第三話:賢者と湯気の向こう側
夕暮れが「落日」の周囲を濃い紫に染める頃、その男は現れました。
つばの広い三角帽子を目深に被り、無数の魔導書を浮遊させたまま、ぶつぶつと何事かをつぶやきながら歩く男。彼は、真理の到達者として大陸全土にその名を知られた「大賢者」でした。
彼は店の扉を開けるなり、サトシを指差して叫びました。
「おかしい。論理が通らん。私の解析魔法が、この店の座標だけを拒絶し続けている。ここには一体、どんな高次元の結界が張られているのだ。教えろ。さもなくば、あらゆる解呪の術式を叩き込むぞ」
サトシは、カウンターの向こうで新聞を広げたまま、眼鏡を指で直しました。
「いらっしゃいませ。解呪の前に、まずは土足厳禁ですので、そこのスリッパに履き替えていただけますか」
「スリッパだと。この私に向かって何を……。だが待て、このスリッパに使われている繊維、まさか古代の精霊草か。いや、ただの綿か。なぜだ、なぜこんなに柔らかい」
偏屈な賢者は、毒気を抜かれたようにスリッパを履き、ふらふらと椅子に座りました。彼の周囲を浮遊していた魔導書たちが、主人の動揺を察してガタガタと音を立てています。
「何か、知性を刺激する飲み物を出せ。私は世界のすべてを知りすぎた。次は宇宙の真理を記述せねばならんのだ。時間は一刻も惜しい」
サトシは黙って、古びた鉄瓶を火にかけました。 シュンシュンと鳴る音を聞きながら、彼は豆ではなく、緑色の茶葉を急須に入れます。
「お待たせしました。ほうじ茶です」
「ほうじ茶……。ただの茶ではないか。こんなものが、真理への足がかりに……」
賢者は疑わしげに湯呑みを手に取り、立ち上がる湯気をじっと観察しました。 その刹那。
「……マスター。この湯気の動き、カオス理論に基づいた流体運動のはずだが、私の数式では計算しきれん。なぜだ。なぜ、こんなに不規則で、そして、美しいのだ」
賢者は、湯呑みから伝わる熱に、思考を奪われました。 これまで彼は、世界を数式や記号でしか見てきませんでした。花を見れば成分を解析し、星を見れば軌道を計算する。そうしているうちに、彼は「ただ、眺める」ということを忘れてしまったのです。
「マスター。私は、すべてを知れば幸せになれると思っていた。だが、知れば知るほど、世界は無機質な記号の羅列に変わっていった。私の頭の中は、今やガラクタのような知識で溢れかえり、眠ることさえままならん」
サトシは、カウンター越しに一枚の白紙を差し出しました。
「ここに来る途中、庭で聖女がハーブの手入れをしていたでしょう。彼女は今、明日の朝食に何を添えるかという、世界で一番難しい難問に挑んでいます。賢者様。あなたも、その難しい数式を一度閉じて、この『何も書いていない紙』を眺めてみてはどうですか」
賢者は絶句しました。 白紙。かつて彼が最も恐れ、何かを書き込まずにはいられなかった空白。
「……馬鹿げている。だが、不思議とこの茶の香りが、頭の中の騒がしい声を黙らせてくれるな」
賢者はゆっくりとほうじ茶を啜り、浮遊していた魔導書を一つ、また一つと机に降ろしていきました。 やがて、彼は一番分厚い禁書の表紙を枕にすると、小さな寝息を立て始めました。
世界を解析し尽くそうとした男が、最後に求めたのは「何も考えなくていい時間」だったのです。
「おやすみなさい、偉大なる無職の学者さん」
サトシは、彼が風邪を引かないように、使い古したブランケットをそっと掛けました。
【後書き】 あら、あの理屈っぽい子まで眠らせてしまうなんて。 サトシさんの淹れるほうじ茶は、どんな高度な沈黙魔法よりも強力ね。
あの子は、自分が賢くあらねば世界が崩壊すると本気で信じていたの。でも、彼がいなくても太陽は昇るし、お茶は美味しい。その「無力であることの心地よさ」に気づけたのは、彼にとって一生で一番の発見だったはずよ。
さて、勇者が釣りをし、聖女が土をいじり、賢者が昼寝をする……。 なんだか、私の創ったこの世界も、ようやく「完成」に近づいているような気がするわ。
次は、あまりに強すぎて、自分を殺してくれる相手を探して彷徨っていた、孤独な魔王様でも呼んでみようかしら? 凶悪なツノを持った彼が、サトシさんの店でどんな顔をするか、今から楽しみだわ。




