弥生の章(一)
一九九八年、平成十年の春。
春分の日を週末に控えた、三月十八日水曜日。
その日はまだまだ余寒はあるけれど、春先のこの時期らしいぼんやりとした晴天の日だった。
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいわれる。彼岸とは春分の日と秋分の日、それぞれ前後の時期のことをいうが、確かに春分の日の前後のこの時期を過ぎれば耐え難いというくらいの寒さはもうやって来なくはなる。
雪国ともいわれるここ北陸の富山の地でも、もうこの時期に積雪するようなことはまずない。雪が降ることさえもほとんどなくなる。なごり雪なんていわれるけれど、冬が完全に終わってしまうのにも、また一抹の寂しさを感じる人も少なからずいるかもしれない。
今日は一週間前に実施された富山県の県立高等学校の入学者選抜学力検査、いわゆる高校入試の合格発表日である。
折原夏樹は中学三年生、十五歳の男子。富山県の中学生である夏樹も今日の高校の合格発表を待っていた。昨日十七日に中学校の卒業式を既に迎えてしまったとはいえど、もちろん身分上は三月の月末までは「まだ中学生」ではある。
夏樹は背丈こそやや高めだが、やせ型なので大柄といった感じは受けない。肌の色はどちらかといえば白いほうだ。全身を眺めてもやや華奢な印象のある彼は体育系というよりは文化系の生徒というイメージだ。髪は短めのいわゆるスポーツ刈りではあるものの、スポーツが得意そうには決して見えはしないのだ。スマートな印象の黒縁のメガネがもう身体の一部といわんばかり彼にくっついているといったところ。やや高めの鼻が彼の黒縁のメガネを支えている。
夏樹は中学校で、約三百人の生徒のいる学年でもトップテンに入るくらいの学業成績を収めてきた。
中学一、二年生の頃は三百人中三十番前後がいいところだったが、二年生の正月を過ぎ、皆が少しずつ高校入試を意識するようになってから、むしろさらに成績を伸ばしてきたのである。もちろん、このことは夏樹自身が学校なり家庭なりで、懸命に学習を怠らず進めてきた賜物でもあろう。
とりあえず、中学校でもトップクラスの成績を収めてきた夏樹は富山県内でも、進路として大学進学を前提としている、いわゆる進学校と呼ばれる高校のうち、自宅からも比較的地理的に通いやすいZ高校に出願し、先週受検したのである。
合格発表は昼の十二時三十分だ。昨日卒業式を終えて、今日から春休み。多少は朝寝坊していていいのかも。けれども、やはり気になる合格発表。夏樹もそわそわして十一時には自宅を徒歩で出た。
高校までの道のりを歩いていく。歩き慣れていない道だけれど、四月からは毎日この道を通学するのかと早速思った夏樹。いや、まだ合格発表はされていないんだぞ。今日掲示板に自分の受検番号「四六」を見つけるまでは。夏樹は自分自身にそう言葉を投げて、まだ「進路未確定」の身分であることを改めて確認した。
歩き慣れない道ではあれどてくてく歩いていくうちに、小一時間ほどで志望しているZ高校に着いた。校舎の正面の時計はまだ正午少し前の時刻を指している。つまり発表時刻まで三十分以上のときがある。夏樹と同じように気になって合格発表に早めに駆けつけている生徒もある程度はいるだろうとは思っていたが、中学生らしき者は二、三人どころですらなく、人っこ一人見当たらないというのは。やはり夏樹が早く着きすぎただけかもしれない。夏樹の先輩となるべきはずの現役高校生たちもまだ授業中のようだ。
発表時刻の十五分ぐらい前になってようやく中学生らしき人の影が集まりだす。親らしき大人と一緒の者もいれば、中学生同士で来ている者もいる。そして、夏樹のように自分ひとりで来ている者もいる。五分前にもなれば夏樹が最初来たときの静寂が嘘のようにガヤガヤしてきた。
そして発表時刻。掲示板に合格者の受検番号が貼られるとともに、我先にと自分の番号を確認するために掲示板に向かって人ヒトひとが殺到する。
あまり雑踏に巻き込まれるのもイヤだからと、気になりはするものの、夏樹は少し遅れて掲示板の前に出ていく。
「四六」も合格者の受検番号リストの中に含まれていた。そう、夏樹も四月からZ高校の生徒になれるのだ。
現役のZ高校生である先輩方も既に昼休みに入ったところである。昼食もそっちのけでかわいい後輩の祝福に駆けつける先輩方も多い。先輩方に胴上げされている中学生もところどころに見られるくらいだ。一方で合格した中学生に対し、さっそく部活動の勧誘やビラ配りをしている高校生も見られる。
「よう、ナツ。受かったか?」
そんな喧騒の中で夏樹を呼ぶ声がした。振り返ると同じ中学から受検した同級生の姿があった。小中学校と夏樹はよく「ナツ」というあだ名で呼ばれてきた。名前のふた文字を取っただけだが呼びやすいのか「ナツ」と呼んでくる仲間は多い。
Z高校には同じ中学からは八人が受けたが、残りの七人は既に合格発表を確認し終えたようで、一箇所に集まっていた。八人のうち一人は女子生徒で、別の一人は推薦入試でひと月前に内定はしていたものの。
「受かったよー」
夏樹がそう答えた。
「おう、これで同じ中学全員合格だな」
「よっしゃー、みんなおめっとー」
「これで胸張って母校に報告に行けるというもんだ」
「なっちゃんが受からなかったら、みんな受からないよー」
夏樹の答えを受けて、他の生徒たちも口々に言った。
一人だけの女子生徒は北村さんという。背の高い夏樹に対して女子生徒としても小柄な北村さんである。夏樹とは北村さんとも幼稚園以来一緒でクラスが同じになることが多かったためか、女子生徒の中では親しいほうである。なにせ、夏樹のことを「なっちゃん」なんて呼んでくれているくらいだから。
桜並木もまだ開花準備中。春霞の中、まだつぼみさえも目立たない。しかし、入学式の日から、この高校に生徒として通学を始める頃には満開になっているだろう。
とりあえず、中学校に八人みんなで報告に向かうためにZ高校の最寄りの駅に向かう。