あと、さっきから笑顔を貼りつけすぎて頬が引きつりそう。


 前世の自分なら、とっくに帰宅していただろう。

 ジャージに着替え、髪を適当に結び、買い置きのお菓子を抱え、床かソファに沈没していた。


 そう。

 ルミは転生者である。


 前世は二十代半ばの、ごく普通の会社員。

 休日はだいたいジャージでごろごろしていた。

 恋愛にもおしゃれにも縁遠く、気づけば「干物女」と友人に笑われていた人生だった。


 だから今世では頑張っている。

 上位貴族令嬢として、ちゃんとする。


 外ではきちんと笑う。

 気遣いもする。

 社交も頑張る。


 前世みたいに、モテないまま部屋で干からびる人生は避けたい。

 避けたいのだが。


 本当は、だる着でだらけたい。


「アルヴァレス嬢」

 低い声がした。

 振り向くと、黒髪の青年が立っていた。


 ウリヤス・リンドホルム。

 武門貴族の嫡男で、騎士団でも将来を期待されている青年である。

 背が高く、肩幅が広く、黒髪と鋭い目つきのせいで、黙って立っているだけで人が道を空ける。


 強面で無口。

 令嬢たちからは怖がられがちだが、ルミは知っている。

 彼は、見た目ほど怖い人ではない。


「少し休んだほうがいい」

「まあ、ウリヤス様。私は平気ですわ」

「平気な顔をしているだけだろう」

「……」


 ルミは一瞬だけ言葉に詰まった。

 鋭い。

 この人、妙なところで本当に鋭い。


「ご心配ありがとうございます。でも、ヘルミ様をお送りしたら少し休みますわ」

「ならいい」

 ウリヤスは短く答えた。

 それだけ言うと、すっと視線を外す。


 無愛想に見えるが、ルミには分かる。

 これは彼なりの気遣いである。

 だからルミも微笑んだ。

「ありがとうございます、ウリヤス様」

「……無理をするな」


 そう言って去っていく背中を見送りながら、ルミは小さく息を吐いた。

 無理をするな。

 その言葉が、今のルミには少しだけ胸に刺さった。

 無理をしている自覚はある。


 でも、無理をしなければならないと思っている。

 だって、今世ではちゃんとした令嬢でいたい。

 だらしない自分を見せたら、きっとがっかりされる。

 前世のように、恋愛対象外になるかもしれない。


 だから、頑張る。

 頑張るけれど。

 今だけは、本当に帰って寝転がりたい。



 舞踏会から帰宅したルミは、自室の扉が閉まった瞬間、淑女をやめた。


「つっ……かれたぁ……!」

 侍女がいないことを確認してから、近くの長椅子に崩れ落ちる。

 完璧令嬢ルミ・アルヴァレスは、そこにはいない。


 そこにいるのは、魂の底からだらけたい転生干物女である。

「ドレス重い……靴痛い……髪飾りが凶器……」


 ルミはもぞもぞと体を起こし、用意されていた部屋着に着替えた。

 上質な布。柔らかな手触り。繊細な刺繍。

 貴族令嬢の部屋着としては、申し分ない品だ。


 だが。

「違う……!」

 ルミは鏡の前で、拳を握った。

「これは違うのよ……!」


 布は柔らかい。見た目も上品。寝巻きよりは動きやすい。

 けれど違う。

 これは、床に転がるための服ではない。


 膝を立ててだらしなく座り、お菓子をつまみ、本を読みながらうとうとするための服ではない。


 いざとなれば軽く走れて、軽く伸びをして、洗濯にも耐え、着た瞬間に「ああ、もう今日は終わった」と魂が安らぐ服ではない。


 ルミは窓の外を見上げた。

 月が綺麗だった。

 異世界の夜空は美しい。


 でも、どれだけ月が綺麗でも、この世界には足りないものがある。

「ジャージがない……」

 呟いた瞬間、ルミは愕然とした。


 そうだ。

 この世界にはジャージがない。

 なぜ今まで気づかなかったのか。


 ドレス、礼服、乗馬服、寝巻き、室内着、騎士服、作業着。それぞれの服はある。


 だが、ジャージがない。


 動けて、くつろげて、だらけられて、そこそこ丈夫で、洗えて、上下揃いで、魂が油断できる服がない。


「ないなら……」

 ルミは立ち上がった。

 瞳に、決意の光が宿る。

「ないなら、作れば良いじゃない!」


 その夜、上位貴族令嬢ルミ・アルヴァレスは決意した。

 この異世界に、ジャージを生み出すと。



「走れて、寝転がれて、くつろげて、汗を吸って、でも上品に見える服、でございますか」


 翌日。

 アルヴァレス家と付き合いのある家族経営の商会で、長男のタフトが真顔で言った。

 その隣では、次男のヴォイマが腕を組み、長女のサナが帳面を抱えている。


 三人とも若いが、商才は確かだ。タフトは堅実、ヴォイマは行動派、サナは宣伝や意匠に強い。


 ルミは真剣に頷いた。

「ええ。上下揃いがいいのです。上は前を閉じられる形で、下は足が開きやすく、裾は邪魔にならないように。軽くて、できれば少し伸びて、洗いやすくて」

「お嬢様」

「はい」

「それは服ですか?」

「服です」

「寝具ではなく?」

「服です」

「訓練着でもなく?」

「訓練にも使えます」

「作業着でもなく?」

「作業にも使えます」

「では、用途は?」


 ルミは胸を張った。

「魂の避難所です」


 三人が黙った。

 タフトは商人らしい笑みを保ったまま固まり、ヴォイマは「魂……?」と呟き、サナだけが目を輝かせた。


「お嬢様、それはもしかして、新しい休息着ということでしょうか」

「そうです! 休息着! それです!」

「ですが、走れるのでしょう?」

「走れます」

「寝転がれるのでしょう?」

「寝転がれます」

「汗を吸うのでしょう?」

「吸ってほしいです」

「……淑女が汗をかく前提の商品なのですね」

「淑女だって汗くらいかきます」


 ルミが真剣に言うと、サナは帳面に何かを書き込んだ。

「新しいですわ」

「でしょう?」

「かなり奇妙ですが、新しいです」

「奇妙……」

「褒め言葉です」


 タフトが咳払いをした。

「しかし、上位貴族のご令嬢向けとなると、見た目も重要です。あまりに簡素だと、寝巻きか作業着に見えてしまいます」

「分かっています。上品な色にして、襟や袖に控えめな刺繍を入れましょう。けれど装飾過多は駄目です。動きづらくなるので」

「素材は、魔羊の細糸と森綿を混ぜれば、軽く仕上がるかもしれません。少し伸びる編み方を職人に試させます」


 ヴォイマが顎に手を当てた。

「汗を吸って、洗っても形が崩れにくい布か。面白いな」

「できますか?」

「難しいが、やる価値はあります」


 サナがにこりと笑う。

「商品名はどういたしましょう。お嬢様、その服にはどんな名前を付けるのですか?」


 ルミは一瞬だけ迷った。


 ジャージ。

 そう言いたい。


 だが、この世界の人に「ジャージ」と言っても通じない。

 しかも貴族向けに売るなら、もっと上品な名前がいい。


「表向きは……淑女の休息服、でしょうか」

「素敵ですわ」

「でも私は心の中でジャージと呼びます」

「じゃあじ?」

「魂の名です」

「なるほど?」

 サナは深く頷いた。


 たぶん分かっていない。

 だが、ルミは満足だった。



 最初の試作品が完成したのは、それから十日後のことだった。


 淡い藍色の上下揃い。

 上着は前を閉じられる形で、袖口は軽く絞られている。

 下衣は足を動かしやすいように作られ、裾も邪魔にならない。

 胸元には控えめな白い刺繍。


 ルミはそれを見た瞬間、感動に震えた。

「こ、これは……」


「いかがでしょう、お嬢様」

 タフトが緊張した面持ちで尋ねる。


 ルミはそっと布に触れた。

 軽い。

 柔らかい。

 少しだけ伸びる。


 完璧ではない。前世のジャージそのものではない。


 だが、これは間違いなく、この世界に生まれたジャージの第一歩である。

「素晴らしいです……!」

 ルミは感極まった。

「これです! これを待っていました!」

「では、まずお嬢様がお召しに?」

「いいえ」


 ルミはきっぱりと言った。

「最初に着るべき人がいます」



「私に?この服を?」

 女騎士シニは、藍色の服を見て目を瞬かせた。


 シニはルミの友人である。

 女性ながら騎士として活躍しており、凛々しく、背筋が伸びていて、剣の腕も確かだ。


 だが最近、彼女はこぼしていた。

 自宅で軽く鍛えたいのに、ちょうど良い服がない、と。


 騎士服は堅いし、重い。

 ドレスは動けない。

 寝巻きは論外。

 訓練着は大げさすぎる。


 その悩みを聞いた時、ルミは思ったのだ。

 これはジャージ案件だ、と。


「ええ。シニ様に試してほしいのです」

「ルミ、これは……なんというか、ずいぶん変わった服だな」

「動きやすさを最優先にしました」

「少々、だらしなく見えないか?」

「見え方は着る人次第です」

「淑女らしさは?」

「走れます」

「いや、淑女らしさは?」

「走れます」

「……」

「走れます」


 シニはしばらくルミを見つめたあと、ふっと笑った。

「分かった。君がそこまで言うなら試してみよう」


 しばらくして、着替えたシニが庭に出てきた。


 藍色のジャージ風休息服は、意外なほど彼女に似合っていた。

 騎士としての引き締まった姿勢と、服の軽やかさが合っている。


 シニは腕を上げ、足を動かし、軽く膝を曲げた。

「……軽い」

「でしょう?」

「腕が上がる。足も開く。布が邪魔をしない」

「でしょう?」

「走ってみても?」

「ぜひ!」


 シニは庭の端まで歩き、軽く地面を蹴った。


 次の瞬間、風のように走り出す。


 ドレスでは絶対にできない速度。

 騎士服よりも軽い足取り。

 髪を揺らし、藍色の服が朝の光を受ける。


 ルミは思わず両手を握った。

 走っている。

 ジャージが走っている。


 いや、シニが走っているのだけれど。

 感動である。


 庭を一周して戻ってきたシニは、頬を紅潮させていた。

「ルミ」

「はい」

「これは革命だ!」

「ですよね!」

「軽い。身体が動く。自宅で鍛えるには申し分ない。いや、軽い訓練にも使える」

「ですよね!」


「だがひとつ問題がある」

「問題?」


 シニは真剣な顔で言った。

「一着では足りない。もう一着欲しい」


 ルミは満面の笑みを浮かべた。

「お任せください!」



 噂は、思ったより早く広がった。

 最初は奇妙なものだった。


「シニ様が、上下揃いの不思議な服で庭を走っていたらしい」

「騎士服ではなくて?」

「訓練着でもないらしいわ」

「では何なの?」

「分からないけれど、とても速かったそうよ」


 貴族社会の噂は速い。


 まして、女騎士が新しい服で軽やかに走ったとなれば、興味を持つ者は多かった。


 そして次にルミを訪ねてきたのは、舞踏会で体調を崩していた小柄な令嬢ヘルミだった。

「あの、ルミ様」

「ヘルミ様。どうかなさいましたか?」

「シニ様がお召しになっていたという、軽い服のことなのですが……」


 ヘルミは申し訳なさそうに視線を落とした。

「私にも、作っていただくことはできますか?」

「もちろんですわ。運動用ですか?」

「いえ、その……私は身体が小さくて、ドレスが重くて動きづらいのです。夜会のあとは、歩くのもつらくて」


 ルミは、はっとした。

 そうだ。

 ジャージは運動着だけではない。


 部屋着でもある。

 くつろぐための服でもある。


 重いドレスに疲れた令嬢を救う服でもある。


「分かりました。ヘルミ様には、柔らかくて軽い休息用を作りましょう」

「休息用……」

「はい。淑女にも、休息は必要ですから」


 ヘルミはぱっと顔を上げた。

「……素敵です」


 数日後、薄い真珠色の休息服を着たヘルミは、鏡の前で言葉を失っていた。


 洗練された色。控えめな刺繍。柔らかな布。重くない裾。


 彼女は恐る恐る腕を回し、小さく歩き、最後にその場でくるりと回った。


「身体が……軽いです」

「苦しくありませんか?」

「はい。全然。あの、ルミ様」

「はい」

「これを着たまま、椅子に座ってもよろしいのですか?」

「もちろんです」

「足を少し伸ばしても?」

「もちろんです」

「刺繍をしても?」

「もちろんです」

「……少しだけ、寝転んでも?」


 ルミは力強く頷いた。

「最高です」


 ヘルミは両手で口元を押さえた。

「こんな服があってよろしいのですね……!」


 その反応を見て、ルミは悟った。

 これは売れる。


 いや、売りたいから作ったわけではない。

 自分がだらけたいから作った。


 だが、同じように苦しんでいる人は多いのだ。


 ドレスが重い人。

 騎士服ではくつろげない人。

 自宅で運動したい人。

 社交で疲れた後、魂を逃がす服が欲しい人。


 ジャージは必要とされている。



 商会三兄弟は、そこから本気になった。


「お嬢様、淑女向けは淡色と刺繍入りでいきましょう」

 サナが帳面を広げる。

「宣伝文句は『淑女にも、休息は必要です』で、どうでしょう?」

「いいですね」

「女騎士向けには濃色で、動きやすさを前面に出します。男性用も展開できますわ」

「男性用も?」


 ルミが驚くと、ヴォイマが布束を抱えて入ってきた。

「騎士連中も興味を持っています。軽い素振り用に欲しいそうです」

「騎士団に?」

「シニ様が広めました」

「シニ様……!」

「あと、商会の若い者が試着したら、休憩時間に脱ぎたがらなくなりました」

「分かります。脱ぎたくなくなりますよね」


 タフトは計算板を弾きながら、目を輝かせていた。

「これは大きな商機です。寝巻きでも礼服でも訓練着でもない、新しい市場です。お嬢様は天才です」

「いえ、私はただ、だらだらしたかっただけで……」

「その発想が民の暮らしを変えるのです」

「そんな大げさな」

「いいえ、大げさではありません。人は働き、鍛え、社交をし、そして休む。ですが、この国は休むための服を軽んじてきました」


 タフトは真剣だった。

「お嬢様は、休息に形を与えたのです」


 ルミは黙った。

 言っていることは立派だ。

 立派なのだが。


 心の中の前世の自分が、ジャージで寝転がりながら言っている。

 いや、ただのジャージだよ、と。


「お嬢様、いかがなさいました?」

「いえ……少し、自分の怠惰が美化されすぎている気がして」


「怠惰ではありません。休息です」

 サナがきっぱり言った。

「そうです。休息です」

 タフトも頷く。

「力を蓄えるには休息が必要です」

 ヴォイマも頷く。


 三人の目があまりに真剣で、ルミは訂正できなかった。

「では……休息ということで」


 こうして、ジャージは「淑女の休息服」として世に出ることになった。


 ただしルミだけは、心の中でずっとジャージと呼び続けた。



 その日、ルミは完全に油断していた。


 午後の茶会を終え、屋敷に戻り、侍女に頼んで予定をすべて終わらせた。


 父母は外出中。

 来客予定なし。


 つまり、自由。


 ルミは試作品の薄桃色ジャージに着替えた。

「はああああ……」


 体が軽い。

 布が柔らかい。

 袖が邪魔にならない。

 膝を曲げられる。

 肘もつける。

 最高。


 ルミは自室の絨毯の上に、ころんと転がった。

 前世を思い出す。


 これだ。

 これこそ休日。

 これこそ人間性の回復。


「私、今、生きてる……」


 淑女としては完全に終わっている姿勢だった。


 片肘をつき、クッションを抱え、足を少し投げ出している。

 髪もゆるくまとめただけ。

 お菓子の皿も近くにある。


 外では面倒見の良い完璧令嬢。

 家では干物。

 その落差たるや、我ながらすごい。


 だが今日は誰も来ない。

 だから大丈夫。

「お嬢様、リンドホルム様が――」


 扉が開いた。

 侍女の声がした。


 その後ろに、黒髪強面の青年が立っていた。

 ウリヤス・リンドホルムが。


「……」

「……」

「……」


 沈黙。


 ルミは床に転がったまま固まった。

 ウリヤスも固まった。

 侍女も固まった。


 終わった。

 ルミは思った。


 私の淑女人生が、今、床の上で終わった気がした。

「ち、違うのです!」

 ルミは跳ね起きようとした。


 しかし慌てすぎて、抱えていたクッションが足に絡まり、見事に転びかける。

「危ない」

 ウリヤスが一歩で近づき、ルミの腕を支えた。


 近い。

 顔が近い。

 しかも私はジャージ。

 いや、休息服。

 いや、やっぱりジャージ。


「も、申し訳ありません! これは、その、試作品で、決して普段からこのように床でだらだらしているわけではなくて!」

「そうなのか?」

「……」

「違うのか」

「違わないです……」


 正直に負けた。

 ルミは両手で顔を覆った。

「終わりました……」

「何が」

「私の評判です。淑女としての人生です。上位貴族令嬢ルミ・アルヴァレスは本日をもって終了です」

「なぜ?」

「なぜって……この姿を見たでしょう!?」

 ルミは自分の服を指した。

「こんな、だる……いえ、休息服を着て、床に転がって、お菓子まで用意して! だらしないにもほどがあります!」


 ウリヤスはしばらくルミを見つめていた。

 いつものように無表情で、何を考えているか分かりにくい。


 ルミの心臓が嫌な音を立てる。

 やっぱり呆れられたのだろうか。

 幻滅されたのだろうか。


 前世でもそうだった。

 ちゃんとしていない自分は、恋愛対象にならない。

 だらしない自分は、見せてはいけない。


 だから今世では頑張ってきたのに。

 ルミが俯いた、その時。


「楽そうだな」

「……はい?」

「その服だ」

 ウリヤスは真面目な顔で言った。

「楽そうだ」

「最初の感想がそれですか!?」

「他に何を言えばいい」

「もっとこう、淑女らしくないとか、幻滅したとか、あるでしょう!」


「幻滅?」

 ウリヤスは眉をひそめた。

「なぜ?」

「なぜって……私は外ではちゃんとした令嬢のふりをしているだけで、本当はこんなふうに家でだらだらしたい人間で……」

「知っている」

「はい?」

「薄々だが」

 ルミは固まった。

「知って……?」

「夜会の終盤、君は帰りたそうな顔をしている」

「顔に出ていましたか!?」

「ほとんど出ていない。だが、俺には分かる」

「なぜ分かるのですか!」

「見ているから」


 その一言に、ルミの声が詰まった。

 ウリヤスは淡々としている。

 けれど、その言葉は妙にまっすぐだった。


「君はいつも周囲をよく見ている。困っている者に気づく。自分が疲れていても、先に人を助ける」

「それは……上位貴族として当然のことで」

「当然でも、疲れるだろう」


 ルミは黙った。


「外で十分に気を張っているなら、家でくらい気を抜いていい」

「……でも、だらしないです」

「そうか?」

「そうです」

「俺には、安心しているように見える」


 ウリヤスの声は低く、穏やかだった。

「君が安心して休める場所があるなら、それは良いことだ」


 ルミは目を見開いた。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。


 前世からずっと、自分のだらしなさは欠点だと思っていた。

 ちゃんとできない自分。

 おしゃれを頑張りきれない自分。

 休日に何もせず、ジャージで寝転がる自分。

 そんな自分は、誰かに好かれるような人間ではないと思っていた。


 だから今世では、ちゃんとした。

 気遣いもした。

 笑顔も作った。

 でも、ウリヤスは言った。

 気を抜いていい、と。


「……ウリヤス様は、変わっています」

「よく言われる」

「普通、引きます」

「君は俺の顔を見ても引かない」

「それは、ウリヤス様が怖い方ではないと知っているからです」

「なら俺も同じだ」

「同じ?」

「君がだらしない人間ではないと知っている」


 ルミは言葉を失った。

「君は、休みたいだけだ」

 ウリヤスは少しだけ視線を逸らした。

「それに、その服は……悪くない」

「え?」

「動きやすそうだ。騎士の軽い鍛錬にも使える」

「使えます!」

 ルミは思わず身を乗り出した。

「本当に使えます! シニ様にも好評で、軽い運動には最適で、汗も吸いますし、洗えますし、上着も――」


 そこまで言って、はっとした。

 しまった。

 ジャージの話になると熱が入る。


 しかしウリヤスは、わずかに口元を緩めていた。

「俺の分はあるのか」

「え?」

「男性用も作っていると聞いた」

「あ、あります。試作品なら」

「なら、欲しい」

「着るのですか?」

「着る」

「本当に?」

「君が作ったものだろう」


 ルミの顔が熱くなった。

「それは、まあ、発案しただけで、作ったのは商会の皆様ですが」

「君の服だ」

「……そう言われると、照れます」

「それに」

 ウリヤスは少しだけ声を落とした。

「君と揃いになるなら、嬉しい」


 ルミは完全に停止した。


 揃い。

 おそろい。

 ジャージで。

 強面騎士様と。

 おそろいジャージ。


「ルミ?」

「……破壊力が強すぎます」

「何が」

「お気になさらず……!」



 淑女の休息服は、思った以上に売れた。

 最初は一部の令嬢や女騎士たちだけだった。


 だが、着た者は皆、同じことを言った。

「楽です」

「軽いです」

「もう夜会後はこれしか着たくありません」

「自宅で剣の素振りができます」

「刺繍をするとき、肩が凝りません」

「寝転がっても怒られませんか?」


 最後の質問には、ルミは毎回こう答えた。

「自室なら許されます」


 やがて男性用も広まった。

 騎士たちは軽い運動着として使い、若い貴族子息たちは自室着として気に入った。


 商会では、使用目的ごとに色や形を少しずつ変えるようになった。


 保守的な貴族からは、もちろん苦言も出た。

「令嬢がそのような簡素な服を着るなど、淑女らしくない」


 ある茶会で、年配の貴族夫人がそう言った時、周囲は静まり返った。


 ルミは微笑んだ。

 いつもの、完璧な笑顔で。

「もちろん、礼の場では礼にふさわしい装いをいたしますわ」

 彼女はゆっくりと言葉を続ける。

「けれど、淑女にも休息は必要です。重いドレスを脱ぎ、身体を休め、明日また背筋を伸ばすための時間が」

 夫人は黙った。

「それに」

 ルミは庭の方を見た。


 そこでは、藍色の休息服を着たシニが、軽やかに走っていた。

 ヘルミも真珠色の休息服で、ゆっくりと庭を歩いている。苦しそうではない。楽しそうに。


「淑女だって、走りたい日もありますから」

 夫人はしばらく二人を見つめていた。


 やがて、ぽつりと言った。

「……私の腰にも優しい休息服を、お願いできるかしら」

 ルミはにこりと笑った。

「もちろんですわ」



 数週間後。

 アルヴァレス家の庭に、ルミは立っていた。


 淡い雪色の休息服。

 いや、ジャージ。


 髪は動きやすいように結び、靴も軽いものに替えている。


 隣には、濃紺の男性用ジャージを着たウリヤスがいた。


 似合っている。

 悔しいほど似合っている。


 強面のせいで、訓練前の騎士にしか見えないが、それもまた良い。

「……本当に走るのですか?」

 ルミはそっと尋ねた。

「君が、走れる服だと言った」

「言いましたけれど」

「なら走る」

「私は、どちらかといえば寝転がる用途を重視していまして」

「五分だけだ」

「五分も?」

「五分だけだ」


 ルミは絶望した。

 前世の休日なら、五分走るくらいなら五時間寝転がっていた。


 しかし、ここで逃げるわけにはいかない。

 なぜならこの服は、走れる服として広まっているからだ。


 発案者が「走れません」では、少し格好がつかない。


「分かりました。五分だけです」

「終わったら休めばいい」

「寝転がっても?」

「構わない」

「お菓子も?」

「食べればいい」

「お茶も?」

「用意させよう」


 ルミは深く息を吸った。

「ウリヤス様」

「何だ」

「最高の婚約者ですね」

 言ってから、ルミは固まった。


 今、自分は何と言った。

 婚約者。

 まだ婚約者ではない。


 ただ、最近距離が近くて、商会の人たちにもシニにもヘルミにも「もう婚約間近では?」みたいな目で見られているだけで、正式にはまだ何も決まっていない。


「今のは!」

「聞いた」

「聞かなかったことにしてください!」

「無理だ」

「無理ではありません!」

「無理だ」


 ウリヤスは、ほんの少しだけ笑った。


 その表情は相変わらず分かりにくいけれど、ルミには分かる。

 彼は喜んでいる。


「では、走ろう。未来の婚約者殿」

「言い方!」

「違うのか?」

「違わない……かもしれませんけど!」

「なら問題ない」

「あります! 私の心の準備が!」

「走りながら整えればいい」

「無茶を言いますね!?」


 ウリヤスが走り出す。

 ルミも慌てて追いかけた。


 庭の朝露が光っている。


 ドレスでは絶対に走れなかった。


 コルセットもない。

 重いスカートもない。

 足が動く。

 腕が振れる。

 息ができる。


 ルミは走りながら、ふと笑ってしまった。


 前世では、ジャージはだらけるための服だった。

 誰にも見せず、休日にひとりでくつろぐための服。


 でも今は違う。


 この世界で作ったジャージは、女騎士を走らせた。

 小柄な令嬢を楽にした。

 商会の三兄弟を燃え上がらせた。

 騎士たちの訓練着になった。


 そして、ルミ自身を少しだけ自由にした。


 ちゃんとしていない自分も、愛されていい。

 だらけたい自分も、隠しすぎなくていい。

 そう思えたら、胸が軽くなった。


「ルミ、遅れている」

「待ってください! 私は元干物女なのです!」

「知っている」

「そこは知らないでください!」

「だが、走れている」

 ウリヤスが振り返る。


 黒髪が朝の光を受けて揺れた。

「ドレスより、似合っている」

 ルミの足がもつれかけた。

「そういうことを急に言わないでください!」

「本当のことだ」

「心臓に悪いです!」

「なら、ゆっくり走るか」

「はい……いえ、でも、あと少しだけ走ります」


 ルミは息を弾ませながら、前を向いた。


 ドレスを脱いで。

 ジャージを着て。

 重いものを少しだけ置いて。

 今、彼女は走っている。


 ひた走る、というほど格好よくはない。

 それでも、前に進んでいる。


 この世界にジャージがないなら、作ればいい。

 楽に生きる服がないなら、作ればいい。

 気を抜ける場所がないなら、作ればいい。


 ルミ・アルヴァレスは、息を切らしながら笑った。


「ウリヤス様!」

「何だ」

「五分走ったら、一緒に休んでくださいますか?」

「もちろん」

「寝転がるのも?」

「君が望むなら」

「……最高です」


 ウリヤスは静かに笑った。

「では、あと二分だ」

「二分も!?」

「走れる服だろう」

「走れる服ですが、持ち主の体力には限界があります!」


 文句を言いながらも、ルミは走った。

 朝の庭を、軽い服で。


 隣には、彼女の本性を知っても離れない人がいる。


 だから今日も、外では少し頑張れる。


 そして家に帰ったら、思いきりだらければいい。

 淑女にも、休息は必要なのだから。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ