忘却の隣人。
ある男Aはカウンセラー。学生時代に、ぼんやりとして記憶であいまいだが数人の友達と悪魔との契約の儀式をしてから、“人の記憶を忘れさせる”という特殊能力を授かった。その能力は薄暗闇の中で掌で人のあたまにふれ、エリムエシムと唱えると、人の記憶を忘れさせられるというものだった。
彼はカウンセラーとして大人気だった。何しろ苦しみそのものの原因である記憶を奪ってしまうのだ。だが長年仕事を続けるうちに、ほかのカウンセラーが抱えることのない苦しみにさいなまれるようになる。まるで自分自身が、相談者そのものであるかのような錯覚、あまりに異常すぎる他人の記憶への関心、感情移入だ。というのもこの能力、奪い去った記憶は、奪い取った人間の頭の中に残る。
『苦しい、苦しい』
彼は心療内科に通い、薬をだしてもらわなければいつもけだるく、頭がおもく、やる気のでないというような鬱っぽい症状になやまされた。
ある男BがそのAを助けるために名乗りでた。学生時代からの友人、Bだった。彼も同等の能力をもっているが、A以外にそのことをしる人はいない。そして、Aにかつて自分も“カウンセリング”をうけたので、その恩返しに彼の記憶をすべて吸い取ってやるという。Aはその時になって思い出した。もともとこの能力を得るために悪魔と契約した人間がBとAとあと一人、学生時代の友人たちだったことを。
『俺がお前の記憶を半分消してやるよ、もし耐えられなくなったら、お前にもう一度たのめばいいだろう』
ある休日に、自宅の一部を改装したいつもの仕事部屋に、AがBを招いた。暗い部屋に二人、BがAの頭に手を伸ばす。AはBの掌から光が現れる幻覚をみた。これがいつもの手順である。Aはぼんやりとした光に包まれ、忘れたい記憶を思い出そうとする、次の瞬間、確かに彼は多くの記憶を忘れた……わけではなかった。彼は、たったひとつの記憶をわすれさせられた。“自分が人間の記憶を忘れさせることのできる超能力者だという事”を。Bは、Aが忘れたい記憶と別のものを奪いとったのだった。
実はかつて、学生時代にBはAに好きだった女性の先輩をとられて恨みをもっていた。もともとAとBとその女性の3人は学生時代同じバイト先で出会い、友人になったものの、Aは人に好かれ、いいルックスをしていたために、すぐにBの好きだった彼女を恋人にしてしまった。Bは長年その苦しみをAに隠していたがAに学生時代のその事実を伝えたうえで一度、彼のカウンセリングをうけた。その苦しみを抱えてもらうために、“カウンセリング”をうけて記憶を彼の中にとどめた。そしてその時には今回のようなことを決意していのだ。彼の“能力者である”という記憶を奪いさり復讐する、彼を自分の感じたのと同じ苦しみの奥底へと追いやるという計画を。Bは結局その通りに計画を実行し、Aが能力者であるという事がわかる記憶すべてをうばった。
Bが計画を起こしたその時から、AはBにカウンセリングを受けたという事実のほかには、何を相談し、何を忘れたかも忘れた。ただぼんやりとBにお礼をいって、なんとなく肩の荷がおりたような感覚を抱え、しばらく二人で学生時代のおしゃべりをしたりして、夕方まで和気あいあいと話し、その場をお開きにした。次の日からもAの憂鬱は晴れることなく、Aはカウンセリングによって大勢の人の苦しみきき、自分自身が鬱のような状態になっていた事実、Bの好きな人を奪ったという事実だけを抱えた。記憶をけされたAはその後20年にわたり、自分の能力を使う方法を忘れたまま、幾人分もの苦しみを“カウンセリングでえたもの”と思い込んだまま苦しみ続けたという。
その間彼は自分の恵まれた人生を呪っていた。そして、それが故に他人に感情移入しやすいのだと思い込むようになっていたのだという。まるで自分が聖人のように感じられた。そのせいで能力が目覚めてもBに復讐する気にはなれなかったのだそうだ。