Ⅰ
黒い森の縁、わずかな夜明けの気配。湿った土と枯れ葉の匂いが、息をするたびに肺を満たしていく。
青年は切り株に腰を下ろしていた。淡い灰色の髪は朝方の夜露に濡れ、肩先で静かに揺れている。長い前髪が視線を遮りがちだが、その奥の瞳は朝の闇を静かに映している。細身の体躯に赤黒い外套をまとい、膝の上で、銀の美しいナイフを無造作に弄んでいた。 指先が金属に触れるたび、かすかな音が夜気を割く。妙に整った横顔には、まだ少年めいた陰りと、大人びた寡黙の影が同居する。
「クノア、まーたそのナイフ弄ってる。もし失くしたら、泣くんでしょ?」
からかうような声の主は、金色の長い髪を朝もやにふわりと揺らした若い女性だった。琥珀色の瞳はいたずらめいて細まり、その口元は静かに笑みを浮かべている。左手には親指以外の四本の指すべてに細い銀の指輪が光り、赤黒い外套もどこか柔らかな印象を与えていた。
そうやってクノアと呼ばれた青年は、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「それは困るな。リヴィナ、君が代わりに探してくれるなら、泣かずに済みそうだけど」
乾いた返しに、リヴィナはくっと喉を鳴らして笑う。
「それはそうと、そろそろ起き始める頃だと思うが」
銀のナイフを素早く握り直し、表情を引き締めながらクノアが言う。
「そのはずなんだけど、なんでこう、いつもいつも当てが外れるかなぁ」
残念そうに呟くリヴィナの口角がいきなり上がる。
「っと、今回は正解だったぽいね」
そう会話を続けるふたりの眼前には狼に見える何かが写っている。
目の前に現れたのは、ただの狼とはどこか決定的に違っていた。
闇に濡れた灰色の体毛の下、筋肉の盛り上がりが異様なまでに肥大し、頭部は歪んで大きく、顎の下から滴る涎が土を濡らしていく。
その眼は夜明け前の光を吸い込んだまま、一切の感情が抜け落ちたような色で輝いていた。
咆哮でも威嚇でもない、ごく低い唸り声が喉の奥でうなり続けている。
本能的な恐怖では片づけられない、どこか人間めいた絶望。何かが「壊れてしまった」生き物の姿がそこにはあった。
「狼の魔物が五匹、指定通りだな」
クノアは低く呟き、切り株から音もなく腰を上げた。赤黒い外套の下、腰のベルトには小瓶がいくつも下がっている。魔物たちの唸りが森に満ちる中、彼はそのひとつを左手で確かめるように触れる。
指先がひんやりとした硝子をなぞった刹那、クノアは静かに、ほとんど誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「加速」
小瓶の中の液体がわずかに揺れ、その量を減らす。その直後、クノアの瞳が血のような赤に輝く。世界の空気が一瞬、張り詰めた。
クノアは地を蹴り、夜明けの森を駆け抜けた。加速の魔法が全身を駆る。常人離れした速度で、狙いを定めた狼の懐へ音もなく飛び込む。ナイフが閃き、獣の首筋を迷いなく断ち切った。
斃れた狼の肉が土に沈む音と同時に、残る群れが唸り声を上げ、二手に分かれる。二匹がクノアへ、もう二匹がリヴィナへと襲いかかる。
真ん中に踏み込んだクノアは、赤く光る瞳で僅かな隙を測り、一瞬の判断で片方へ狙いを定める。空気を断つほどの速さ、ナイフが真横に閃く。首筋を一度、二度、三度。血が細い虹になって飛び、次の瞬間にはもう二匹目が息絶えていた。
その瞬間、瞳の赤は静かに失われ、残る一匹が咆哮とともにクノアの背へ飛びかかる。
「弱化!」
リヴィナの声が響く。クノアに届くはずだった狼の牙は、クノアの目前で鈍く空を裂くだけだった。クノアは微動だにせず、すぐさまナイフを持ち直し、今度は首元に一閃。先ほどの速度と比較し明らかに遅い太刀筋だったが、致命には十分な鋭さだった。短い声を絞り、狼が地に伏す。
一方のリヴィナは、迫る魔物の息遣いに動じず、外套下から血液の小瓶に指を添え、再度短く「弱化」と呟く。瞳が赤く輝き、左手の銀の指輪に、右手の金色のナイフの刃をそっとなぞる。
その動作は流れるように美しく、呼吸をするような滑らかさで、ナイフの刃にはすでに、指輪の毒が静かに移されていた。
狼の攻撃を紙一重でかわしながら、そのまま脚へと素早く刃を滑らせる。ためらいのない動き。魔物が声を上げて振り返るが、その瞬間に足が崩れ、地に倒れ込んだ。
最後の一匹が、敗北を悟ったのか身をひるがえして森へ逃げようとする。
「あ、逃げようとしてる」
リヴィナの呟きがまだ森に溶けきらぬうちに、クノアは腰のベルトへ左手を滑らせ、小瓶の冷たい感触を確かめながら「加速」と静かに息を吐いた。
それまで右手に握っていた銀のナイフをさっと納め、今度は腰の鞘から金色のナイフを抜き出す。その刃はリヴィナの使うものとまるで双子のように、光を吸い込んで細かくきらめいていた。
ほんのわずかな動作で構えを整え、抜き放った金色のナイフを音もなく投げ放つ。
ナイフはただの投擲を遥かに超える速さで宙を裂き、正確に、逃げる狼の頭部を貫いた。
「よし、今回は早かったな」
クノアが小さく息をつく。森には、立ちのぼる血の匂いと生ぬるい鉄臭さが漂い、獣たちの体温の残滓と深い静寂が染みつく。土に染みた血が夜明けの冷気と混ざり合い、辺りは戦いの余韻で満たされていた。
クノアは茂みに埋もれた金色のナイフを回収しながら、狼の死骸の体温を足裏に感じていた。鞘に収める一方で、腰の小瓶が1本空になっているのに気づき、そっとため息をつく。
「案外使いやすいよね、このナイフも。朱の会は支給品だけは一流だよ」
リヴィナが金のナイフを鞘に戻しながら笑う。
クノアは倒れた魔物の傷口から血を採取し、小瓶に注ぎ入れた。
「ほんとにな。だけど不思議なもんだな、こうして魔物の血を補充した後の小瓶は、なぜか魔法の伸びが良くない。同じ動物の血のはずなのに」
リヴィナが短く返す。
「説明なんてしてくれないしね。まあ、こんなたくさん支給してくれてるだけいいんだけどね」
ふたりはしばし無言で、リヴィナは銀の指輪を、クノアは2本のナイフを手入れする。それぞれが手馴れた所作で道具を点検し、静かに作業を終えた。
やがて、リヴィナが手を止めて呟く。
「……朝ごはんには早すぎるね」
クノアが肩をすくめて応じる。
「次はもう少し静かな仕事を頼みたいもんだ」
「さっ、いったん村の人たちを安心させて、朱の会に戻って報告だね」
リヴィナの言葉の後、暗い森を背にして、二人は森を後にする。




