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春風はやがて  作者: 海凪 悠晴
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弥生の章(三)

 夏樹がつい昨日卒業したばかりの「母校」である中学校への訪問を終え、家に帰ると、祖母が玄関口に立っていた。

「おかえりなさい、夏樹君。合格おめでとう」

 合格発表の時刻に合わせて、自宅にも合格通知の葉書が届くことになっていた。祖母はそれを見て合格を知ったようだ。

「これ、おばあちゃんからのお祝いね」

 祖母は夏樹に「夏樹君へ」と祖母の字で書かれた茶封筒を渡した。

「それとこちらは竹さんからのお祝いよ」

 竹さんとは近所に住んでいる祖母と同年代のおばあちゃんで、祖母の茶飲み友達のなかでもとくに仲良しの一人である。「竹さん」という呼び方は近所のお年寄り同士でのニックネームである。

 祖母は夏樹に、その竹さんから預かったというのし袋も渡した。「祝 折原夏樹君」と、竹さん本人の名義と合わせて達筆な字で書かれている。今日合格発表があったばかりだというのに、わざわざ前もって用意してくれていたのだろうか。

「あとであんたからも竹さんにお礼言っときなさいね」

 祖母からのお小遣いと、竹さんから頂いた図書券。これで学校に毎日つけていくための腕時計と、前から欲しいと思っていた数学をテーマにした読み物を買おう、と思う夏樹であった。


 時刻は三時半、まだ母親が仕事から帰ってくる時間までにも二時間ほどある。父親は更に遅くまで仕事だろう。

 夏樹の家、折原家は父親がローンを組んで購入したごく普通の二階建ての一軒家である。その家に父方の祖母と共働きの両親、そして一人っ子の夏樹の四人家族プラス猫一匹で暮らしている。

 ここは市街地からはいくらか離れてはいるが、約二十年前から開発されてきた割と新興の住宅街である。その頃に結婚した夫婦などが分譲された土地と住宅を購入するパターンが多かったので、そのジュニア世代である夏樹たちやそれに前後するが比較的歳の近い世代の青少年も近所には多い。

 共働きの折原家。父親は朝から深夜までそれこそ働き詰めだが、母親も日曜祝日以外は毎日朝八時から夕方五時まで建設会社の事務の仕事に行っている。共働きとはいえどそう裕福なわけでもないが、一人息子の夏樹の将来に対して、祖母や両親は大いに期待を寄せており、特に教育費に関しては惜しむようなことをしない。まして、夏樹本人が中学時代にどんどん成績を伸ばしてきたのだから、中学の三年間で家族からの夏樹への期待感は余計に強まってきた。


 家の中に入った夏樹。応接間のソファーの上で丸くなって昼寝をしていた猫にもただいまの挨拶をする。猫はピクリと耳を動かして夏樹を一瞥するも、またすぐに元の体勢に戻る。

 猫の名前は()(タツ)。今年で十歳になるオス猫だ。夏樹の幼稚園最後の年、保護されてもらわれてきた仔猫として折原家に来た虎龍。夏樹も小さな頃から猫が好きだった。仔猫をもらってきたのも、きょうだいのいない夏樹に対する家族のせめてもの配慮だったのだろうか。実際に猫の虎龍は夏樹にとって弟のように可愛い存在であるのだ。しかし、十歳というのは猫としては中年オヤジである。人間の年齢に換算すれば既に夏樹の父親の歳をも超すくらいではある。それはさておき、虎龍にとってみれば夏樹が高校に受かろうが、受かるまいが、といった姿勢でいるのであろうか。


 虎龍に挨拶し終えた夏樹は自宅の階段を上り、二階の自室に戻る。

 「Z高校合格!」

 夏樹の勉強机の上に貼られた直筆の色紙。夏樹は毛筆の書道はそんなにうまくないのだけれど、今年の正月、書き初めの宿題ついでに自分で用意した色紙にそう祈願の言葉を書いて最後の追い込みに臨んだ。そして今日、ついにそれが叶ったのだ。


 さぁ、高校には合格したけれど、のんびりしてはいられない。来る三年後の「大学合格」に向けて、また己との闘いの日々が始まるのだ。どこの大学を目指すことになるのだろう。そもそも、どういう進路をたどりたいのか、将来はどういう職業を目指しているのか。ようやく中学を卒業して、高校入試を終えたばかりでそのあたりはまだ漫然としている。ただ、担任だった武田先生がよく言っておられた台詞を思い出す。

「君たちはまだ若い。中学生であること、ただそれだけで若さというかけがえのない財産を持っているのだ!」

 確か、中学三年に進級して、最初のホームルームから早速聞かされた言葉だった。そのときには次のような言葉も言われた記憶がある。

「君たち一人ひとりに聞きたい。君の好きなことはなんだろう。どうせなら好きなことをして生きていく大人になりたい、と思わないか。それが叶うかどうか、それはまさに今に掛かっている。その可能性こそ若さという財産なんだよ。先生と一緒に中学最後の一年間、頑張ろうじゃないか!」


 ふと一年前の四月の武田先生の言葉まで思い出した夏樹であった。だけれど、夏樹の好きなことは何だろう。一年前に好きだったことは何だっただろう。

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