心が豊かだった
もうお金がないんですよね
と、愛にも似た言葉。
干からびた財布の底に染み付いた残り香が
かつてそこにわずかながらあったお金の存在を感じさせる。
稼ごう、という気力もなくなった。
どうすればいいんでしょうね?
彼はそうつぶやくけれども、
誰かが何かをしてくれるとは期待していない。
幸いにも食べるものと住む場所はとりあえずありますので。
そのまま一生を終えてしまうかなあと、ひとりごと。
気力の減衰はよくない。
本当に、なにもかも、
終わりにしてしまうので。
残り香が、なつかしいなあ。
昔はあんなにも
心が豊かだったのに。
☆
小学生の頃だった。
雪道を歩いていた。
学校からの帰り道。
吹雪が視界を遮る。
スリップした車が、
僕の体にぶつかり、
僕は跳ね飛ばされ、
深い雪に埋まった。
しばらくしてから、
おじいさんが来て、
掘り出してくれて、
九死に一生を得た。
そのおじいさんは、
いまはもういない。
☆
架空の猫を飼っている外国人さんが隣に住んでいる。
彼は近くの中学校で英語を教えている先生で、
僕に会うといつもとても流暢な日本語で猫の話をしてくれる。
「先週の日曜日は登山に行きました」
と、彼は話し始めた。
「さほど標高は高くありませんので、日帰りで」
朝のゴミ捨てに行こうとしたところだった。
「まさおも一緒ですよ、もちろん」
まさおは架空の猫の名前である。
「途中で疲れたというのでザックに入れてやりました」
そこで彼は半開きのドアの下を見る。
「まさお、勝手に出てきてはいけませんよ」
そして彼は架空の猫を抱き上げた。
「ああ、呼び止めて失礼しました。まさおに餌をやりますのでこれで」
彼は家に入った。
「ぱたん」
とドアが閉まった。




