【二】
この平和な山役所の里に、領主・大山家の家宝である貞宗の名刀を盗んだ賊が出たという・・・しかも、その賊は「人間」ではなく「猿」だというのだ。
源兵衛が、事の経緯が理解できず絶句していると、大山の若い領主はカラカラと笑ってこう続けた。
「・・・・まあ聞け、それはこういうことなのだ・・・」
十郎の話はこうであった。
毎年六月になると、大山家では家に代々伝わる家宝や秘蔵の刀などを蔵から持ち出して虫干しをするのを常としていた。
先日のよく晴れ渡った、朝から気持ちのいい風が吹いていた日の昼過ぎ、屋敷の者が総出で蔵から家宝を運び出し、玉砂利の敷き詰められた庭に筵を敷いた上にさらに三宝を置き、その上に家宝を載せて風を当てていたなかに代々伝わる名刀、二尺五寸の貞宗の刀があった。
筵の上に置かれた三宝に、さらに紫の袱紗をかけたその上に、うやうやしく乗せられた貞宗の刀を、当主の十郎も屋敷の縁側に腰を掛け、近習の侍と一緒に世間話をしながら見守っていた。
大事な先祖伝来の家宝である、虫干しの間は主人である十郎も片時も離れずに番をする習わしなのだ。
・・・・ふと、十郎が厠へ行こうと庭を離れた時の事だ。
「あっ、こらあっ・・・・待てっ!」
番をしていた家来が大きな声で叫んだ。
十郎が慌てて戻ると、一匹の大きな猿が疾風のように庭に躍り出て、三宝の上の貞宗の刀を鞘ごと掴んで山の方に駆けてゆくではないか。
・・・・それは白猿だった、四尺ほどもあるような大猿である!
それが、まるで人間のように刀を引っ掴んで逃げてゆくのである。
「殿っ、猿が・・・猿が貞宗のお刀を!」
既に数人の家来が大声を上げながら白猿の後を追って駆け出している。
「追うのだっ!鉄砲も持ってこい!」
十郎も庭に飛び降りて、麻裏草履をひっかけて腰に帯びていた差料を引っこ抜き、家来たちと共に白猿の後を追いかけ始める。
刀を盗んだ白猿は地を這うように猛烈な速さで逃げてゆき、屋敷の裏の大根畑をすり抜け、笹の生い茂ったやや切り立った崖を軽々と登ってゆく。
十郎や家来たちが畑の畔を踏みつぶしながら猿に追いすがろうとするが、既に猿は彼等をあざ笑うかのように、葛の蔓を伝って二十尺くらいは崖を登っている。
そして鉄砲を持った家来が息急き切って到着するころには、崖の上の笹薮の中へと消えてしまっていた。
「おのれっ、猿めがっ!・・・・」
十郎はすでに見えなくなっている白猿に向かって罵声を浴びせた。
「・・・・と、殿、申し訳ございません・・・・わたくしが目を離した隙に・・・・」
虫干しの際に貞宗の刀の一番近くにいた家来が、真っ青になって膝をつく。
他の若い家来達も、事の重大さに誰もが蒼い顔をしているが、ものに拘らないさっぱりした性格の十郎は家来達を成敗したり、殊更に不始末を責め立てようとはしなかった。
「・・・起きたことは仕方がない。相手は畜生だ、俺もはばかりに立っていたので、その隙を突かれた・・・それにしても畜生の分際で不届きなエテ公だ、山狩りをして家宝の貞宗を取り返すぞ!」
十郎は、悪戯者の猿が、何か目のついたものを手当たり次第に盗んでいったのだと思った。
キラキラと輝く金箔を散らした美しい蝋鞘に、金無垢の金物を施した半太刀拵の貞宗の刀が、日を浴びて輝いているのを見て、物の価値など分からぬ畜生もつい手が伸びたのであろうと・・・。
裏山から猿が降りてきて、屋敷の裏庭に干している大根や柿を盗んでゆくのはさほど珍しい事ではない。
元来、大山の領地の山には猿が多い。
しかし里では、猪や鹿、兎などは食べても猿の毛皮等は決して用いない。
また猟師も猿は決して撃たない、それは大山氏がこの地を支配する以前からの、この土地の習わしなのだった。
「・・・白猿・・・でございますか・・・・」
源兵衛は十郎から事の顛末を聞いて、深い皺を刻んだ真黒に日に焼けた顔を曇らせた。
「そうだ、白猿だ・・・源兵衛、お前は山で白猿を見たことがあるか?」
「・・・いえ、山に猿共は沢山おりますが白い猿などは・・・・」
そう言いかけて、源兵衛はふとなにかを思い出したように囲炉裏にくべていた小さな薪を直した。
「・・・いえ、あります、あります・・・・あれは三十年ほど前でございましたか・・・わたくしの親爺がまだ生きていた頃に山の奥で一度だけ見たことがございます」
「・・・三十年も前か、その白猿はこの度家宝を盗んでいった猿と同じヤツだろうか」
「それはどうか分かりませんが・・・いかに猿の多いこの山里でも、白い猿などというものはそうそういるものではございません・・・」
・・・丁度その日も、今日のような良く晴れた日であった。
まだ若かった源兵衛は、その頃はまだ生きていた父親と一緒に山に入っていた。
もう三日も大きな獲物に恵まれない親子は、猪や鹿の影を求めて、普段は足を踏み入れない二つ谷を越えた山の中腹あたりまで足を延ばしていた。
・・・そこで白猿と出会ったのである。