【一】
「源兵衛、いるか・・・邪魔をするぞ!」
日除けの筵を押しのけて入ってきた良く通る声の主は、萌黄の袴、薄浅黄の羽織を着た颯爽とした若侍だった。
囲炉裏端に座って火縄を撚っていた源兵衛が驚いたように顔を上げる。
「おお、これは十郎様・・・・」
年は五十を二つ三つ超えているだろうか、浅黒い肌、がっしりした体格、いかにも山猟師という風情の精悍な顔をほころばせて、源兵衛が立ち上がって上座に丸茣蓙を敷く。
「おい、お豊、御殿様にお茶を・・・・」
「いや、冷たい水を一杯くれ、さすがに水無月ともなると里の方は汗が出るくらいだ、ここらは涼しくて気持ちが良いの」
「はい、それでもこのところ随分と暑くなってまいりました・・・さあ、お供のお侍様方もどうぞ中へ、むさ苦しいところではございますが・・・・」
源兵衛は家の外で木漏れ日を浴びながら畏まっている供の侍達にも声を掛ける。
この汚い山奥の一軒家を尋ねて来た立派な身なりの若侍、彼はこの一帯を治めている若い領主、大山十郎だった。
出羽の国、山役所という地名が示す通り、ほとんど山間部に位置するこの辺り一帯を治めている大山氏の、数えで二十三になる当主は、源兵衛の女房から差し出された竹筒の水を一気に飲み干した。
「うん、ここらの水は冷たくて美味いな」
「裏の湧水でございます」
源兵衛は、この血気盛んな若い領主を、自分の息子のような優しい表情で見つめる。
二年前に先代が亡くなって当主となった十郎を、源兵衛は赤ん坊の頃からよく知っている。
子供は娘がいるだけの源兵衛にとっては、この地を治める大山氏の若い当主の成長ぶりは、まるで自分の息子のように喜ばしいことに思えるのだ。
この山役所の山中で代々猟師を生業として生きている源兵衛の家系は、領主である大山の屋敷に鹿や猪などの山の幸を納める、御用猟師とでもいった家柄なのだ。
それゆえ源兵衛は、領主の大山家に対し格別の敬愛の念を抱いているのである。
「どうだ、山の方は・・・・」
「はい、今年は猪がよく獲れます、去年は鹿が少なかったのですが今年はどうでしょうか・・・」
「うん、先日屋敷に届けてくれた猪の肉は鍋にして食わせてもらったぞ」
「ありがとう存じます」
使いこまれて黒光りしている板張りの床に敷かれた丸茣蓙の上で足を組み直した十郎が、水を飲んでいた竹筒を側に置いて切り出した。
「実は、今日ここに来たのは、源兵衛、おまえの力を借りたい事が出来したからなのだ」
「猟のお供でございますか、それならば喜んでお供させて頂きますが・・・・」
大山の領主は、たまに山に入って狩りを楽しむことがある。
その際は、この山を知り尽くしており、半ば家来のような源兵衛が領主に付き従って道案内をするのが常であった。
源兵衛は、今回も十郎が狩りに出るので、その供をせよとの仰せなのであろうと思った。
しかし、単に狩りの供という事ならば、当主が直々に源兵衛の所に尋ねてくる必要もない、家来に言いつけて源兵衛を呼び出せばそれで充分である。
源兵衛はちょっと訝しく思った。
そんな彼の表情を見て取ったのか、十郎は笑って続ける。
「いや、狩猟の供ではないのだ・・・」
源兵衛は、少し首をひねる。
「狩猟ではないのでございますか・・・それでは・・・・」
「・・・・山狩りだ」
「・・・・山狩り・・・・でございますか・・・」
源兵衛はその意外な答えに少し驚いたように十郎の顔を見る。
「うむ、山狩りだ・・・実は、賊がこの山中に逃げ込んでな」
「賊!・・・里で盗賊が出たのでございますか?」
大山氏が治めている山役所の地は、その大半が山間部であり、広大な領地の割には人口は少ない。
山の麓あたりで田や畑を耕している領民も朴訥で善良な者ばかりである。
事実、ここ数年は犯罪らしい犯罪も起こっていない土地柄なのだ。
「そうた、賊も盗賊・・・それも天地容れない大盗賊よ、こともあろうに大山家の家宝、先祖伝来の貞宗の名刀を盗みおったのだ」
「・・・ええっ、御家宝のお刀をでございますか!」
長い山暮らしで度胸が座っており、たいていの事には動じない源兵衛もさすがにこれには驚いた。
この山役所の里に、領主の家宝を盗み出す・・・そんな大盗賊が出ようとは俄かには信じ難いのだった。
十郎は大きく頷き、目を見開いて驚く源兵衛の表情を少し笑みを浮かべて眺めながら、さらに彼に向かって謎かけのような言葉を発する。
「・・・・その盗賊というのは人間ではないのだ」
「・・・・に、人間ではない?・・・とおっしゃいますと・・・」
「猿だ・・・・大猿よ・・・・」
十郎は、少し自嘲気味な笑みを浮かべながら、源兵衛の反応を伺う。
「・・・猿・・・でございますか・・・」
源兵衛はあまりにも突拍子もない十郎の話に絶句して、呆けたように十郎の顔を眺めていた。