氷の『悪役令嬢』は、平和主義者の転生モブ男子を逃さない
「わたくしを呼び出したのは、貴方かしら。ジル・マークス?」
声をかけると、裏庭の先客ことジル・マークスは、あからさまに驚いた顔でセリーナを見た。
王立リーンデルク魔術学園の、校舎裏に設えられた薬草園。普段は殆ど人気がないここに来るように──と、魔術による封がなされた手紙で呼び出され、セリーナはそれに応じる形でここに来たのだ。驚かれる理由はないはずだが、と微かに眉を寄せると、ジルは慌てたように軽く頷く。
「そうです。そう、ですけど……あの、えーと、お供の方とかは?」
「? ひとりだけど……そういうものではないの?」
セリーナは公爵令嬢だ。主に貴族が学ぶこの学園では、授業時間外に於いては、身の回りの世話をするための付き人を伴うことが許可されている。ジルが言っている『お供』とはそのことだろう。
けれども──それが、今日この場に相応しくないことぐらいは、学生生活からはどうしても浮き上がった存在で居続けたセリーナにもわかる。
明日、セリーナは、この学園を卒業する。
セリーナの同級生であるジルも立場は同じで、かつ、明日は卒業式の後にダンスパーティーが予定されており、個人的な時間をとる余地がない。学園内で内密に話をしようとするなら、今日が最後の機会なのだ。セリーナの返しに、ジルは理解したようなしていないような顔で「あー……? まあ、好都合ではあるか……」と小さく呟いて、改めてセリーナに向き直る。
「えーとですね、お時間とらせても申し訳ないので、手短にいきますね」
「はい」
ジルは辺りを見渡して、人気がないことを再度確認したうえで、小さく潜めた声でこう言った。
「セリーナ・ルーベルデン公爵令嬢。あなた、殿下に陥れられそうになってます」
殿下。
というのは、セリーナの婚約者である王太子──エドウィン・リーシャスのことだろう。セリーナが瞠目する前で、ごく淡々とジルは続ける。
「昨日、ここで殿下とその取り巻きが密会してるのを、偶然聞いてしまいまして。殿下は明日、ダンスパーティーの会場にて、貴方に『婚約破棄』を通告するつもりです。理由はまあ……色々とでっちあげているようですが」
「わたくしが越権行為を行なっているとか、リリー子爵令嬢を害しているとか?」
「あー……まあ、そんなところですかね」
なるほど。セリーナは思考を瞬時に切り替え、軽く額を抑えて嘆息した。なるほど。
「……愚かな人」
エドウィンが、リリーに熱を上げているのは知っていた。セリーナに公務を押し付けておきながら、王宮での存在感を増していくセリーナに、劣等感を抱いていることも。
だからといって、というべきか、だからこそ、と言うべきか。エドウィンの言い分に理がないことなど、誰の目にも明白だ。
「わたくしがやっていたのは、あくまで殿下の『代行』としての業務。宮廷の承認を得たものです。それに、わたくしは愛人にまでとやかく言うような女ではありませんわ。リリー嬢との関係を続けたいのなら、形だけどこかの夫人に収め、愛妾として囲えば良かったでしょう。そのほうが、彼女のためでもあるというのに……それでもなお殿下は、わたくしとは結婚したくないのですね」
「……あー……信じられません?」
「いえ」
分のない賭けだということに気づかないほど愚かだったのか、あるいは──セリーナは、明日には『元』がつくだろう婚約者の、美しい、けれどもどこか弱気にも見えた笑顔を思い出した。
「……元々、好かれているとは思っておりませんでした。それを問題と見做さなかった、わたくし自身の問題でしょう。……とはいえ」
あるいは──と、考えないことはないけれど、彼の内心を慮ってやれるタイミングは、もはや過ぎてしまっていた。
そもそも、王妃とは、愛によってなるものではない、『職業』と言った方が正しい立場だ。その上、たいして旨味のある仕事でもない。リリーにとっては苦労が増すばかりだろうに、どうして茨の道を行こうというのか。まさかそれが『真実の愛』だとでも? セリーナは内心で深々とため息を吐きながら、今後の段取りのために思考を巡らせる。
「彼がそのように判断する──私情を最優先する人物であるとわかった今、彼を王位につけるわけには参りません」
「まあ、そうなりますよね」
「知らせてくれて助かりました。あとは、こちらでよしなにしておきますわ」
「あの。……一応、どうするつもりか聞いてもいいですか」
尋ねられ、セリーナは軽く眉を上げた。
詳細を聞くことは、巻き込まれるということだ。伝えるだけ伝えて逃げるほうが懸命である、と、わかっていない男とは思わなかったが。セリーナの沈黙をどう受け取ったのか、ジルが慌てたように付け加える。
「いや、俺のようなものに話せないならそれはそれで」
「……いえ、構いませんわ」
「いいんですか? ……というか、話もすぐに信じてくれましたけど、俺が嘘をついているとは思わない?」
「平穏を愛する貴方が、なぜ、そのような嘘を?」
「……!?」
セリーナが小首を傾げると、ジルは、明らかに警戒する素振りで眉根を寄せた。──気づいていないと思ったのだろうか?
ジルは伯爵家の次男で、学業・魔術・武芸すべて、取り立てて目立つところのない生徒である。深緑の髪は癖もなくさらさらで、同色の瞳は凛々しく切れ長。上背もあり、十分に整っていると言っていい容姿をしているのに、『目立たない』のだ。そうであろうと意図しなければできない芸当である。
そしてセリーナは、そんな彼が、学級内のトラブルを未然に防ぐため──例えば、それこそ、リリーの件がそうだ。彼は身分が低く魔術以外の成績がからきしのリリーが周りから浮かないよう、単純で気の良い侯爵令嬢をリリーの友人として宛てがい、その交友関係をサポートしていた──裏から手を回していたことを知っていた。
「わたくしは、学園の運営と殿下の公務のフォローとで、学級内の人間関係にまで手が回っておりませんでした。貴方の目配りには感謝しております」
「……まあ、なんだ、貴方の言うとおり、俺は平穏が好きなんですよ。特別なことをしたわけじゃない」
「そういうことにしておきますわ。……そんな貴方ですもの。王家と我が公爵家の対立など、避けたいに決まっているでしょう?」
ルーベルデン公爵家は、遠く王家の血も流れ、広く肥沃な領土を持つ、国内で並ぶものない勢力を誇る家である(どうやら、最後まで、エドヴィンにはその重要性が理解してもらえなかったようなのだが)。もし本当にエドウィンがセリーナとの婚約破棄など言い出せば、ルーベルデン公爵家は完全に面子を潰されたことになり──その後の展開によっては、武力衝突さえありうるだろう。子どもの色恋ごときでだ。セリーナは溜息をつき、この後の展望、『どうするつもり』かをジルに語った。
「幸い、先に手を打てることになりましたから。父上にご報告し、エドウィン様には『ご病気』になっていただくことになると思いますわ。気鬱の病ですわね。しばらくしたら、回復の見込みがないということで、王太子を第二王子殿下に交代頂き……エドウィン様をどうなさるかは、陛下のご判断次第でしょうが……療養先にリリー嬢を連れていくことも、不可能ではないでしょうね。我が家とは、第二王子殿下にわたくしの妹が嫁ぐ……という形で、手打ちとなるかと思います」
「……貴方ではなく?」
「第二王子殿下に? ありえませんわね。それでは、わたくしの──公爵家のほうが格が上のようになってしまいますわ」
エドウィンがセリーナに相応しくなかった──セリーナの立場が優先されたような印象は、いくら事実であれ、王家としては避けたいだろう。
では、セリーナはどうなるのか?
「わたくしは、ほとぼりが冷めた頃に、国外にでもいい話があれば……あるいは、神殿に仕えてもいいかもしれませんわね」
セリーナは、正式に婚約が決まる十五より前からずっと、エドウィンの婚約者と目されてきた。婚約期間が長すぎたのだ。いまさら他の誰かに、という話になって、手を挙げる家があるとは考えにくい。──それに、と、セリーナは我が身を顧みた。
セリーナに明らかな落ち度がなくとも、エドウィンがリリーを選んだのは事実である。それはつまり、セリーナに魅力がないということだろう。王太子妃に相応しいだけの外見は維持してきたつもりだったし、必要な教養は全て身につけ、王太子の代行をこなせる程度の能力もあるが、それらが人間的魅力と直結しないことはセリーナにもわかる。
『──お前といると、たまに、疲れるよ。いつでも品定めされているような気持ちになる』
思えばあれが、エドウィンがセリーナに溢した、唯一の本心だったのだろう。セリーナは今更反省した。プレッシャーをかけているつもりはなかったが、エドウィンにとってはおそらく、セリーナの存在そのものがプレッシャーだったのだ。
セリーナは、誰かと結婚することそのものに、きっと向いていないのだろう。『王妃』としては完璧であろうとしたし、内向きの部分は愛妾がカバーしてくれると思っていたのだが──男性というのはおそらくセリーナが思うよりロマンチストで、きっと、業務上のパートナーからも、愛や癒しのようなものが欲しかったのだ。
だとするならば、誰かを愛したり慈しんだりすることが向いていないセリーナは、結婚そのものをしないほうがいい。神殿に入り、幸にしてそこそこ豊富な魔力で神官として国の役に立つほうがいいのだろう。そのようなことを口にすると、ジルは微妙な顔をした。
「……あんたは、そうしたいのか?」
「え?」
「そういう話なのか……? お仕事もの……? 確かに、セリーナほどの力があれば、神官としてチート的な出世を果たしたり、バトル展開で俺ツエーしたり、予期せぬ世界の危機を救ったり、そういう展開もありうるか……?」
「はい?」
「いやしかし、女性神官は男性と違って独身を通すのが常で……悪役令嬢もので恋愛要素がないってことはないだろ……?」
「あの……?」
かと思えば一人で何やら呟き始めるジルに、セリーナはきょとんと目を瞬く。いきなり『あんた』『セリーナ』と呼ばれた衝撃と耳慣れない単語の羅列とで、俄かに内容が飲み込めない。ジルはしばらく考え込むように小さく唸り、それから、意を決したようにセリーナを見た。
「あんたが、それでいいならいいんだが、……でももし、それが、家とか国とか世界とか、そういうものを優先して考えた結果なら、考え直したほうがいい」
「……はあ……?」
思わず令嬢に相応しくない声が出たのは、あまりに理解が難しいことを言われたからだった。家とか国とか世界とかを優先して?
──そういうものを第一とせず、一体、何を基準に考えろと言うのだ? セリーナの疑問に答えるように、ジルは、強い確信を込めた声で、まるで託宣みたいに厳かに言った。
「主役は、あんただ」
深い緑色の瞳に、セリーナの姿だけが映り込んでいる。
それがまるで、年相応の少女の、どこか狼狽えたような顔をしているから驚いた。──王家に連なるものとして、己の感情を詳らかにしないことが、体に染み付いているはずなのに。
「だからあんたは、国のことやら家のことやらなんて考えず、やりたいようにやっていい。……いや、なんだ、それが、ほんとうにあんたの『やりたいこと』ならそれでいい、んだが、……」
と、途中から急速に勢いをなくしたジルが、最後にはもごもごと口を閉ざす。そうして、バツが悪そうな顔を片手で隠して、「悪かった、なんでもない、それじゃ」とこれまたもごもごと言い──話は終わったとばかり、くるりと踵を返して立ち去っていった。
そうして一人残されたセリーナは──ようやっとのことで、こう思った。
──なんだか、思っていたのと違う話でしたわ、と。
* * *
あーーーーーー、と、ジルは宿舎の部屋に転がって頭を抱えた。やってしまった。思い出したくない黒歴史がまたひとつ増えた。
ジル・マークス。──お察しのとおり、転生者である。
転生前の最後の記憶は、何の変哲もない一人暮らしの1DKだ。両親が早逝し、祖父母に育てられ、大学を出てシステムエンジニアになった俺は、ごく普通に出勤の支度をしていたはずだった。
……そこからの記憶がない、ということは、きっと俺は、日頃の不摂生が祟って倒れたのだろう。享年三十。早すぎる死ではあるが、さほど未練も感じないのは、オタクでコミュ障だった俺に、未練を持つほどの存在がいなかったからだった。
さて、そんな俺なのだが、生まれたときから前世の記憶があった──というわけではなかった。
俺が前世を思い出したのは、十五になり、王立リーンデルク魔術学園に入学した日のことだ。
その日、俺は、運命に出会った。
セリーナ・ルーベルデン公爵令嬢。その美しい銀髪、澄んだ氷のような薄い水色の瞳、冷たくも凛とした顔立ちを見た瞬間──俺の脳裏を、存在しない数々の記憶が駆け巡った。ハマっていたソーシャルゲームの推しキャラ、好きだったラノベのツンデレヒロイン、好んで見ていたVチューバー……数多の『銀髪美少女』が、こちらを見て微笑んでいる。
そして、俺は思い出したのだ。──俺が、銀髪ロングの美少女に目がない、限界オタクだったということを。
そして同時に、急遽インストールされたオタク脳が、己が現在置かれている情報を、自動的に解析した。やたらキラキラした外観と制服の魔術学園。十分に文明的でありながら、都合のいい『魔術』と『貴族階級』が存在する世界観。冷たい美貌の──王太子の婚約者である少女。頭の軽そうなイケメンの王太子。身分の低い、目立つ容姿をした可愛らしい少女。
(これは──これは、いわゆる『悪役令嬢モノ』の世界なんじゃないか……!?)
じゃないか、と、あくまで推測だったのは、俺がこの世界について全く思い当たるところがないからだった。世界観もキャラクター名も、ひとつもピンとくるものがない。そもそも俺は男性向けコンテンツしか消費していないオタクだったからそれもやむなしだろう──が、前世のオタク知識が、『実際に悪役令嬢が出てくる乙女ゲーというのはほぼ存在せず、悪役令嬢とは悪役令嬢のための設定である』ことだけは教えてくれた。
もしそうだとするなら、この世界のヒロインはおそらくセリーナだ。俺は──高すぎず低すぎずの身分と、改めて見れば整った容姿を鑑みるに、おそらく『正ヒロイン』に籠絡されるモブキャラの一人といったところだろうか?
(もし、そうだとしたら──この先、もしや『ざまぁ』展開が発生してしまう……!?)
それはマズい。悪役令嬢モノの『ざまぁ』はかなりエグい──公開処刑(物理的な意味でも立場的な意味でも)やら一族郎党路頭に迷うやら──ものが多かったような気がするし(勿論、作品によるところも大きいが)、自分がそんな目に合うのは勿論ごめんだ。というか。
そもそもの大問題として──俺は、『ざまぁ』が大の苦手なオタクなのである。
これはもう単純に好みの問題で、俺はとにかく、それがたとえ愚かな悪役であっても、誰かがひどい目にあっているのを見るのが嫌なのだった。
そもそも、自分自身、若いときの黒歴史のひとつやふたつやみっつあるわけで(コミュ障オタクだったので恋愛に関するものはひとつもないが、それは俺がモテなかったがゆえの幸運というものであって、これで告白なんぞされるようなことがあればそちら方面でだって死ぬほど黒歴史を作っていただろう)、せいぜい高校生ぐらいの男女のイキった言動が国家レベルの問題になるとか怖すぎる……という感想が先に来てしまう(親の教育が悪い、とかの方面に波及していくのも、親側の心労を考えて辛くなってしまう)。なんとも打たれ弱いオタクである。大丈夫か俺、『悪役令嬢モノ』世界でこの先生きのこれるのか俺?
否。
生き残らなければならないのだ。
たとえ前世を思い出したところで、前世は前世、十五年生きてきた『ジル・マークス』は『ジル・マークス』だ。俺は俺として、この世界で生きていかなければならない。ならばどうするか。俺はない頭を必死で捻り、とりあえず、三つの行動指針を立てることにした。
ひとつ。巻き込まれて『ざまぁ』されるのを避けるため、『正ヒロイン』には近づかないこと。
ふたつ。なるべく『ざまぁ』が少なくなるように、『正ヒロイン』や『王太子』サイドに、罪を犯させないようにすること。
そしてみっつ。
(なにより、一番大切なのは──……)
俺は、セリーナの横顔を見た。
ごく自然体でありながらぴんと伸びた背筋、美しく梳られきらきらと光を放つようですらある銀髪。少しの隙もない完璧な美貌に、内面の気高さが滲み出ている。理想が画面から飛び出してきたかのような姿を、遠くから見るだけで気絶しそうだ。近づくことなんて出来るはずがない。
きっと誰かと幸せになる、この物語のヒロイン。
その姿を、こうして遠くから眺めることが出来るだけで、この世界に生まれてきた意味がある。俺はしみじみとそう思い、こっそりと彼女を拝んでおいた。
……ともあれ、『原作』を知らない上、モブに毛が生えたようなキャラクターであろう身の上では、できることにも限界がある。
俺はそれから三年間の学校生活を、そのふわっとした指針に従って、波風を極力立てず、また自身が目立たぬようにと心がけて過ごした。『正ヒロイン』たるリリーに目をつけられ、物語の強制力みたいなものに巻き込まれるのが嫌だったからだ。同じようにセリーナからも距離を取ったのはまあ、同じような理由……よりは、恐れ多くて推しに近づけない、という思いの方が強かったかもしれない。
強い光は、遠くから眺めるぐらいがちょうどいい。ましてやお近づきになろうだなんて思えるわけがない。俺の前世は彼女いない歴イコール年齢の限界オタク、外見がイケメンになっていようと中身の残念さに変わりはないのだ。俺はただセリーナが学園の頂点に君臨し下々に笑顔を向けているのを、下々の一部として享受できているだけで十分だった。今日も俺の推しが強く美しい。
そうして、自分自身はリリーたちに接触しないように心がけつつ、リリーがセリーナの信奉者たちに迫害されそうになれば、気のいい令嬢をそれとなくリリーの友人にして防がせた。エドウィンの公務放棄には『学業優先』の印象がつくようにしたし、エドウィンが明らかにリリーに本気でも、『公私のパートナーは別』と、エドウィンとセリーナ双方の名誉へのダメージが最小限になるようにそれとなく世論を調整し、また、リリーの存在が学園外に知られないよう骨を折ったりもした。
そのおかげで、なのかどうか。学園生活は大きなトラブルもなく、エドウィンとセリーナの間も、良くも悪くも何もないままに、三年間はつつがなく過ぎた。
──過ぎたはずだった。だから。
「……セリーナに、婚約破棄を通達する」
休息の場として使用している裏庭にて、エドウィンの声が聞こえてきたとき、俺は心底驚愕した。
そんなまさか。いくらなんでも。──これが、『物語の強制力』であるとでもいうのか!? 愕然とする俺の内心を代弁するみたいに、エドウィンの腰巾着──側近──が「本気ですか」と尋ねる。
「流石に、その、……無理があるのでは」
やっぱりそうだよな! うんうん! 俺の安堵を打ち砕くみたいに、「わかっているけどね」とエドウィンが言う。
「こうするしかないんだ。……愚かなことだと思うけどね。僕は、『賢妃セリーナの夫』と扱われる続けることに耐えられそうにない」
エドウィンの声は静かで、そこには、悲壮ともいえる覚悟があった。
「もっと早くこうするべきだったんだよ。僕が世継ぎの器じゃないことを、みんな知ってた。だからセリーナをあてがったんだ。そうする前に、僕のほうをすげ替えるべきだったのに。……セリーナにおんぶにだっこで、玉座でにこにこ笑っているだけで、楽な立場だと羨むものもいるだろうけど」
そのとおりじゃないか、と俺は思う。あんなに美しく気高い妃が横にいて、自分は何もしなくてよくて、なんなら可愛い愛人までいて、そんな素晴らしい人生のどこに不満があるんだ? ──思いながら、同時に、『理解できる』という気もした。
理解できる。──幼少期よりずっと、『資質に欠ける』と判断されて、同年代の少女の補助を受け続ける……それが、思春期の少年にとって、どれほど自尊心を傷つけることなのか。
「僕はもう、それに耐えられない。……明らかに『足りない』、けれども長子相続の原則を破ってまで王太子の座から外すほどでもない、そんな僕がこの立場から降りるには、明らかな瑕疵が必要だ。隠し立てできないぐらいの瑕疵がね」
「しかしそれでは、……御身が」
「流石に殺されはしないと思うよ。廃嫡の後幽閉か、僻地にやられるか。できれば後者がいいけど」
エドウィンは軽く肩をすくめて、どうやら、軽く笑ったようだった。
「リリーには話してある。……ついていく、と言ってくれたよ。一緒に羊でも飼いましょうって。逞しいよね。……子どもは作らないという条件で、彼女も連れていきたいけど、どうかな……」
「っ、それが望みであれば、なおのこと……!」
「うん。リリーといたいだけなら、こんな騒ぎを起こす必要はないよね。セリーナはリリーの存在を許していたから。……でも」
エドウィンの声が、少しの暗さを帯びる。
「僕には、リリーがいてくれる。……じゃあ、セリーナには?」
俺は息を呑む──俺が考えたこともなかったことを、今、エドウィンが言っている。
「国民は、『世継ぎを残すため』とかなんとか言って、僕の浮気には寛容だ。でも王妃は駄目だ──酷い非対称性だと思わないか? 僕もセリーナも、お互いを愛していないという条件は同じだ。それなのに、僕は誰かを愛することができて、セリーナにはそれが許されないなんて」
確かに、と、俺は思った。
俺は、『婚約破棄が行われないこと』が、八方を丸く収める方法だと考えた。悪役令嬢モノには元々不仲だったはずの正ヒーローに溺愛されるタイプのものも多く存在するから、二人の中が悪化せず、エドウィンがセリーナの魅力に気づきさえすれば問題ないだろうと思ったし──なにより、『ざまぁ』嫌いの事なかれ主義が、俺にその思考をさせたのだ。
しかし、だ。
しかし──これが本当に『悪役令嬢モノ』の世界であるなら、『婚約破棄』は、寧ろ必須イベントと言えるのではないか。婚約破棄までは物語の『フリ』にすぎず、婚約破棄をきっかけにヒーローと出会う、そういうシナリオのほうが圧倒的に多いのでは?
だとしたら?
(俺は──セリーナのサポートをしていたつもりで、実際は、セリーナの幸福の邪魔をしようとしているんじゃないか……!?)
だとしたら──それは、取り返しのつかなすぎる過ちだ。愕然とする俺の耳に、「だからね」と、ごく淡々としたエドウィンの言葉が入ってくる。
「僕はこれが、お互いのための、最良の選択肢だと信じるよ。──僕はセリーナから解放され、セリーナも僕から解放される。そうするべきなんだ」
俺の過ちは。
まだ、取り返しがつくだろうか。エドウィンたちが立ち去ってからも、俺はひたすらにそれを考えていた。
(……そして俺は、エドウィンの計画をセリーナに伝えることを選んだ。事前にセリーナに伝えることで、『大勢の前での婚約破棄』ではない、もっと穏当な落とし所を見つけるために)
セリーナの幸福のために『婚約破棄』が必要なのだとしても──決して自分自身のためだけでない、セリーナのためも思ってエドウィンが『婚約破棄』を選択したことを知ってしまった今となっては、やはり俺は、その馬鹿げた喜劇を避けたいと思ってしまうのだった。ふたりの婚約が破棄されるとしても、それは、もっと互いが傷つかないように行われるべきだ。俺はそう判断し、セリーナを呼び出した。
そうして、エドウィンの計画を伝える際、エドウィンの動機──『セリーナの隣でプライドが傷つき続けることに耐えられない』と、『セリーナは外に愛する人を作れないのに、自分はセリーナを愛せない』──を伝えなかったのは、それがセリーナをより傷つけるような気がしたからだったのだが……きっとセリーナは、薄々感づいてはいたのだろう。
ともあれ俺は、『婚約破棄』が順当に行われそうなことに胸をなでおろし、そしてもうひとつの──最大の懸念に手をつけた。つまり、この先のセリーナの話だ。
婚約破棄が行われたとして、セリーナにとってのヒーローは、きちんと現れてくれるのだろうか?
セリーナの答えは、なんとも煮えきらないものだった。『国外にでもいい話があれば、あるいは、神殿に仕える』。なるほど、前者はいかにもありそうな話だ……が、後者は? 神殿に仕える、とは、神の巫女となり、魔術を使った任務に従事するということである。なるほどそういうお仕事モノもあるかもしれないが。
あるかもしれないが──なにせ、『神の巫女』なのだ。巫女は結婚できないのである。
それはだめだ。いや恋愛脳と言われるかもしれないが、『悪役令嬢モノ』に恋愛がないパターンは、なくはないかもしれないが多くもないだろう。俺は焦り、そして、気づいたら、馬鹿みたいなことを口にしていた。
「主役は、あんただ」
馬鹿みたいな、でも、ただの事実であり本心だった。主役はセリーナだ。強く美しく気高いセリーナ。
俺にとっての、いちばん大切な行動指針。俺は──俺はセリーナに、幸せになって欲しかった。しかし、それ以上に。
王妃たるに相応しいセリーナの努力が報われ、彼女が彼女自身の意志で我が道を進めるような、そんな生き方をして欲しかったのだ。
……そうして俺は、セリーナに言いたいことを言い、──激しく後悔して、今、ベッドでのたうち回っているというわけなのだ。
「やらかした……もっと良い伝え方と言うか……あー……」
いくら唸っても後の祭りだ。できることはやった。
あとは──あとはまた、成り行きを見守るしかないだろう。セリーナが何を選択するのか。その答えが何であれ、俺はただ、俺の指針に従って動くだけなのだ。
* * *
卒業記念のダンスパーティーは、エドウィンとセリーナがダンスを踊らなかった、という以外は、なんのトラブルもなくもなく執り行われた。
その、ひと月後──エドウィンは無事王太子の座を追われ、リリーと共に療養のための名目で僻地に飛ばされた。新たな王太子第二王子が、その婚約者にセリーナの妹が迎えられ──すべてはセリーナの語ったとおりの顛末をたどり、王宮の騒ぎもやっと落ち着いた頃。
俺の家に、ひとりの訪問者が現れた。
「ジル・マークス。わたくしと、結婚してくださいませ」
セリーナ・ユーベルデンが、俺の推しが、輝くような笑顔で眼の前にいる。
「やりたいこと、と言われて、わたくし、色々考えましたの。それで、わたくし、家を継ごうと思いまして」
なにひとつ理解できない俺の頭を、美の暴力が追い打ちのように襲い続ける。きらきらしている。
「ですが、我が国では、女性当主の存在が認められておりません。ですから、必要なのです。私の婿となり、ユーベルデン公爵になってくれる──そのうえで、喜んでわたくしの傀儡になってくださる方が」
にっこり、と、セリーナは、今まで見たこともないぐらい楽しそうな顔で笑った。蒸発しそうだ。大丈夫か? 俺は今、物理的に、人間の姿を保てているか?
「……わたくし、あなたに呼び出されたとき、告白なのかと思ったんですの。お友達に、『卒業前にこっそり呼び出して告白する』、そういうお話が流行りだと聞いたものですから。……だから本来は、応じるべきではなかったのです。わたくしはあのとき、まだ、婚約者のいる身の上だったのですから」
氷が触れ合うときのような、冷たくも軽やかで美しいセリーナの声が、なにか、大切なことを言っている気がする。聞かなければならない、彼女の言葉をなにひとつ逃したくない、そう思うのに、頭はちっとも働かない。
「でも」
何か──彼女は何か、大事なことを、俺に伝えようとしているはずなのに。
「わたくしは、供のものも連れないという選択をして、ひとりであなたと会うことを選んだ。……思えばあの時から、わたくしは、あなたを選んでいたのです」
それが、どういう意味なのか、わからない。わからないままの俺に、セリーナが問う。
「良いお返事を、いただけますわね?」
なによりも優先される、俺の指針。
みっつ、──セリーナ・ユーベルデンが、彼女の意志を遂行できるようにする。
故に、俺に拒否する選択肢はない。俺はぎこちなく首肯してセリーナに応じ、セリーナはそれに満足気に笑って──こんなに美しく笑う彼女を愛せないエドウィンはやはりどうかしている、の思いを新たにした。
……なにせ、そのときの俺は、セリーナがこんな笑顔を他人に見せるのがはじめてである、ということなど、当然、知る由もなかったし。
先程の『告白』のエピソードによって、セリーナが俺に愛を告白しているつもりだということも、当然、気づいていなかった、ので。
そのため──最初の言葉通り、俺はセリーナに『都合の良い傀儡』として選ばれたのだと思い込んで──すれ違いに周りを巻き込んだ大騒ぎを起こしたり、ついでにセリーナが『悪役令嬢』らしく無双したり世界を救ったりすることになるのだが──それはまた、別の話、ということにしておこう。
なろうでは初投稿です。よろしくお願いします。
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