第六話:古龍の止まり木と特製リンゴ酒
その日の午後は、異様な圧迫感と共に始まりました。
店の周囲を囲む深い霧が、まるで生き物のように激しく渦巻き、空は白昼堂々、群青色に変色しました。ただ事ではない気配に、勇者は即座に傘立ての剣へ手を伸ばし、魔王は麦わら帽子の下で瞳を紅く光らせます。
ドォォォォン。
地響きと共に庭に降り立ったのは、真珠のような輝きを放つ鱗と、空を覆わんばかりの翼を持つ、伝説の聖龍でした。神話の時代から世界を統治し、理の守護者とされる存在。
「……愚かな。理を外れた空間が、この地にあると聞き及んだ。万物の均衡を乱す不確定要素、我が一息にて滅ぼしてくれよう」
聖龍がその巨大な顎を開き、天災級のブレスを溜め始めた、その時です。
「こら、そこはリアちゃんが種をまいたばかりの花壇ですよ。踏まないでいただけますか」
サトシが、デッキブラシを片手にテラスから声をかけました。 聖龍の黄金の瞳が、豆鉄砲を食らったような形になります。
「き、貴様……我を知らぬのか? 我は世界の守護者、聖龍ぞ。我の言葉は天の啓示、我の裁きは……」
「はいはい、お疲れ様です。守護者だか何だか知りませんが、数万年も働き詰めじゃあ、頭も固くなりますよね。喉も渇いているでしょう?」
サトシは、大きな樽をゴロゴロと転がして庭に出しました。 中に入っているのは、秋に収穫した大量のリンゴを、魔王の魔力で少しだけ発酵を早めて仕込んだ、特製のリンゴ酒です。
聖龍は鼻を鳴らし、威厳を保とうとしましたが、樽から漏れ出る芳醇で甘酸っぱい香りに、不覚にも喉が鳴りました。
「……ふん。毒見をしてやろう」
巨大な鼻先を樽に突っ込み、聖龍は一気にそれを飲み干しました。 直後、聖龍の全身から力が抜け、巨体がズズズ……と地面に沈み込みます。
「なんという……。我は、ずっと『正しく』あろうとしてきた。世界の均衡を守り、悪を断ち、神の代行者として……。だが、誰も我に労いの言葉などかけなんだ。皆、我を畏怖するか、利用しようとするか……」
聖龍の大きな瞳に、じわりと涙が浮かびました。 その時、小さな影が聖龍の巨大な鼻先に、ペタッと触れました。
「大きなトカゲさん、泣かないで」
リアちゃんが、聖女のハーブティーで湿らせた温かいタオルを持って、そこに立っていました。 伝説の聖龍は、七歳の少女の小さな手のぬくもりに、ついに決壊しました。
「う、うおおおぉぉん! 我も、我ももう疲れたのだ! 毎年毎年、気候の調整だの、勇者と魔王の仲裁だの! 我がいなくては世界が滅びるという強迫観念に、もう数万年も苛まれてきたのだ!」
大音量の泣き声に、賢者は耳を塞ぎ、勇者は呆れたように肩をすくめました。
「よう、トカゲの旦那。あんたも結局、俺たちと同じ『役職』の犠牲者だったわけだ」
魔王が、聖龍の背中をバシバシと大きな手で叩きます。 聖龍は、光り輝く鱗をパラパラと落としながら、やがて小さな「白いトカゲ(羽付き)」の姿に変身しました。
「マスター。我もここに、しばらく……いや、数百年ほど居てもよいか? 世界の均衡など、たまには誰か別の者にやらせればよい」
「構いませんよ。ただし、薪割りのお手伝いをお願いしますね。あ、その鱗は、聖女さんの薬の材料として少し分けてあげてください」
「心得た……。ふむ、この麦の椅子、案外座り心地が良いな」
伝説の聖龍は、リアちゃんの膝の上に陣取ると、幸せそうに目を閉じました。 また一人、世界の重荷を捨てた迷子が増えたようです。




