文月の章(二)
七月十三日月曜日。期末試験も終わり、いよいよ今週いっぱいで一学期の授業が終わる。今週は金曜日まで半日だけの授業を受ければ、土曜日は終業式。夏休みが始まるのである。今学期学校に来るのも今週が最後だから、その前に橋本たちの部活に顔を出してみようかな。夏樹はそう思って昼休みというか放課後、特別教室などのあるC棟と呼ばれる校舎へ移動する。
橋本たちは普段はいつも、C棟三階の物理室で活動しているという。今日はどんよりとしているけれど、蒸し暑いことには蒸し暑い。何せ、エアコンというものは職員室と保健室ぐらいにしかないここZ高校である。夏樹が物理室の前までやってくる。物理室の外の窓も全開にしてある。同じく窓も扉も開いている廊下側から見てもわかるように、七、八名ばかりの生徒が活動している。それぞれがレポート用紙に書き取りをしながらだとか、顕微鏡を感度の調整をしつつ覗きながらだとか、計測器の目盛りに目を配ったりだとか、活動に忙しそうだ。ひとりだけだが女子生徒もいるようだ。
夏樹が物理室の領域の中に「失礼します」といいながら入ろうとする。そのタイミングでレポート用紙から目を上げたのは橋本だった。
「やぁ、折原君。よく来てくれたね」
そこで、「紅一点」の、制服の上からさらに白衣を身にまとっていた女子生徒が、読んでいた本から手を離し、夏樹に声を掛ける。
「はじめまして、ようこそあたしたちの部活へ。お茶でもお出ししましょうか? この時期だからやっぱり冷たいのがいいかしら」
橋本が夏樹に女子生徒のことを紹介する。
「こちら、僕らの先輩の三年生、化学部の部長の桜木香織さんだよ」
「えっ、先輩にお茶汲みなんかさせちゃって、い、いいのですか?」
夏樹は畏れ多くも、といわんばかりにそう言った。
「ええ。本日の部長の気まぐれ、でよければ」
桜木先輩が答えた。「気まぐれ」って。もしや、ビーカーとかフラスコとかに入ったお茶と称する得体の知れない液体が出てくるのではないだろうか……。
それにしても桜木先輩、色白で背が高くスラッとしていて、眼鏡と白衣がよく似合う。「美人」といっても言い過ぎではないかも。準備室の方に向かっていく桜木先輩に目をやりつつ夏樹はそう考える。
「お待たせ。気まぐれハーブティーでございます」
しばらくすると、桜木先輩はマグカップにたっぷりと入った「気まぐれハーブティー」を持ってきた。
「もしかして、得体の知れない液体がビーカーとかフラスコとかに入ってくるとでも思った?」
桜木先輩が突っ込んできた。まさにその通りなのだが、夏樹は「はい」とも言えず。桜木先輩が更に続ける。
「夏だから、たっぷりと水分を摂らなきゃいけないからね。たっぷり盛ってあげたよ。毒とかはないと思うから心配しないでね」
いや、思うから、と言われても困るのだが……。桜木先輩、折角の「美人」なのに随分と変わった人だなぁ。夏樹はそう思った。
「あたしはね、今ハーブティーに凝ってるのよね。人間の心理にリラックス効果を生み出す化学組成が気になる……」
毒とかはない、かもしれないが、こんな状況でマグカップを置かれても。ちょっとリラックスはできないかも。しかし、喉が渇いてもいた夏樹。せっかくのおもてなしなのだし、素直にハーブティーをいただくことにする。毒とかはないと思うから。
桜木先輩が夏樹の対面位置に座る。桜木先輩からは心地よい甘い香りがする。まさか自分で香水を調合していたりするのだろうか。桜木先輩が夏樹に話し出す。
「お茶飲みながらでいいから、お話聞いていいかな? 君が一年生の折原君だよね」
「はい、一年六組の折原夏樹です」
「橋本君からも紹介あったけど、あたしは三年四組理系クラスの桜木香織です。化学部のならされ部長やってます」
「ならされ部長ってなんですか?」
「だって、いつも部活に三年生はあたししか出てこないんだもの。自動的に桜木さん、お願いします、ってなっちゃう」
桜木先輩が続ける。
「あと、あたしたちは、普段は化学・物理・生物・地学の四つの部活合同で活動しているけど。文化祭のときはまた別々に発表会とかやるの。今年も十一月初めぐらいにやるから。楽しみに待っていてね」
三年生。運動部では夏休みあたりでそろそろ引退する時期だが、ここでは十一月の文化祭が終わるまでは引退しないらしい。そのとき窓の外からカキーンという音が聞こえてきた。野球のことはよくわからないけれど、ホームランか何かだろうか。桜木先輩がさらに続ける。
「引退するのはちょっと寂しいなぁ、とくに今年の一年生はいい子ばかりだし。だけど、大学受験だから仕方ないっか。というか、あたしもう来年卒業なのよね」
大学受験。なんともリアルな言葉が桜木先輩の口から飛び出した。そして更に一言。
「今年の文化祭はあたしの引退試合。ハーブティー喫茶を開くつもりだから来てね」
夏樹は自分がその実験台にされたのだろうか、などと思ってしまった。桜木先輩が更に続ける。
「というか、もしよければでいいんだけど。人も足りてないから、あたしらの仲間に入らないかな? 本当は四月じゃないと正式部員集めていないんだけど、先生に相談したら今年は二学期から集めてもいいって」
夏樹は考える。数学もさることながら、理科にも興味はある。今年はまだ学校では化学しか学んでいないが、来年は理系コースに行くなら物理も履修することになる。夏樹は桜木先輩に言う。
「はい、考えておきます。今勉強している化学とか、これから勉強する物理とかにも関心がありますので」
「答えは二学期が始まってからでいいよ。夏休み中にも何度か部活やるから見に来てね」
桜木先輩はそう答えながら、部活の活動案内のプリントと夏休み中の活動日カレンダーを夏樹に手渡す。
そこで、橋本が声を掛けてくる。
「こないだ紹介した堀井君も、秋山君も今日部活に出てるよ。秋山君は、ほら、あそこで録音したラジオを聴きながら、天気図を書いてる。堀井君は今日は実験したいらしくて、二階の生物実験室へ『出張中』だよ」
「へぇ、天気図を書く、なんて本格的だなぁ。すごいことしてるんだね」
夏樹はそう言って、秋山の方に向かおうとした。そこで橋本は夏樹にささやくように言う。
「彼、集中してるから、今は声掛けないほうがいいよ」
「西北西の風、風力三、曇。十六ヘクトパスカル、二十三度……」
公共放送のラジオで毎日定時に放送される「気象通報」、つまりは日本近辺の最新の気象観測データが坦々と流れ行く番組。それをタイマー録音した二十分間のカセットテープ。その情報を取り漏らすことなくプロットすれば、いわゆる「天気図」が完成するのだ。今や古典的な手法かもしれないが、この二十分間の無機質過ぎるともいえる放送を元に、自分で天気図を完成させる「気象通報ファン」も密かに存在するとのことである。
夏樹は生物実験室のほうにも行ってみることにした。堀井がひとりで実験をしている。
「やぁ、折原君だね。俺たちの部活を見に来てくれたのかな」
「うん、今物理室で橋本君とか桜木先輩に挨拶してきたところ」
そこで夏樹は堀井がメスを握りながら解剖しようとしている得体の知れない「生物らしき」ものに目をやった。
「うわぁ、これ何? 解剖してるの?」
「ナマコさ。漢字では海のネズミって書いて海鼠だよ」
「え、でも、確かナマコって食べられるんだよね?」
「ああ、でもひとくちにナマコっていっても、世界には千五百種類ぐらい、日本にはそのうち二百種類ほどが分布してて。食用になるのはそのうち三十種類ほどさ」
「なんかすごいね。ナマコっておいしいのかな?」
「うん、生のまま酢の物とかにしたりして食べることが多いかな。食感もコリコリしてて酒の肴にももってこい、だ」
「ん? お酒の肴?」
「……ん、まぁ、うちのオヤジがナマコで一杯やるのが好きだからな……」
「で、このナマコは食べられるのかな?」
「うーん、ちょっとこれはダメなやつだな……」
こんなふうに会話を交わしていった夏樹と堀井。小学校の途中まで富山県でも外れの方の、海沿いの町で育ったという堀井。田舎であるだけにいろいろな生き物との触れ合いがあって、魚だとか両生類だとかなど海の生物の飼育を家でしていたことがあるという。あとは昆虫にも興味があるとかで、自分はZ高校一年生のファーブルだとかまで言っていた。
夏樹が正直な気持ちを述べる。
「へぇーっ、僕は虫とかが苦手で、とくにこの時期虫が増えるからゾッとしちゃうんだ。小学校の頃から昆虫図鑑を開くのも怖かった」
堀井が答える。
「そんな人もいるかもしれないな。興味とか関心とかなんとかは、人それぞれだと思うから」
生物実験室をあとにして、物理室に戻る夏樹。
「もう一息で梅雨が明けそうですね。ただ、今年の夏は変な天気になりそうでもあります」
無事に天気図を書き終えた秋山が、それを解説している声が聞こえてきた。毎日書いているとその積み重ねで、これからの天気の傾向がすこしずつ解ってくるという。
物理室内を見渡す限り、みんな生き生きとして活動しているように見える。あまり光のあたることのない、どちらかといえば陰に隠れがちな文化部だけれど、そのメンバーは運動部に負けないくらい一所懸命に、そして楽しく活動している。こういうのも青春の時間の謳歌のしかたとして素晴らしいものだよなぁと夏樹は感じる。
二学期から、この生き生きとしている人たちの仲間に加えさせてもらおうか、どうしようか。とりあえず、そのことも選択肢として頭の中に置いておくことにする。
橋本に今日はどうもありがとう、と声を掛ける夏樹。橋本が言う。
「こちらこそ、わざわざ時間割いて僕らの部活を見に来てくれて、ありがとう」
「折原君、そろそろお帰りかな」
そこへ桜木先輩がやってきてそう言った。夏樹は桜木先輩にも声を掛ける。
「桜木先輩、ありがとうございました。また入部については休み明けまでに考えておきますので」
「うん、待ってる。あと、老婆心ながらちょっと言っておくけど。何事も好奇心を持ってやること。日頃の学習についても、部活についてもいえるけど。それが大事なことだよ。そうすれば受験勉強だって楽しくなっちゃう」
桜木先輩がそう言った。夏樹は再びお礼を言って、物理室をあとにして、学校から帰るために生徒昇降口のほうへ向かって行った。




