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辺境の喫茶店「落日」へようこそ ― 英雄も聖女も、ここではただの迷子です ―  作者: 沼口ちるの


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第一話:剣を置いた迷子への抱擁

この世界の片隅、時の流れさえも歩みを止めるような深い霧の奥底に、私の愛する小さな場所があります。


そこは、重すぎる荷物を背負わされた子供たちが、ようやくその肩を休めるためにたどり着く終着駅。喫茶店「落日」と呼ばれているその場所を、私はいつも空の向こうから、温かな眼差しで見守っているのです。


カラン、と。 静寂を溶かすような鐘の音が響きました。


「いらっしゃいませ」


店主のサトシが、穏やかな声で迎え入れます。扉を押し開けて入ってきたのは、血と鉄の匂いを全身に纏った一人の男でした。


その男の背中には、世界を救うために振るわされた、あまりにも巨大な鋼の剣。人々に英雄と呼ばれ、神の使いと崇められ、けれどその内側では、一人の人間としての心が悲鳴を上げているのを、私は知っていました。


彼は、もう限界だったのです。


男は、震える足取りでカウンターの席に腰を下ろしました。まるで、ここが夢ではないことを確かめるように、木目の机をそっとなぞります。


「……何か、飲み物を」 「かしこまりました。今はちょうど、香りのいい豆が入っています」


サトシは、彼の正体を暴こうとはしません。彼がどこの国の勇者で、どれほどの魔物を屠ってきたのか。そんなことは、この優しい空間には必要のないことだからです。


ゴリゴリ、ゴリゴリ。 豆を挽く音が、男の荒れた鼓動をゆっくりと鎮めていきます。


「いい音だな」 「ええ、雑念が消えます」


男は、自嘲気味に微笑みました。その瞳には、かつて見た凄惨な戦場の景色と、自分を英雄という檻に閉じ込めた人々の執念が焼き付いています。


「雑念、か。俺の周りにはそれしかなかった。あいつを殺せ、あそこを救え、次はこの国のために死んでこい。誰も俺が何を食いたいか、どこで眠りたいかなんて聞きやしない。ただの便利な剣だと思われていたんだ」


かわいそうに。 私は雲の隙間から、彼を抱きしめるような光を降らせました。


サトシは何も言わず、ただ丁寧に、祈るようにコーヒーを淹れていきます。立ち上がる香ばしい湯気が、男の冷え切った心を、薄皮を剥ぐように解きほぐしていくのが見えました。


「お待たせしました。本日のコーヒーです」


差し出された黒い液体を見て、男は不思議そうな顔をしました。


「毒のような色だ」 「ええ、ですが心には効きますよ」


男が一口、その液体を喉に流し込むと、彼の目からひと筋の雫がこぼれ落ちました。それは、勇者という仮面の裏側に隠されていた、一人の男としての涙でした。


「……苦い。だが、驚くほど澄んでいる」 「それは、あなたが今、何も背負っていないからです」


男はふっと、長く、深い息を吐き出しました。その呼吸とともに、彼を縛り付けていたすべての「期待」が、霧に溶けて消えていくようでした。


「俺は、伝説の勇者なんて呼ばれていた。魔王の首を撥ねれば、すべてが終わると思っていたんだ。だが終わらなかった。どこに行っても、ただの男として居られる場所なんてなかったんだ」


男はコーヒーを飲み干し、窓の外に広がる、私が描いた夕焼けを眺めました。


「ここに来る途中、川を見つけた。魚が跳ねていたよ。あんなに美味そうな魚を見たのは、何年ぶりだろうか」 「ここの裏手にある川ですね。主のような大物もいますよ。もしよろしければ、これをお貸ししましょうか」


サトシが差し出したのは、一本の竹製の釣り竿でした。 男は驚き、それから今日一番の、子供のような笑顔を見せたのです。


「勇者に、竿を振れと言うのか?」 「ここでは、あなたは勇者ではありません。ただの、魚釣りが好きな無職の男です」


「無職、か。いい響きだ。英雄なんて肩書きより、よっぽど俺に似合っている」


男は立ち上がり、サトシから釣り竿を受け取ると、二度と振るうことのない大剣を、店の隅にある傘立てに預けました。かつて世界を震撼させた聖剣が、ただの鉄の棒になった瞬間。私は、その光景を誇らしく思いました。


「マスター。その剣はもう、ただの鉄屑だ。好きにしろ。代わりに、俺が釣った一番大きな魚を夕飯に出してくれ」


「喜んで。期待せずにお待ちしています」


男は軽やかな足取りで、夕暮れの森へと消えていきました。 残された大剣は、もう誰を傷つけることもありません。


サトシは、男が残した空のカップを慈しむように洗い始めました。 私はその様子を見届けて、また静かに天へと戻ります。


次はどんな迷い子が、この「落日」の扉を叩くのでしょうか。 私は、楽しみで仕方がありません。



【後書き】 あら、私の声が届きましたか? サトシさんに「ただ、そこにある」という力を授けたのは、他でもない私です。彼はあの日、自分を押し殺して働くことに疲れ果てていました。だからこそ、この世界のどこにもない、誰からも干渉されない「空白の場所」を彼に託したのです。


勇者だったあの男の子も、本当は戦いたくなんてなかったのですよ。彼が傘立てに剣を置いたとき、私も天界で小さく拍手してしまいました。地位や名声なんて、魂の自由の前では小さな石ころのようなもの。次は、どんな重荷を背負った子がやってくるかしら。また私の秘密の観察記録、読みたくなったら教えてくださいね。

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