水無月の章(一)
六月九日火曜日。梅雨入り宣言が早々と月初めにもう出てしまっているので、今日もどんよりとした空である。
先週金曜日の五日に行われたクラス対抗の球技大会で散々な失敗をしてしまったと感じた夏樹。それでクラスのみんなから更に軽蔑され、クラスに居場所がなくなってしまっていくのではという気がしたこと、それがかねてよりのいろいろな心の悩みと相まって、土日が明けても学校へ向かう気にはなれなかった。そして月曜日、学校を入学以来はじめて欠席してしまった。そして今日火曜日も。
Z高校では毎年九月に体育祭を行っていて、それが学校の年中行事のうちでも最高に盛り上がるものなのだが、一学期にも六月のしかも上旬の例年では梅雨入り前と思われる時期にもクラス対抗の球技大会を毎年開催している。
球技大会の日は授業はお休み。一日中競技が行われるので、前日には予習だとかもしなくてよく、多くの生徒たちにとっては気楽な日ではある。
だが、いわゆる運動音痴の夏樹にとっては憂鬱な一日だ。球技大会の種目にもせめて卓球とかの個人競技でもあればいいのだが、生憎団体種目のみである。ソフトボール、サッカー、バスケットボール、バレーボール、ハンドボール。夏樹はその中でも負担が少なそうなバレーボールに参加することになった。
球技大会のバレーボール種目。結局、夏樹が足を引っ張るようなかたちで夏樹たちのクラスのバレーチームはトーナメントでの一回戦敗退、であった。こんなことによっても、クラスのみんなからの目が更に冷たくなっていくのだろうか、そう考えると不安でたまらない。
昨日も今日も祖母に頼んで、体調がすぐれないので休ませたい、と学校に電話してもらった。ただの精神的な落ち込みなのでこれはやっぱり「仮病」なのだろうか。
「仮病二日目」の今日は十一時頃に担任の飯泉先生のほうから自宅に電話があった。祖母が取り次いでくれた。
「夏樹君、先生からお電話ですよ」
代わった夏樹に対して、先生が諭すように言う。
「おお、折原か。もう二日も休んでいるようだが、体調の方は良くなったか」
「少し良くなりました。明日には……また出てこれるように……したいです」
「体調が悪いのなら、病院などに掛かったのか」
「いえ、家にずっといます」
「病院に掛かって診てもらいなさい。ただ家にじっとしているのが何日も続くのはよくない。欠席が続いてみんなから遅れを取って損するのは君自身なのだから」
「はい、明日は病院に掛かります」
「明日も休むつもりなのか。今日の午後からでも掛かれないかな。おばあちゃんかお母さんがいるだろう。連れて行ってもらいなさい」
「……はい」
「今日中にちゃんと体調を整えて、明日からまた学校に出てこれるように、してほしい。また遅れを取ると挽回するのは大変だよ」
電話が終わる。夏樹は祖母に昼から病院に連れて行ってもらいたいと告げた。祖母もやっぱり病院で診てもらったほうがいいね、と言った。
昼から病院に行くのを前に祖母と一緒に少し早めの昼食をとった。祖母は納豆オムレツを作ってくれた。ネギを入れたひきわり納豆をオムライスのライスの代わりにしたような感じのものだ。とくに納豆が嫌いな人にとってはちょっと奇妙な一品に思われるかもしれないが、折原家の祖母の味のひとつなのだ。
祖母と一緒に隣町の総合病院にバスで向かう。病院はバスで十五分ほどの場所にある。祖母と一緒にバスに乗って「おでかけ」するのも幼稚園の頃以来だろうか。幼稚園の頃、夏樹は小児病を患ってその総合病院に通院していた時期があった。そのときに祖母にこのようにバスで病院に連れて行ってもらった記憶はあるのだが。
バスが病院に着く。総合病院であるだけに建物も大きく、敷地も広い。つい数年前に建て直しが終わったばかりで建物も近未来的で素敵ではある。内科の窓口へ行き、初診の受付をする。問診票などを書きながら三十分ほど待ったのち、内科医の診察を受ける。医師は男性で、歳の頃は四十代後半か五十そこそこだろうか。ちょうど夏樹の父親と同世代ぐらいだ。ちょっと大柄でふくよかな体格だが、それがかえって誠実そうで人がよさそうなイメージを受ける。安心して診察が受けられそうだと夏樹は思った。
「六度一分、なら熱もない。それにとくに風邪を引いてるとかいうわけでもないね。異状なし。問題ないよ。今日は学校を休んだのかな」
医師の言葉に対し、夏樹は答える。
「はい、土日が終わってから、昨日も今日も休みました。ちょっと金曜日に学校でつらいことがあったもので」
「精神的に、つらかったのかな」
「はい。それに志望の高校に入れたのはいいのですけれど、それからの二ヶ月はいろいろと悩んでいます」
「うーむ。思春期には時々君みたいな子はいるんだよね。せっかく総合病院に来たのだから念のため精神科を受診してみてはどうかな」
「精神科」。内科医から飛び出したこの言葉に祖母も夏樹も驚いた。祖母が内科医に言う。
「精神科、ですか。この子がそんな変わった子ではとでもいうのですかの」
内科医が答える。
「精神科の門をくぐるのに躊躇はされるでしょうね。ですけれども、そもそも思春期というのは人生の中でももっとも心がデリケートな時期で、だからこそ精神面でのケアも必要なのですよ」
内科医は続けて言う。
「心の悩みは早めに周りに打ち明けて、小さくしておくに越したことはないと思うのです。私からこの病院の精神科に紹介状を書いておきますので、是非受診してみてくださいね」
精神科の窓口へ行き、紹介状を見せて予約をする。生憎今日はもう受け入れが終わったのですが、思春期外来のある今週の金曜日の午前中になら予約を入れられます、と言われた。つまりはまた金曜日、学校を休まなければならない。学校を休む口実ができたなんて言い換えることもできるかもしれないが。
医師や受付の職員などにお礼を言い、祖母と夏樹は総合病院をあとにして、またバスで家に帰ったのだった。
「せ、精神科!?」
夕方五時までの勤務を終えてから、スーパーに買い物に寄った後、帰宅した母親。その母親が昨日も今日も学校を欠席した夏樹はどうしていたか、と祖母に訊いたところで、叫び声に近いような驚きの声を上げた。母親が言う。
「夏樹の頭がおかしいとでも言うのですか? もう、トンだヤブ医者だわ。夏樹はですね、私たちの希望の星なのですよ!」
「ですけれどね、ゆかりさん。夏樹君もお年頃じゃないですか。いろいろと悩むことは多いんじゃありませんかの」
祖母がフォローした。ゆかりというのは夏樹の母親の名前である。
「だからといって、精神科はあんまりじゃないの。それに学校もう二日も休んじゃったのに、また学校休んで病院って」
母親がそう言った。続けて夏樹に対して言う。
「夏樹。あなたの学校にカウンセラーの先生っておられないのかしら。夏樹はまだ高校生、精神科なんてとんでもない。悩みの相談は学校でしたほうがいいと思うわ」
母親は夏樹に精神科の診察を受けさせることに反対のようだ。夏樹が答える。
「うん、カウンセラーの先生、非常勤だけどいるらしい。保健室の先生に聞いたらわかると思う」
「なら、その先生に相談に乗っていただきなさいね。あと、もう学校を気軽に休まないで。お義母さんも夏樹を甘やかすのやめてくださいね」
「いやぁ、わたしゃ夏樹君を甘やかしてなんかいませんよ。だけど、かなり悩んでいるようだから、そういうときには休ませてもいいじゃありませんかの」
そう、祖母が言ったが、母親は答える。
「高校の三年間、大学受験を控えているし、誰だってつらい思いをしながら勉強しているのですよ。夏樹だけじゃないの。確かに多感な年頃かもしれませんけど、この時期につらいつらいって悩んでばかりで勉強しなかったら、大人になってからまた別の意味で悩むことになりますわ」
母親と祖母が、お互いの主張を言い合う中、夏樹はひとり二階の自室へと戻っていく。勉強しに、というわけではなかったのだが。自分のことで言い合いになっているのに、なっているからこそ、その場から離れたかっただけなのである。




