第五話:迷子の子猫と真っ白なミルク
その日の霧は、いつもよりずっと冷たく湿っていました。
カラン……。 今にも消えてしまいそうなほど、頼りない鐘の音。
「いらっしゃい……」
サトシが言葉を途中で止めたのは、入り口に立っていたのが、あまりにも小さな影だったからです。
ボロボロに汚れた麻の服を着て、靴さえ履いていない足は泥だらけ。 その少女、リアは、痩せ細った腕で自分を抱きしめるように震えていました。 彼女は困窮を極めたスラムから、ただ「おなかが空かない場所へ行きたい」と願い続け、気づけばこの霧の森に迷い込んでいたのです。
「ここは……天国ですか?」
リアの掠れた声に、店内にいた大人たちが一斉に動きを止めました。
カウンターで昼寝をしていた賢者は帽子を跳ね上げ、ウイスキーを楽しんでいた魔王はグラスを置きました。 庭で魚を焼いていた勇者と、ハーブを摘んでいた聖女も、異変に気づいて店内に駆け込んできます。
「お嬢ちゃん、大丈夫か!?」 「顔色が真っ青じゃない。マスター、早く温かいものを!」
勇者の怒鳴り声に、リアはびくっと肩を揺らしました。 それを見た魔王が、静かに、けれど威圧感のある声で勇者を窘めます。
「馬鹿者、声が大きすぎる。小鳥が怯えているではないか」
サトシは無言で、けれど誰よりも早く動いていました。 彼はリアを柔らかなソファへ運び、毛布で包むと、すぐに厨房へ向かいました。 今の彼女に刺激の強いものは禁物です。 彼はミルクを温め、そこに少量のバターとたっぷりの砂糖、そしてほんの少しのバニラを加えました。
「まずはこれを。ゆっくり、少しずつ飲んでごらん」
差し出された真っ白な飲み物を、リアはおずおずと両手で受け取りました。 一口、口に含んだ瞬間、彼女の瞳が驚きで大きく丸くなりました。
「……あまい。すごく、やさしい味がします」
その言葉を聞いた瞬間、店内の空気から、張り詰めていた緊張がふっと解けました。 聖女はリアの隣に座り、その冷え切った小さな手をそっと握りました。
「もう大丈夫よ。ここはね、怖いものも、おなかが空くこともない場所なの」
リアは温かいミルクを飲み干すと、少しだけ頬に赤みが戻ってきました。 彼女は不思議そうに、周囲にいる「普通ではない」大人たちを見渡しました。
「おじちゃん、頭に大きなツノがあるね」 「……これか。これは、その、麦わら帽子を支えるための飾りだ」
魔王は柄にもなく慌てて、麦わら帽子を深く被り直しました。 賢者はリアの目の前で、光り輝く小さな鳥の魔法を出して見せました。
「お嬢ちゃん、これは理屈ではなく、ただの遊びだ。見ていなさい」
パッと弾けて消える光の鳥に、リアは初めて「キャッ」と声を上げて笑いました。 その笑い声は、かつての称号を捨てた大人たちの心に、どんな魔法や勝利よりも深く染み渡りました。
「マスター。私、ここでお手伝いをしたいです。お外の川で、お魚を洗ったりできます」
リアの健気な言葉に、勇者は鼻の奥を鳴らしました。
「ははっ、魚なら俺がいくらでも釣ってきてやる。お前はそれを、美味しそうに食べていればいいんだよ」
サトシは、リアの頭を優しく撫でました。 地位や名声に疲れた大人たちが集まるこの店に、守るべき「明日」がやってきたのです。
「リアちゃん。お手伝いは、もう少し大きくなってからでいいですよ。今は、ただゆっくりと、お昼寝をするのがあなたのお仕事です」
リアは、聖女の膝を枕にして、深い眠りに落ちていきました。 今夜の彼女が見る夢は、きっともう、冷たい雨の日の記憶ではないはずです。
【後書き】 なんて愛らしい子かしら。 リアちゃんをここへ導いたのは、私のちょっとしたお節介。 地位も名声も飽き飽きした大人たちには、彼女のような純粋な「守りたいもの」が必要だと思ったの。
見て、あの魔王様が自分のツノを「飾り」だなんて嘘をついて。 勇者さんも、あんなに優しい顔で笑うようになるなんてね。 サトシさんも、これからは一人分、多くおやつを作らなきゃいけなくなったけれど、その表情はとても幸せそう。
この店は、もうただの「隠れ家」ではなく、新しい「家族」の場所になりつつあるわね。 さて、明日はリアちゃんのために、みんなで何をしましょうか? お庭にブランコを作ったり、みんなでお洋服を縫ってあげたりするのも楽しそうね。




