Ⅴ
「レウコス、私の言ってることが分かるなら、あの子供のそばにいてあげて」
リヴィナはしゃがみ込み、指先で静かに子供を指す。レウコスは一瞬だけリヴィナを見上げると、すぐにその足もとへ駆けていき、身体を丸めて子供の隣に寄り添った。
「よし、いいこだ」
リヴィナは静かに呟き、手元で金のナイフを素早く構える。
目の前の魔物は、人型とは呼べないほど異形へと変貌していた。全身は黒い鉄板のような金属に覆われ、ただその輪郭だけがかろうじて人の面影を残している。狼の魔物とは比べ物にならない、おぞましいまでの威圧感が空間に満ちていた。
「これ、毒効くか微妙かも……」
ボヤく声と同時に、いつもの手つきで左手の指輪に金のナイフの刃を滑らせる。
その流れのまま、正面から切り込む。だが刃は金属に受け止められ、火花一つ上げることなく滑った。
魔物が鈍重な腕を振り上げる。その反撃を細い動きで掻い潜り、リヴィナは距離をとる。
「毒どころか刃も通らない……となると……」
低く呟き、血瓶に指を添え、一言。
「弱化」
赤く染った瞳でふたたび切り込む。今度は多少の感触があったが、それでも鉄板には傷もつかない。
「出力上げるか、弱化」
連続して血瓶の中身を捧げる。
瞳の輝きは強くなり、腰の小瓶が一本丸々空になる。
再度斬りかかると、金のナイフが抵抗しながら金属の板をほんのわずかだけ裂いた。一筋の傷が表面に刻まれる。
その瞬間。
魔物は低く唸り、振りかぶった腕で床を砕きながら反撃してくる。破片が飛び散り、圧倒的な質量が空気ごと押し寄せた。
リヴィナは紙一重でかわし、膝を滑らせながら距離をとる。肩口をかすめる鉄板の一撃に、冷たい汗が背筋を伝う。
それでも立て直し、次の血瓶に手を伸ばした。
「これで少しでも効いてくれないと厳しいけど、どうかな……」
魔物は一瞬おののいたような動作を見せ、全身の鉄が波立つように不気味な変形を始めた。
魔物の体表は軋むように大きく波打った。黒い鉄板がねじれ、拒絶するように全身を覆っていく。切れ目から覗いた肉の部分も、どこか人間らしさをなくしていく。まるで、見られることそのもの、他者の干渉そのものを拒みたいと願うように。
「すこしは効いてくれたってことでいいのかな……」
リヴィナはかすかな諦観と武者震いをにじませつつ、間合いを保った。だが魔物の動きはむしろ一層凶暴さと鈍重さを増していた。
鉄の腕が重く振り下ろされる。これをなんとか避けつつ、ふたたび血瓶に指を伸ばす。
「認知を弱化させながら辛うじてこれか……かなり出力上げた魔法じゃないと通らないし、血瓶もたないかも」
魔物の攻撃をかわすたび、またひとつ血瓶の中身が消える。
指先から気力がこぼれ落ちそうだ。
ほんの一瞬、無防備になった隙を逃さず、魔物の腕がリヴィナの横腹を直撃した。
めまいが走り、口腔にじんと鉄の味が広がる。
「……っ、ちょっと……これは、さすがに……危な……」
か細い笑みすら浮かばない。視界がぐらりと揺れて、膝が今にも崩れそうになる。
それでも気力だけで、ぎりぎり立ち続けていた。
そのとき、レウコスが低く大きく吠えた。
魔物の顔が一瞬こちらから逸れ、レウコスを視界にいれる。
レウコスは倒れた子供の隣でひっそり身を寄せていたが、静かに子供の身体へ前足をそっと重ねた。その瞳が一瞬、強く赤くきらめき、白い毛の全身がみるみる膨張していく。
異形へと変わる。
だがどこか神聖な、雪の光をまとったような毛並みだけはそのままだ。子狼の名残と圧倒的な存在感が重層する、そんな姿。
「れ、うこす……?」
リヴィナが呆然とつぶやく間もなく、レウコスは魔物へ向かって一直線に飛びかかった。
レウコスの一撃が、鈍重な魔物の巨体もろとも家の家具を壁ごと吹き飛ばした。
木材と鉄板が砕け、轟音とともに土煙が一気に室内を満たす。家具や破片が宙を舞い、視界を覆うような煙でリヴィナの影が隠される。
クノアの耳にも遠くから、激しい爆音が届いた。
「……この音、まずいな」




