嫉心の収め方
放課後。いつも通り先生を待つために日本史準備室へいと急いでいる途中、職員室の前を通り過ぎようとした際にふと先生の声が耳に届いた。
恋とは不思議な魔法だ。どんな雑踏の中でも見つけてしまうし、どんな喧騒の中でもその人の声だけははっきりと聴こえてくるのだから。
開きっぱなしの扉からちらりと中を覗けば案の定先生は窓際の机で大量のノートのチェックをしている所だった。
そのまま見つめているだけでも良かったが流石に職員室の出入り口で中を覗き込んでいる体勢は怪しまれてしまう。いっそのこと中に入って行ってしまおうかと考えていると先生に近づく女の影。宇賀神先生が愛想良く彼に近付いていく。
彼は宇賀神先生と何かを話すと顔を緩ませる。先程まではこんなに遠くても彼の言葉が聴こえていたのに、今は二人の会話が聴き取れない。それでも二人は睦まじく笑い合っていた。
「っ……!」
それ以上見ていたくなくて。私はただひたすらに走った。人目を気にする余裕もなく準備室に駆け込んでソファーにすがる形で崩れ落ちた。
生憎さめざめと泣きじゃくるような可愛い女じゃない。あのままあの場にいたら妬むがままにあの女を殺していたかもしれないから、あの場から逃げたのだ。爪が食い込み握った拳から血が滲み出るが気にならない程に怒りに満ちている。ああ妬ましい。
しかし私が感情に任せて性分のままに行動を起こせば彼を悲しませる結果となる。私が鬼としての本分を忘れられるのは先生のお陰。陰陽師安倍定柵によって生かされているのだ。
がらりと準備室の戸が開く音がする。きっと彼だ。
私のいる場所は資料を収めた本棚によって扉からは陰になっているのできっと彼は私がいることに気づいていない。のそりと起き上がり虚ろな目もそのままに資料棚から顔を出す。
「先生……」
恨めしさ八割、愛しさ二割の表情は彼の目にはどう映っているのだろう。
「うおっ、赤坂! いるならいると言ってくれ。びっくりした……っていつもの可愛い顔はどうした。今にも角を伸ばさんばかりの凄味じゃないか」
鬼は妖力が高まると角が大きく長く伸び、力が高まる。私は赤鬼族なのでそれらに付随して肌も赤くなるのだが、先程少しだけ冷静さを取り戻したので伸びかかっていた角は普段の長さまで治まっている。
可愛いと言われて私の心臓はときめいてしまったがそんな言葉では騙されやしない。少しだけ冷静になったとはいっても、まだまだ嫉心は収めなるつもりはない。
「私がいると都合が悪いことでもあるんですか?……先程は宇賀神先生と随分と楽しそうでしたね」
「ああ、そういうことか。宇賀神先生としてたのはただの事務連絡だよ」
「でもあんなに楽しそうに話してた!」
「それは……」
「やっぱり! 私なんかより新任の女の方がい良いのね!」
わっと両手で顔を覆って俯く。涙は出ないが執心が溢れてくる。
「おいおい。嫉妬は人を鬼に変えるぞ」
「鬼ですけど何か」
「おっと、そうだったな」
先生が戯けるので少しきつめに睨めつけてやれば流石に不味いと思ったのか片手を顎もとまで上げて申し訳無さそうに笑った。
「宇賀神先生だってこんなおっさんに興味ないって」
「おっさんって……先生、まだ二十代じゃないですか」
「世間じゃアラフォーって年齢だぞ……」
「それでも先生は!……定柵は格好良いのに……」
何で誰も分かってくれないのだろうと、知られたら困るのは自分なのに。矛盾した想いがぐるぐると渦を巻く。無意識のうちに彼のYシャツの裾を掴んでいたらしい、彼の眉尻が下がる。
「俺は、万人に好かれようとは思っちゃいないさ。好きな娘が俺のことを分かってさえいてくれれば、それでいい」
彼の大きくて骨張った手が頭の上に乗せられ優しく撫でてくる。
「……それに俺が楽しそうにしてたのは俺に熱い視線を送ってるのに隠れたつもりでいるを視界の端に見つけたからだよ」
「えっ、あの、わ、分かってたの……?」
「あれだけ熱い視線を送られれば誰だって気付く」
「!」
ゆるゆるとした動きだった手が私の横髪を掬い彼の口元へ。彼の瞳と視線が合う。少しだけ熱の籠もったそれに、目が逸らせなくなる。
「ううぅ……定柵のそういう所、ずるい……」
「赤坂魔美さん限定だけどな」
ああ、恋とは不思議な呪いだ。赤鬼族の執心をいとも簡単に収めてしまうし、その人が私の名を呼ぶだけで心臓が止まりそうになるのだから。