【三】
源兵衛が山中で白猿を見たのは、三十年も前の事であった。
それは、当時まだ若かった源兵衛が、その頃はまだ生きていた父親と一緒に山に入っていた時のことだ。
普段は足を延ばさない、谷を二つ越えた奥深い山中・・・澄んだ池のほとりの大樹の陰に腰を落ち着け、やっと仕留めた雉と、携行していた稗や粟で雑炊を作っていた源兵衛が、ふと二十間ほど先の大木の梢を眺めると、鬱蒼と茂った青い葉に見え隠れして一匹の白い猿がじっとこちらを見ていたのだ。
「親父殿・・・あれ、白い猿があんなところに・・・・」
父親も源兵衛の示す方を眺めて、真っ白な毛並みの一匹の猿が微動だにせずこちらを眺めているのを認め、人間にするように深々と頭を下げた。
「こら源兵衛、お前も白猿様に頭を下げい」
理由はよく分からないながらも、若い源兵衛も父親に倣って白猿に頭を下げた。
真っ白な大猿は、二人が頭を下げると何処となく消え去ってしまった。
白猿の姿が見えなくなったのを確認して、父親は静かに源兵衛に言った。
「よいか源兵衛、白い猿は神の御使いなのだ、どうやらわしらは山に深入りし過ぎたようじゃ・・・・もう、この猟は切り上げて帰るとしよう、白猿の御姿を見たら、もうそれ以上は山の奥に入ってはならん、すぐに引き返すことだ・・・わかったな」
源兵衛と父親は、炊きあがった雑炊を食ってしまうと、すぐに猟を切り上げて再び谷を二つ超えてわが家へと戻った。
源兵衛が白猿を見たのはその時が最初で最後であった。
「源兵衛、おまえは伝説とか・・・言い伝えなどというものは信じるか?」
・・・・十郎が唐突に尋ねる。
兵衛は一寸顔を上げて少し考えたが、山で育った朴訥な男である、主人に対して偽りなく答える。
「・・・はい・・・猟師というものは迷信深いものでございますから・・・」
十郎は、彼らしい遠慮のない答えに苦笑しながら、しばしの沈黙の後口を開いた。
「・・・まあよい、ただがエテ公だ・・・早速明日山狩りに出たい。供は屈強な若い者達を十人程用意するつもりだ、兵糧や人足などはこちらで都合するので、お前は道案内だけしてもらえばいい・・・どうだ、気の毒だが引き受けてくれるか」
「十郎様、もちろんでございます・・・この山にも猿共の根城となっている場所が幾つもあるのを存じておりますのでお供させて頂きます」
山役所の領主・十郎が帰った後、源兵衛は囲炉裏で消えかけている小さな火を見つめながらなにかじっと考え事をしているようだった。
「・・・白猿とは・・・ちょっと不安でございますねぇ、なにか嫌な事が起こらないと良いのですけれど・・・」
源兵衛の女房が、先ほど沸かした茶の残りを古びた茶碗に汲んで差し出した。
「うむ・・・白猿は神のお使いじゃ、ましてや大山様のお家にとっては曰く因縁のあるものだ・・・それが、こともあろうにお家に伝わる刀を盗み出すとは・・・・ただのエテ公の他愛のない悪戯であればいいのだが・・・」
「・・・やっぱり、猴神様の・・・・」
女房はそう言いかけて慌てて口をつぐむ、源兵衛はなにも答えなかった。
女房が言いかけた猴神氏というのは、かつてこの山役所の里を永く治めていた豪族だった。
天正の頃の話だという・・・上杉の家来であった現当主・十郎の祖先である大山平四郎が猴神氏を攻め滅ぼし、新たにこの地の支配することになったのだ。
現当主、十郎の七代前の話である。
大山氏に山城を落とされた時の領主、猴神直実は一族郎党を引き連れて山へと逃げ込み、里の猟師も滅多には入らない谷を越えた出羽の山奥に落ち着いた。
言い伝えでは、慣れない山の木の根や蔓に足を取られ、足弱の妻や子供をかばって大山の追手から逃げる猴神直実の一行の前に一匹の大きな白い猿が現れ、まるで道案内でもするように彼等を先導したという。
猿は猴神一族の守り神である。
その猿が窮地に陥っている彼等の前に現われ導いてくれたことに、猴神直実は神慮を感じ感謝した。
そして、かの白猿が導いた、人里から遠く離れた山中に村を作って秘かに暮らし始めたのだ。
・・・しかし、大山の執拗な落ち武者狩りは苛烈を極め、ついに追手が猴神一族の隠れ里を突き止める。
大山平四郎は猴神直実をはじめ一族郎党を全て捕らえ、女子供に至るまで全て首を刎ねて処刑した。
そして、畜生の分際で自分に盾突き、敵である猴神氏の手引をした白猿に激怒し、猟師達に厳命して白猿を探させ撃たせたという。
大きな白猿の死骸は、猴神直実とその一族の亡骸と共に山中に葬られ、後には小さな塚が建てられたのみだったという。
・・・白猿の祟り・・・いや、今の世にそんなことが・・・。
怖ろしい毒蛇や猛獣、急激な天候の変化など、山は人間に恵みをもたらしてくれる一方、死と隣り合わせの世界でもある。
そんな山に生きる猟師は、験やしきたり、山の掟・・・人々が迷信と一笑に付すようなものでさえも・・・そういうものに人一倍敏感なのだ。
源兵衛には今回の白猿の出現が、内心自分の息子のように思っている、この土地の若い領主に何か禍が降りかかる前兆ではないかという不安が隠せなかった。
源兵衛は、愛用の三匁の猟銃の手入れをし、明日の身支度を整えて床に入ったが、普段は気にならない遠くから聞こえてくる奇怪な鳥の鳴き声も、今夜は耳についてなかなか寝付かれなかった。