第十話:雨の日の足跡と、最後に見た空
「課長、なんであんなに頑張ってたんですか」
夜、営業を終えた「落日」のカウンターで、ヒマリがぽつりと零しました。 窓の外では、勇者や魔王たちが静かに眠り、遠くで滝の音だけが響いています。 サトシは、自分用の冷めたコーヒーを一口飲み、少しだけ遠い目をして語り始めました。
あの日も、今日のように静かな雨が降っていました。
サトシは、現代日本という名の戦場で、誰よりも「正しい歯車」であり続けようとしていました。 病気がちな母の治療費、部下たちの生活、上司の機嫌。 彼の背中には、彼自身の人生ではない、誰かのための荷物が山積みになっていました。
「課長、もう帰りましょう。これ以上は無理です」
ヒマリがそう声をかけたあの日、サトシはただ、いつものように穏やかに笑って答えました。 「あと少しだけ、この資料を仕上げておくよ。君は先に帰りなさい。明日も早いだろう?」
それが、二人の最後の会話でした。
深夜二時。 オフィスを出たサトシの足取りは、鉛のように重く、視界はかすんでいました。 連日の徹夜と心労で、彼の心はすでに、音も立てずに擦り切れていたのです。
土砂降りの雨の中、彼はふと、横断歩道の真ん中で立ち止まりました。 激しいブレーキの音。 けれどサトシは、逃げようとはしませんでした。
いえ、逃げる気力が、もう残っていなかったのです。
アスファルトに倒れた彼の視界に映ったのは、雨雲の隙間から見えた、たった一つの、名前も知らない星の光でした。 「……ああ、やっと、終わったんだな」
その瞬間、サトシが感じたのは死への恐怖ではなく、途方もない「解放感」でした。 誰の期待に応える必要もなく、誰の責任も背負わず、ただ、一人の人間として消えていけることへの、安らかな感謝。
その時でした。 暗闇の中から、とても優しくて、温かな声が聞こえてきたのは。
『そんなに急いで、どこへ行こうというのですか? 子供のように、もっとゆっくり歩いてもよいのですよ』
気づけば、彼は霧深い森の中に立っていました。 目の前には、女神様が微笑みながら、一軒の古びたログハウスを指差していました。
「……マスター? 課長、聞いてます?」
ヒマリの声に、サトシは現実に引き戻されました。 彼は、かつて自分を轢いた車のヘッドライトよりも、ずっと温かな店の灯りを見つめました。
「ああ、ごめん。少し昔のことを思い出していたんだ」
「課長があの時、いなくなった後、会社は大変だったんですよ。でもね、みんな気づいたんです。課長がどれだけ無理をしていたか。……私、課長に生きててほしかったです。でも、今の課長の顔を見てると……ここに来れて、よかったのかなって、少しだけ思います」
ヒマリの瞳に、小さな涙が浮かびました。 サトシはそっと、彼女の前に温かいミルクを差し出しました。
「僕はね、ヒマリさん。あの日、死ぬ間際に見たあの星よりも、今、君たちと一緒に食べる晩ごはんの方が、ずっと綺麗だと思っているよ。ここは、人生に疲れた僕たちが、もう一度『自分』を始めるための場所なんだ」
勇者が剣を置き、魔王が帽子を被り、聖女が土をいじる。 それは、かつてサトシが雨の夜に求めた、究極の「何者でもない時間」でした。
【後書き】 あの日、雨の中で倒れたサトシさんを抱き上げたのは、私です。 彼の魂があまりにも透明で、あまりにも疲れ果てていたから……そのまま消してしまうには、あまりに惜しいと思ったのよ。
「落日」という名前はね、一日の終わりに訪れる、最も静かで美しい時間を、彼に永遠にプレゼントしたくて名付けました。 勇者さんや魔王さんたちが彼を慕うのは、サトシさんが「誰よりも、終わることを望んでいた人」だからこそ、彼らの心の痛みが誰よりも分かるから。
ヒマリちゃん、泣かないで。 サトシさんはあの日、すべてを失ったのではなく、本当の自分を見つけるための切符を手に入れただけなのよ。 さて、夜が明ければ、また賑やかな一日が始まります。 明日はみんなで、サトシさんが大好きだった「あっちの世界のカレー」でも作りましょうか?




