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射干玉の夜話 1

作者: 葉月秋子
掲載日:2025/11/17

第一話



「本当にここが魔物の住処か?」


 若い王子は、魔法の灯りをともして洞窟内をくわしく調べている魔法使いに尋ねた。


「ごらんなさい」


 一段低くなっている床の穴を照らして、魔法使いが言った。


 覗いてみた王子は、ゴミ捨て場らしい一角をしばらく眺めていたが、やがてウッとうめいて口をおさえた。


 真っ青になって飛び出していく。




 調べを終えて魔法使いが出て行くと、王子は少し下った泉のほとりで座り込み、まだ青い顔であえぎ続けていた。


「・・・あれが・・・あれが・・・あれが・・・」


 はあはあと息をついて、口もきけない。


「ここに来た目的、救出するはずの王女のなれの果てですね」


「たっ・・・たべちゃったんだ!ひどいよ、そんなの!」


 王子は青い眼に涙をためて叫んだ。


「僕が助け出して結婚を申し込むはずだったのに!


 もう数少ないお金持ちの適齢期の王女が、また一人減ってしまったじゃないか!」






『魔物にさらわれた王女を救出した勇者に、彼女を妻として与える』




 この地方最大の豊かな王国から、こんなが告知が出されたので、名乗り出た勇者の卵は、実に三百人を超えた。




「こんなチャンスはまたとないわ。頑張るんですよ」


 北の小さな王国で、年代物の旅行鞄に下着に寝間着、お弁当と、大事な息子の旅支度を整えながら、王妃は言った。


「魔物と戦うことなんて、僕にできるのでしょうか、母上」


 王子は不安そうに尋ねた。


「この間の剣技の評価はCクラスだったんですけれど」


 それも、教師にむちやくちゃ甘い点をつけてもらったのだ。


「大丈夫、あなた一人でそんな事出来るわけが無いのはわかっていますとも。


 強力な助っ人を付けてあげますからね」




 そう言うと王妃は、彼女の持参金の残りとこっそり貯めておいたへそくりで、王子のために名のある魔法使いを雇って、一緒に送り出してくれたのだった。




 まだ若く、顔色の悪い青年は、魔法使いというより無口な家庭教師のような雰囲気をしていた。


 しかし、腕の方は確かで、ダウジングロッドを使って魔物の跡を追いかけ、ひと月もかかって、やっとこの辺鄙な山奥の、切り立った崖の上にある、魔物の住処を訪ね当てたのだった。






 崖下のキャンプに戻り、魔法使いが焚火の傍に並べ始めた物を見て、王子は身震いした。


 血に染まったレースと錦紗の切れ端。ちぎれた首飾り。金髪の一房。


 魔法使いは見事なルビーのはまった指輪を、王子の方へ差し出す。




「紋章入りです。大事な証拠、なくさないように。


 これで王女の死が証明できる。


 あとは魔物を捕らえるだけです」


「と、捕らえるの?僕達が?」


 


 魔法使いはにこりともせずに言った。


「犯人を捕らえるか殺さなければ、手柄にはなりませんからね。


 王女を救えなかったのですから、せめて魔物退治の勇者の称号を手に入れませんと。


 魔物でよかった。


 これが竜だったらとても私たちの手には負えなかったでしょう。




 魔物の内でも獣形しかとれず、何より食欲を優先させるのは、魔力も弱く知力の低い奴等です。


 なに、心配はいりませんよ」




「暴力は、嫌いなんだ」


 若い王子はため息をついて言った。




 魔法使いは杖を立てて握ると、眼を閉じて集中する。


 魔物の残した軌跡を追っているのだ。




 やがて、眼を開いて言った。


「魔物はまだ、上の洞窟を使っているようです。


 あの泉で渇きを癒し、奥の窪みを寝所にしている。いつ戻って来てもおかしくない。


 ここに罠を仕掛けましょう」






 ふもとの村で聞き込んだところによると、ここに住んでいるのは巨大な黒い豹だという。


 村で雇えた勢子は、予算の関係もあってわずか六人。


 住処の周りに罠を張り、魔物の戻るのを見張って待つ。




 罠と人間たちに隠形の術を施して回り、疲れ果てた魔法使いは、キャンプに戻ると、近づいてきた勢子の斑の痩せ犬を邪険に足で追い払った。




 情けなさそうに尾をふってすりよって来た斑犬をうわの空でなでてやりながら、王子はため息をついた。


 見上げる犬に話しかける。


「僕の国は貧しいから、僕が金持ちの王女をみつけて結婚しないと、妹たちの結婚の持参金もないんだ。


 でも、僕のような王子って、世間にごろごろいるんだよね」




(本当は、まだ結婚なんてしたくはないんだ)


 ちっぽけな国の統治を学ぶより、建築や馬車の改良のような事に興味を持っている王子は、半ばあきらめ顔でつぶやく。


「結婚したら、いくらでも趣味でおやりなさいって母上はおっしゃるんだけれど。


 結婚なんかしちゃったら、草原の馬車レースを見る暇や、王都の寺院群や湖水地方の古城跡を調べて回る暇なんて、なくなってしまうに決まってるんだ」




 王子の愚痴を聞きながら、魔法使いもため息をついた。


 ひと月も一緒に旅をして来たので、王子の事はあらかたわかってしまっている。


 ブロンドというには暗すぎる、ゆるやかに波打つ髪を肩で切りそろえ、上等の衣服につつまれたすらりとした姿態を持った王子。 


 顔の造作も悪くなく、柔らかな弧を描く(おとがい)と少女のように大きくつぶらな青い瞳が美しい。


 少しばかり人に頼りすぎるきらいはあるが、素直で正直な少年だった。




 だが、それだけ。


 


 悪い王子ではないのだが、金持ちの王女に見初められるほどの魅力がない。


 どうにも覇気に乏しいのだ。




 競争相手を蹴散らして、王女のハートを射止めるような、個性も気力もないのだった。


 財政難の王国の、次期国王という重荷を背負っているのだから仕方ないとはいえ、この歳で人生を投げている。


(だが、王女の名にこだわるところが、まだ、夢のある若者と言えようか)


 妻にするのは金持ちならば美醜は問わぬ、田舎貴族の未亡人でも、商人の娘でも構わぬと言わぬところが、まだ苦労を知らぬ子供だ。




 


 夜明けの光が岩山を薔薇色に染めた。


 崖下のキャンプはまだ紫がかった影の中に沈んでいる。




 王子の足に頭を乗せて、寝袋に寄り添うように丸くなっていた痩せ犬の耳がぴん、と立った。


 頭を上げ、眼を見開いて空気を嗅ぐと、あわれな声をちいさく上げ、尻尾を巻き込んでこそこそと逃げていく。


 狩りに慣れた勢子たちが合図しあう。


(来た!)


(魔物が戻って来た)


(見ろ!空だ!)


 暁の空にぽつんと浮かんだ、黒い影。




 遠目では羽ばたく大鷲のように見えた姿はみるみる大きくなって、鷲とはバランスの異なるほっそりとした身体と長い尾がはっきりと識別できるようになり、やがてそれは蝙蝠の翼を持った巨大な豹だと知れた。






 岩山の上でしばらくホバリングすると、豹はゆっくり下降して地面に降り立った。


 大きな翼を震わせると、蝙蝠のそれのように折りたたまれ、さらに小さくまとまった羽根の塊は、魔物の肩のあたりに吸い込まれてなくなった。


 身軽になった魔物は、猫科の生き物のけだるげで優美な足取りで泉に向かう。




 ふと、その足が止まった。




 頭上の大枝から降って来た網が魔物にかぶさった。


 四方から駆け寄った勢子たちが重い鉛を仕込んだ端をおさえ、魔物の行動を封じようとする。




 黒い魔物の喉から笑いが、獣の獰猛なうなりではなく、人の、男性の、豊かで不敵な笑いが漏れた。


 同じ喉から続いて豹の咆哮が上がる。


 魔物はぐん、と体を起こすと、勢子たちを引きずったまま激しく身体を振った。




 凄まじい力だった。


 


 網と一緒に引きずられて、不運な勢子の一人が木に叩きつけられる。


 一人が脚を滑らせて崖から転落する。


 軽く振るった前足が、魔力を込めた網を蜘蛛の巣でも払うように引き裂く。


 残った勢子がわっと逃げ出した。




(しまった!)




 魔物の力が圧力波のように押し寄せ、その力量を悟って魔法使いは顔色を変えた。


 並みの力ではなかった。




 これは獣形しか取れぬ低級な魔物ではない。


 好んで獣形を取っている、高位の、強力な魔物なのだ。


(甘く見すぎたっ!)




 網を振るい落とした黒い豹は、ただ一人残った魔法使いと向き合った。




 青ざめた魔法使いは両手で杖を掲げ持ち、黒い獣と対峙する。


 魔物の金の眼は、身の程知らずの人間共への軽蔑と好奇心に満ちていた。


 獲物をなぶり殺しにして楽しむ、猫科の猛獣の眼。




 気押された魔法使いは、じりじりと後ろに下がる。


 魔物がずいと進み出る。


 


 ますます青ざめて、魔法使いが引く。


 背後はもう泉だ。


 後が無い。




 もう一歩進んだ魔物の前足が、前夜、魔法使いが丹念に編み上げて伏せておいた光の網に触れた。


 青白い光と共に激しい電撃の網が魔物を包み込んだが、捕らえるだけの力は無く、あっけなくバラバラにちぎれて吹き飛ぶ。


 だが、光に目のくらんだ魔物の動きが、瞬時止まった。




 すかさず魔法使いが捕縛の紐を投げつける。


 洗濯紐の束のような塊は、あっという間に解けて、魔物の四肢に絡みついた。




 たかが人間と侮った己の油断に怒り狂う魔物の力にも耐えて、魔法使いが唱える呪に呼応してギリギリと締まって魔物を縛り上げる。


 悔し気に一声吠えて、魔物が倒れた。




 駆け寄った魔法使いは呪を唱え続けながら、さらに魔物を締め上げる。


 大きな豹に似た魔物は怒りの唸りを上げてもがき続けるが、細い紐はびくともせずに魔物を抑え込んだ。


 観念したか、やっと魔物の動きが止まる。




 危ない所だった。


 魔法使いは冷や汗を拭った。


 これほど高位の魔物だとは思ってもいなかったのだ。


(大枚をはたいて捕縛の紐を買っておいたのは、正解だったな)


 魔法のかかったこの紐は、細くても絶対に切れる事はなく、相手が変身して逃げようとしても、伸び縮みして決して逃さないという優れものだった。




「大丈夫。捕まえましたよ、王子」




 隠れていた王子が感心した表情で近づいてきた。


 黒い豹の姿をした魔物をしげしげと眺める。


「こいつ・・・どうなるんだ?」


 根が動物好きの王子は尋ねた。




「王女の父上の胸次第ですが。


 市中引き回しの上、獄門さらし首っていうのが妥当な線でしょうな」


 


 王の一人娘とは、さらった相手が悪すぎた。


 おまけに喰ってしまったというのでは、弁解のしようがない。




「そうか・・・」




 王子は恐る恐る手を伸ばし、獣の天鵞絨のようになめらかな毛皮にそっと触れた。


「かわいそうにな。こんなに綺麗なのに」


「逃げてしまった勢子たちを集めて来ます。


 見張っていてください、王子」






 勢子たちはどこまで逃げたのか。


 だいぶ陽が高くなってきた。




『水をくれ、子供』


 呼びかける声に、王子はあたりを見回した。




 誰も、いない。


 縛られた獣が苦しげに喘いでいるだけだ。




『そうだ。私だ』


 低い柔らかな男の声は、頭の中に響いてくるのだ。


「僕は子供じゃない。王子だ」


 胸を張って言う少年に、獣は驚いたように金の眼を何度も瞬かせた。


『では、若き王子にお願いする。


 どうか水を飲ませてくれないか』




 水くらいなら、いいだろう。


 素直に腰の水筒に手をやった王子は、はたと困った。


 どうやって飲ませようか。


 手を出したらがぶりとやられそうだ。




『心配は、いらぬ』




 獣の姿がゆらいだ。


 上半身が飴が溶けるようにのびて人の姿になる。


 だが、それは失敗だった。


 四肢がひとまとめに縛られているので、海老のように曲がった不自然な形になってしまい、苦痛の声をあげてもう一度溶けた。




(こいつ、案外どじな奴だ)




 今度は首だけが人間になる。


 黒い毛並みの獣の身体に、男性の力強い首筋と、長いつややかな黒髪の頭部が現れた。


 四肢を縛られたまま体を起こし、端正な若い男の顔が王子を見上げる。




 睫毛の長い、つり上がり気味の黒い眼。


 気品ある通った鼻筋と、力強い顎の線。肉感的な大きめの口。


 だがその唇は渇き、美しい顔は苦し気にゆがめられて喘いでいる。




「水を飲ませてくれ、王子」


 苦しいのは芝居ではないようだ。




 水筒を口にあててやると、魔物はうまそうに水をむさぼった。


 噛みつかれないように慎重に離れて、王子は珍し気に魔物を観察する。




 首と胴の接点は、人間の白い肌に黒い剛毛が次第に密になって生えている。


 筋肉も自然な感じにつながって違和感がなく、最初からこの姿で生まれ出たようにバランスがとれて美しかった。




「美しい姿だろう?」


 心を読まれたように問われて、王子はぎょっとした。


 魔物も王子を観察していたのだと、気付く。




「私はこの獣の姿が好きなのだ。


 人の姿も見た目に心地よいが、力強く大空を駆け、毛皮に包まれた筋肉が躍動するのを感じる喜びは無上のものだ」


「お前は空を飛べるのだな」


 翼ある獣の姿を思い出して、王子は言った。


「飛びたければ大鷲にも、泳ぎたければ鯱にもなれる。


 だが、この黒い豹の姿が、一番私の本質の形に近いのだ」


 


 王子はほっと溜息をついた。


 意のままに姿を変えて、空を駆け、海に潜り、大地を走る。


 なんという生き方。なんという生き物。




 黒い魔物は、その唇に柔らかな笑みを湛えて言った。


「連れて行ってやろうか?」


「なに!」


「あこがれに満ちたお前の魂の色はとても綺麗だ。気に入ったよ。


 未だに無垢な、素直で優しい王子よ。


 私を解き放ってくれれば、お前を主と認めてやろう」


「私が、お前の、主?」


「知らぬのか?


 我等魔族は、主従の契約を結んだ相手に仕えるのだ。


 まあ、退屈しのぎのひまつぶしのようなものだが、我等は誓いは決して裏切らない。


 私の主となって、この力を使いこなしてみるがいい」




 人の良い王子はためらった。


「だが、お前は王女を殺して食べるような悪い魔物だ」


(おかげで僕の結婚相手の候補が、一人減ってしまったんだぞ)




 獣の身体をした男は低く笑った。


 ぞくぞくするような官能的な声で。


「人間の善悪の基準など、私の知るところではない。


 腹が減れば、人でも何でも喰う。


 だがあれは、飽食して太りすぎた、まずい女だった。


 脂っこい精気に辟易して、胸が悪くなったぞ。もう二度と口にしたくないな。


 お前が主となって命ずるなら、私はもう人を喰らう事はしない」




 魔物の声は、女の愛撫の手のように柔らかく王子に絡みついた。


「さあ、どうだ?


 私の力が要らぬというのか?


 多くの人々が騙し、裏切り、同胞を殺してまでも求める、魔族の契約、我の力が要らぬというのか?


 さあ、契約しろ。


 そして私を解き放ってくれ」




 〔解き放ってくれ〕


 そうか、こいつは逃げたいので私を騙そうというのだ。




 急に強張った王子の顔を見て、魔物はひょいと眉を上げ、くすくすと笑った。


 まあなんと、素通しに心が読めてしまう、素直な子なんだろう。


 大人になって、臣下の言いなりに振り回される気弱な王になるのが目に見えるようだ。


 この綺麗な夢に満ちた魂が、閉じ込められて腐ってしまう。




 魔族が決して持ちえぬもの。


 つかの間の短い人生の間に、たとえようもなく煌めき輝いて消えていく、人間の魂というこの不思議なものに、魔物はいつも魅せられてしまうのだった。




「私は嘘はつかぬ。王子よ。


 我等魔族が従うのは、己の口にした言葉のみ。


 魔族は己の誓いを決して破らぬのだ。


 私も、お前も、求めるものは一つ。


 己の心のままに、自由に生きる事ではないのか」




 ・・・自由。


 王子は憧れのため息をついた。




 だが、どうしたらいいのだろう。


 呪のかかったこの紐は、あの魔法使いにしか扱えないのだ。




「口づけしてくれ、王子」


 魔物は微笑んでささやいた。


「お前はあの魔法使いの雇い主。


 お前が私の主となれば、この縛めは効力を失うのだ」


 


 黒い魔物の黒い瞳が輝く。


「さあ、私に口づけしてくれ、王子」


 魔物の形の良い唇がささやく。


 なんと美しい顔。なんと力強い姿。




 思考力を失ったように近づいた王子に、魔物は顔を寄せ、かぐわしい息がかかるほど近くで言った。


「王子よ、あなたと契約しよう。


 今この時より、あなたを我が主とし、お仕えする」




 促されて王子は魔物と唇を合わせた。


 魔物が舌を入れて来る。


 熱い舌先が触れ合い、戸惑った王子は赤くなって顔をそむけた。


 柔らかな頤を捕らえ、魔物が再び唇を重ね、深く舌を入れて王子の舌を嬲る。


 


 その身を貫く思いもかけぬ快感に、頭をくらくらさせながら王子は言った。


「こ、これが契約の印なのか?」


 魔物は深く笑った。


「違う。これはただの私の趣味だ」


 驚いて身を引こうとした王子は、いつの間にか魔物の縛めが解け、人型に変わった魔物の腕の中にいるのに気付いた。


 浅黒く、逞しく、しなやかな身体で王子にのしかかるように身を屈めた、黒髪の美貌の青年の腕の中に。


「ご命令を、我が主よ」


 揶うように言うと、それは激しく王子の唇を奪った。


 官能の大波が王子を飲み込み、深みへと攫っていった。




 魔物が片手を振ると、二人は一瞬で上の岩窟へと移動する。


 だが。薄暗い岩窟は水晶きらめく鍾乳洞に姿を変えて、何層にも重ねられた薄物のカーテンの向こうには、絹と毛皮で出来た豪奢な褥が整えられている。


「その手に何を掴んだのかを、じっくり教えてさしあげよう」


 王子の耳元で、黒髪の青年が甘くささやいた。






 勢子たちを連れ、再び崖を昇って来た魔法使いは、わっと言う叫び声に顔を上げた。


 崖の上の、洞窟の入り口に、黒い豹の姿が現れたのだ。




(捕縛の紐が切れた!?)




 王子の身を案じて、青ざめる。




 だが続いて少年が姿を現し、逞しい黒い獣の首に手を置いた。


 獣が振り返り、深い豊かな声で言った。




「さあ、行こう。


 おまえの好みの王女を、私が見つけてやる」


「王女?」


 一瞬何のことかわからず、少年は獣を見つめた。




 晴れ晴れと笑って、その背にまたがる。


「王女なんか、もういらない」


 少年を背に乗せた巨大な豹が、崖から身を躍らせた。


 躍動する獣の、輝く美しい姿態。


 その背にするりとのびた黒い翼がばっと開き、風を捕らえて、ぐん、と大きく撓う。


 二度、三度、力強く大気を打って体を安定させると、獣は見事な頭を大空に向けた。




 地上の人々に一瞥も与えず。




 風をはらんだ大きな翼を拡げ、空の高みへと駆け上がる黒い獣にうち跨って、王子は勝ち誇った叫びを上げる。


 少年だけに可能な、夢と冒険への期待に満ちて、燃える頬。煌めく瞳。




 魔法の視力で逆光の中でも王子の姿をしっかりと捕らえた魔法使いは、その鮮やかな変貌に眼を見張った。


 別人のように花開いた少年が、誇らかに笑う。


「こいつと世界中を回るんだ!


 僕みたいな王子はごろごろいるけど、こんな綺麗な相棒のいる冒険者は僕だけだ!


 僕一人だけだ!!」




 声は次第に遠ざかり、二人は空の彼方に点となり、消えていった。






 ・・・・・・。




 あの生気に満ちた姿なら、どんな王女でもなびくだろうに・・・。


 魔法使いはため息をついた。


 正式に契約をしたようだから、あの王子に危害はなかろうが・・・。


(これで私は失業だな)


 足元の捕縛の紐の端をつまみ上げる。




 捕縛の呪をかけた紐は、宣伝どおり、絶対に切れなかった。


 淡雪のように溶けたのだ。


(三年分の給金をつぎ込んだのに)


 出奔してしまった王子への、羨望と嫉妬が胸を焼く。


(ルビーの指輪を渡すんじゃなかった)


 王女を発見した証拠も消えた。


 魔物退治の勇者の称号もパアだ。


(私の肩書に箔をつけるチャンスだったのに・・・)


 彼くらいのレベルの魔法使いは、それこそ世間にごろごろいるのだ。




 この先の厳しい就職活動を思って、もう一度深いため息をつくと、げっそりした魔法使いは、待たせている勢子たちのほうへ戻って行った。




                                おしまい

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