第十一話:ハイヒールと泥だらけの境界線
あの日、会社からサトシ課長がいなくなった後の世界は、驚くほど残酷に、そして淡々と回り続けていました。
サトシ課長がいなくなってからの数ヶ月、ヒマリは機械のように働いていました。
彼が座っていた主のいないデスク、付箋の山、飲みかけで放置されたまま捨てられたペットボトル。それらを見るたびに、胸の奥が鋭いナイフで削られるような感覚がありましたが、彼女は決して涙を見せませんでした。
「ヒマリさん、この資料、サトシさんの代わりにやっといて」 「はい、承知いたしました」
平然とした顔で答え、深夜までパソコンの青白い光を浴びる日々。彼女が守りたかったのは、サトシという人間がそこにいた「証」でした。彼がどれほど丁寧に、どれほど誠実にこの場所を支えていたかを、自分が完璧に仕事をこなすことで証明し続けなければならない。そう頑なまでに信じ込んでいたのです。
けれど、ある雨の夜。 サトシが命を落としたあの道で、ヒマリはふと立ち止まりました。
濡れたアスファルトを叩く雨音。 ハイヒールの踵が、自分の体重を支えきれずに震えていることに気づきました。 見上げた夜空には星一つなく、ただ都会の濁った光が雲を照らしているだけ。
「……あほらしい」
彼女は独り言を漏らしました。 サトシを追いかけてここまできた。彼の代わりを完璧に演じてきた。でも、その先に何があるのか。彼を救えなかった自分を、仕事という免罪符で罰し続けているだけではないのか。
「課長、私、もう無理ですよ。一回休みますからね」
彼女はそのまま、雨の中に崩れ落ちるように膝をつきました。 意識が遠のく中、彼女が最後に願ったのは、恋慕というような甘いものではありませんでした。ただ、あの損な役回りばかりを押し付けられていたお人好しに、一言「お疲れ様です」と、仕事抜きで伝えたい。それだけでした。
気がつくと、彼女は深い霧の立ち込める森の中に立っていました。 足元は泥だらけ。パリッとしていたはずのリクルートスーツはボロボロで、片方のヒールはどこかへ消えていました。
「……何、ここ。夢ならもっといい場所にしてよ」
彼女は足を引きずりながら、幽霊のように彷徨いました。 どれくらい歩いたでしょうか。霧の向こうに、ぽつんと温かな灯りが見えたのは。
カラン、と。 自分の人生を終わらせるかのように、あるいは新しく始めるかのように、彼女はその扉を叩きました。
「いらっしゃいませ。……あ」
カウンターの奥、コーヒーを淹れる所作ひとつ変えずに、その人はそこにいました。 サトシは驚きに目を見開き、そしていつもの、困ったような、それでいて柔らかな笑みを浮かべました。
ヒマリは、こみ上げてくる感情を必死に抑え込み、努めて平然とした声を絞り出しました。
「課長。何してるんですか。次の会議、もう始まってますよ」
「ヒマリさん……。ああ、そうだね。でも、ここには会議室はないんだ」
サトシが歩み寄り、彼女の泥だらけの肩にそっと手を置いた瞬間、彼女の虚勢は音を立てて崩れました。 「お疲れ様」という言葉は、彼女がサトシに言いたかった言葉であり、そしてサトシから最もかけてほしかった言葉だったのです。
【後書き】 ヒマリちゃんが扉を叩いたあの瞬間、私も天界で息を呑んで見守っていたのよ。 あの子はサトシさんのことが大好きだったけれど、それを「部下としての忠誠心」という鎧でずっと隠していたのね。
サトシさんがいなくなった後の孤独な戦い、本当によく頑張ったわ。 泥だらけのスーツは、彼女が一生懸命生きた勲章のようなもの。 この「落日」の暖炉の火で、彼女の冷え切った心も、濡れた服も、ゆっくりと乾かしていきましょう。
さて、サトシさんの過去を知る唯一の存在、ヒマリちゃん。 彼女が加わったことで、隠居生活のメンバーたちにも新しい風が吹きそうね。 次は、ヒマリちゃんが伝説の面々を相手に、現代の「ビジネスマナー」でも叩き込むのかしら?




