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サレ妻のタイムリープで夫は変わるか。水瀬織江(前編)

 豪雨の中、傘も差さずにうずくまっている女性がいる。

「大丈夫ですか?」

 羽織纏はおりまといが声をかけた。右手に持っている傘を彼女の頭上に掲げる。

 女性は見上げ、纏の端正な顔に少し驚く。泣いていることが悟られないよう、すぐに顔を伏せた。

「よろしければ、そちらの建物で話しませんか?」

 纏の提案に、女性は宗教の勧誘ではと疑うが、従うことにした。


 **


 *


「また、お義母さんから、『子供はまだか』って言われたよ?」

 水瀬織江みずせおりえは困り顔で言った。

 夫の水瀬悠真みずせゆうまと結婚して三年経過するが、いまだにご懐妊はない。

「ふうん」

 夫はリビングのソファーで横になり、妻の方を見ようともしない。熱心にスマートフォンを操作していた。

(子供ができない理由はわかっている。私たちは一年以上セックスレスだからだ)

 悠真にとって織江は性の対象ではなく、同居人のようになっており、抱きつくこともなくなっていた。

 彼の下半身は不能ではないと織江は知っている。出会い系アプリで連絡をとり、出張と偽って若い女性と逢瀬を重ねているからだ。

「しつこいから、お義母さんを何とかしてくれない? 最近、毎日のように――」

「うるせえな。だったら、電話にでなければいいだけだろ」

 悠真は仏頂面でテーブルにスマートフォンを置いた。最近テレビ広告でみかけるゲームアプリが起動していた。

(そんなにも私との会話よりゲームが大事なの?)

 という言葉を呑み込み、織江は言う。

「そんなわけにはいかないよ。あなたのお母さんだから」

「適当でいいんだよ」

 悠真の苛立ちは増している。これ以上の会話は無駄だと思い、織江は黙った。


 気分を切り替え、織江は夕食の準備に取りかかった。

 週末なので外食にしたいところだが、最近の悠真は織江と出かけることも嫌がる傾向にある。共に行動することを束縛行為と思っているからだ。

「何、食べたい?」

 キッチンに立つ織江が聞くが、悠真は「なんでもいい」と気のない返事だ。

(リビングのソファーから動こうともしない。今日の夕食も私だけで準備することになりそう)

 織江は嘆息した。

「パスタにするね」

 特に返答がないので、作り置きのミートソースでパスタを調理した。織江はリビングのテーブルにパスタ、サラダの載った皿を並べる。

「ご飯できたよ」

 夫に声をかけると、

「ああ」

 ぶっきらぼうに応え、彼は着席する。

「なんだ、これ?」

「見ての通り、ミートソースのパスタ」

 織江は眉をひそめた。夕食を作ったことに感謝するならわかるが、その言葉はないだろうと思った。

「あのさぁ。俺、疲れているから、もうちょっとマシな料理できないの? パスタを作るにしても、カルボナーラとかさぁ」

 夫のセリフに妻は憤慨する。

「はあ? 共働きなのに、なんでそこまで配慮しなくちゃいけないの! そもそも、『なんでもいい』って言ったのは悠真でしょ!」

 悠真は鼻で笑い、

「なんで、些細なことでイライラしているんだ。俺が言ったのは提案だよ。て・い・あ・ん」

 肩を竦めた。母親の電話の一件で苛立っていたことを忘れているかのようだ。

「だったら、家事も一緒にやろうよ。いつもソファーでゴロゴロしているじゃない」

「俺は男だし、そもそもやり方がわからない」

 織江の反論も虚しく、悠真は逃げの一手だ。

「やりたくないだけじゃない! そんなにもパスタが嫌なら、カップ麺でも食べていて!」

「これだから女は……。すぐに感情的になるし」

 思いやりの欠片もない発言に、織江は泣きながら家をでた。


 *


 **


「なるほど。そんなことがあったのですね」

 纏は柔和に笑った。人を安堵させるような表情だ。

 織江は紅茶を啜る。さきほど「細川太ほそかわふとし」と名乗る少年に淹れてもらったものだ。

(成り行きとはいえ、こんな少女に身の上相談するなんて……)

 纏は不可解な美少女だ。姿は中学生のようだが、身にまとうオーラは老人よりも熟成して達観したものに見える。

(不思議な子……。だから、悠真のことを喋ってしまった)

 織江は無遠慮に纏を見つめていた。

「それで、どうなされますか?」

 そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、纏は聞いた。

「私は、夫との仲を修繕したい。付き合ってから、五年はなんとかできていたので……」

「別れたほうがよいと思います」

 纏の指摘に織江は首を振る。

「嫌です。彼じゃないと嫌なんです」

「そうですか」

 纏が手招きすると、太が筒状の箱を持ってきた。

「これは特殊な時計です。つけてみてください」

 テーブルに置き、纏が箱を開くと、そこには腕時計が入っていた。

 訝しげに織江は腕時計を眺める。一見何の変哲もないが、この場を支配する異様な空気を感じとり、織江はためらっていた。

 纏は微笑む。

「大丈夫ですよ。時計が襲いかかってきて、取って食うわけじゃありませんから」

 織江はおそるおそる手を伸ばして腕時計を取り、時計ベルトを左手首に巻き付けた。別段変わった様子はなく、織江は拍子抜けした。

「この時計は、タイムアンドエラーと言います。一定条件を満たせば、時を巻き戻してやり直すことができる道具です。普段は腕時計として使えます」

 纏の説明に、織江は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。

「えっ? タイムリープできるということ?」

「そうです。この時計に、装着者の血を数滴たらすと、一時間ほど戻ることができます」

 纏は毅然とした態度で言った。欺瞞ではなく、この少女は本心から語っているように見える。

「そんなことが、できるわけが……」

 織江は信じることができなかった。この少女はカルトに入信して洗脳されているのではないかと疑った。

「こちらどうぞ」

 纏はまち針を渡し、言う。

「疑うのであれば、親指を刺し、血液を数滴、腕時計に垂らしてみてください」

 一瞬躊躇したが、織江は針を使い親指に傷を入れる。

「ツッ」

 ちくりとした痛みは注射器に比べればたいしたことはない。

「腕時計のどこでもいいので、血を与えてください」

 言われた通りに織江は血を時計に擦りつけた。

「次に、時計の横にある小さなつまみを少し回してください」

 つまみを回した瞬間、ぐわんぐわんと世界が揺れ、気分が悪くなる。世界は暗転した。


 *


 目の前が明るくなった刹那、

「大丈夫ですか?」

 織江は纏に声をかけられていた。出会いの時と同じで、豪雨に打たれ、うずくまっていた。

「よろしければ、そちらの建物で話しませんか?」

 美少女は一時間前とまったく同じセリフを口にしていた。

(時間が戻っている!)

 織江が唖然とした表情をしていると、纏は彼女の左手を見て気づく。

「あら、その時計は――」


 建物の中に入り、

「この方に、タオルと温かい飲み物を」

 纏は太に指示した。十秒ほどして、彼はタオルと紅茶を運んできた。用意していたのだろうかと思わせる即時対応だ。

「無事、タイムリープできたようですね」

 纏はティーカップを口に運びながら言った。

「ええ。驚きです。こんなこと、本当にあるんですね」

 織江はタオルで髪を拭く。

「気に入っていただけたのであれば、無料貸し出しですので、ご利用ください。期限も特に決めておりません」

「あの、そのことなんですが」

 織江は深刻な表情をした。あるアイデアが浮かび、それを実行したい。

「この腕時計、タイムアンドエラーをもうひとつ、貸していただけませんか?」


 *


 織江は再びタイムリープした。

 まだ悠真と喧嘩していない二時間半前に戻っている。今回は血液を増やしたので、その量によって戻る時間が異なるということが判明した。

「どうした?」

 眼前には帰宅直後の悠真がいた。

「なんでもないよ」

 織江は寝室に行き、スーツを脱いで着替えながら考える。彼と喧嘩をせず夜を過ごし、仲良く布団を共にすることは可能だろうか。

 着替えが終わりリビングに行くと、夫の脱いだ背広や靴下が床に無造作に放置されていた。またかと織江は呆れた。脱いだものをハンガーに吊さない、洗濯籠に入れることもしない。

「あのね。悠真」

 注意しようと口を開くが、強い言葉を使うよりも優しく言えばいいのだとうかと改める。

「えっと、自分の着ていたものは、自分で片づけてくれない?」

「気づいたのなら、君がやってくれよ」

 当然とばかりに悠真は返した。家政婦に接するような扱いが苛立ちを募らせる。

 一度深呼吸をして、やんわりと言う。

「悠真は仕事でも、書類とかを自分で片づけないの?」

「そんなわけないだろ。プライベートの時くらい、リラックスさせてくれ」

 こちらの気持ちなどお構いなしだなと織江は内心毒づいた。

「疲れているのは私も一緒だよ。自分の服は、自分で片づけてくれると嬉しいな」

 織江がぎこちない微笑を作ると、悠真は嘆息し、渋々と背広と靴下を手に取った。駄々をこねる子供を諭すようで、幼稚園教諭のようなパワーと精神力が必要である。

(少しずつではあるが、彼を私の手で変えていけばいい。今からでも遅くない)

 織江は決意した。


「夕食は何にする?」

 織江が尋ねるが、悠真はソファーで寝転がり、スマートフォンを見ながら「なんでも」と気のない返事をする。タイムリープ前に見た光景だ。

 同じことを繰り返さぬよう、慎重に行動する。彼に近づき、スマートフォンを覗き込む。

「ねえ。そのアプリ面白いの?」

「見るんじゃねえよ」

 素っ気ない態度だ。本当に夫を変えることはできるのだろうかと不安がよぎるが、

(私ならできる)

 と織江は自身に活を入れる。

「そんなこといわないで、見せてよ」

「お前、今日、なんか変だぞ」

 怪訝そうな顔で悠真は妻を見つめた。

「そう? なんだか、悠真に甘えたいのかも」

 織江はしおらしく彼の腕をツンツンとし押してみる。気持ち悪いと引かれるかと思ったが、

「なんだよそれ」

 意外にも抱き寄せてきた。

「ねえ。久しぶりに、しない?」

 彼女は目を潤ませて聞いた。

「いや、やめとく」

 素っ気ない返答だ。


 その後、パスタを調理して夕食にするが、喧嘩に発展することはなかった。織江の言動の何かが彼を変え、功を奏したようだ。

(今日は色々とあって疲れた。さっさと寝てしまおう)

 織江はタイムリープの検証を色々としたかったが、明日に持ち越すことにした。


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