水無月の章(三)
そして、さらに翌々日、六月十二日の金曜日。
結局、母親の反対で精神科の思春期外来の予約はキャンセルすることになった。悩みがあるのなら、学校でカウンセラーの先生に相談してみなさい、とは言われたものの。
金曜日の六時間の授業が終わった。明日の土曜日はお休みなので、夏樹の心持ちはいつもより軽い。更に掃除が終わったあと、夏樹は保健室に向かう。スクールカウンセリングについて問い合わせるためだ。
思えば、個人的に保健室を利用するのも、今日が高校生になってから初めてだ。もちろん、学校では年度初めには必ず身体測定や健康診断があるので、それで保健室に行ったり、保健室の先生つまりは養護教諭のお世話になることはあったのだが。
中学校でも一年に一度利用するか、しないか、といったところだった。運動音痴だけれど、身体が弱いということはとくになく、風邪を引いたりなどをすることも滅多にない夏樹。中学校三年間での欠席日数はわずか三日。いずれも軽い風邪で、一日で治して学校に出てきた。内申書ではこのあたりプラス要因にはなったのだろう。今週の月曜日と火曜日に休んだのも結局は「仮病」だったのだし。
保健室の前に来る。ドアの前には「在室中です」と書いてあるプレートが掲げられている。その下に一回り小さく「お気軽にお入りください」と書かれている。プレートは羊のマスコットの形をしている。そのマスコットを見ただけで、なんだかここがZ高校の一室とは思えず、懐かしい気持ちさえ覚えた夏樹。まるで「迷える仔羊」である夏樹がたどり着いたのがこの保健室だった、といったような。
軽くノックをして、「はい、どうぞ」という声を聞いたあと保健室のドアを開け「失礼します」と声に出して保健室の中に入る。
養護教諭が応対する。
「こんにちは、どうされましたか」
「あっ、はい、僕は一年六組の折原夏樹と申しますが……」
「ああ、飯泉先生のクラスの折原君、ね。待っていましたよ。飯泉先生が心配してらっしゃいましたよ」
この学校の養護教諭は年の頃三十代ぐらいの瀬尾先生という女性の先生である。まるで「Z高校の職員」とは思えないほど優しくほんわかした雰囲気を持ち合わせているように感じる。話し方もどことなくおっとりと。瀬尾先生は保健室の入り口の羊のマスコットよろしく動物に例えると羊といったところだろうか。髪の毛がそんなふうにカールしてあるからそう思えてしまうのかも。「高校教師」というよりは「幼稚園の先生です」と言ったほうがしっくり来るかのような、だからこそ保健室の先生を務めておられるのかもしれないけれど。そのように夏樹は思った。
「飯泉先生からはちょこっとしか聞いていないのだけれど。あなたが今、悩んでいることがあったら私にでも話してくれないかな」
「スクールカウンセラーの先生と面談してみようと思ったのですが」
「ああ、結城先生ね。結城先生は毎週月曜日と木曜日の放課後に来られることになっているの。予約しておきましょうか?」
瀬尾先生は保健室のカレンダーに目をやって、スケジュール帳を机の上から持ってくる。
「そうね。来週、再来週は予約が埋まっているから……。ええと、来月七月の二日。期末試験の始まる直前になっちゃうけど、二日の木曜日、都合つくかしら?」
そう、七月に入ればすぐに期末試験が始まるのだ。その試験が終わってしばらくすれば夏休み、である。それを思い出しつつ夏樹は答える。
「では、七月二日。お願いします」
「はい、わかりましたよ。当日は授業と掃除が終わったら、なるべく早くここに来てね」
「ありがとうございます」
「七月二日のカウンセリングまでは、まだ日にちあるから。私にでもいいから、いつでも悩みがあったら何でも話しに来てね」
夏樹は保健室の瀬尾先生に対してすっかり信頼感を覚えてしまった。夏樹が更にお礼を言う。
「あ、はい。助かります。ありがとうございます」
「結城先生はね、この学校の事情とかもよくご存知だから。折原君が今悩んでいること、解決とまではいかなくても、心の重荷は軽くなると思うわ。もっとも、結城先生も私もあなたの心の重荷を軽くするお手伝いをするだけで、重荷を下ろすのはあなた自身、あなた次第なのだけれど」
ほんわかとした雰囲気の優しい保健室の瀬尾先生、そしてまだ顔を見ていないが結城先生というスクールカウンセラーの先生。この二人の味方がいれば、高校生活何のその、とまではいかないけれど。安心感を覚えることができる、と夏樹は思った。




