日常に
確かによく知りもせぬ女性に軽々しく触れようとした僕も問題だったが、それだけではない、どこか憎悪にも似た殺気を感じさせる。
「す、すいません」
僕はお手上げのポーズを取りながら、丁寧に謝り立ち上がった。
「で、何かあるのかい? 用件なら早くしてくれ。帰って観たいテレビがあるんだ」
またそれですか。もう家にいりゃあいいのに。
それにしても今の件で一気に不機嫌になったな。顔がいかにも不機嫌そうだ。目を見て話してすらくれない。
「えーっと」
しかしそう言われても確かに僕は何を話したかったのだろうか。
「そ、そういえば、怪我、大丈夫なんですね。てっきり――その、入院とかしてるとか思ってたんですけど」
いや、死んでいてもおかしくないはずだった。あの爆発のような火炎に巻き込まれていたのだから。しかし手当てだらけの僕と違い、全く、なんら怪我を負っていない様子だ。いや、服の下に隠れているだけなのかもしれないが。
「ああ。まぁあれくらいなら問題ない。火が苦手だから戸惑っていたら、あの人外を見失ったけどね」
「あれって、本当に起こった事、なんですよね?」
「うん?」
「だって、人外とか、そんな突拍子も無いこと言われて、それが目の前で起こって、でも今ではそれが夢だったんじゃないかって、そう思えたりして……」
「別にいいんじゃないか、何だって」
「え?」
「あの時起こった事がなんであれ、結末として君の知り合いは死に、黄泉路蜜は守られた」
「そう、ですけど……」
でも、だから全て見なかったことにしてオールOKとはいかない。
僕はそんなに、楽観主義じゃない。
「君はいつでもどこにでもある異世界を少し覗き込んだだけ。もう体験ツアーは終了さ。君には分不相応だった。大人しく日常に戻りなさい」
まるで赤子を諭すように言う。
「先輩は……本当に黄泉路さんを殺す気だったんですかね」
「ん?」
「どうせなら黄泉路さんのアパートを燃やせばよかったんです。イロさんを誘い出すなんてまどろっこしいことせずに。誘い出すにしても、なんで他のアパートや神社なんかを燃やしたのかわからなくて……何か意図があったのかなって」
「その先輩とやらの気持ちをどう考えるかは、君の自由だろう。答えなんてもう聞けないんだからね。君の望む通り、あの少年は何か別の意図を持っていて、実は善人だった。そう解釈すればいい。何であれ彼は黄泉路蜜を殺そうとし――」
「結末として殺された、でしょ? わかってますよ、そんなこと」
イロさんの言葉を先回りして、そう言う。
そんなことわかってる。でも気になるものはしょうがない。
「そういえばあの後、先輩を追いかけて、黒い人外を見ました。先輩の真紅の鎧と同じような、黒い鎧を。あれも同じ、人外なんですか?」
「知りたいのか?」
「へ?」
「また君は、異世界を覗き見たいのかい? もう次は戻ってこれないと思うよ?」
またその金色の瞳で僕を問いかける。それに見つめられると、言葉が出てこなくなる。
いま暗に踏み込むなと言われている。目の前に見えないラインが一本引いてあるような錯覚に陥る。以前の僕は、無知な僕は、なんのためらいもなくそれを踏み越えた。黄泉路さんのためなどと正義漢ぶって。
しかし。
「いえ……大丈夫です」
そう、断わって僕はあえて足を一歩後ろに引いた。
「そうか。それでいいと思う」
「あの、じゃあ最後に一つだけ聞いてもいいですか?」
「なにが、じゃあ、だ。まるで交換条件とでも言いたげだけど、なにも譲ってないからね。興味を持ったのも、誘いを断ったのも君一人の問題だ」
「言葉の綾です! じゃあじゃあは無しでじゃあ改めてお尋ねします」
「じゃあ聞くだけならご自由に」
「黄泉路さんは、まだ命を狙われているんですか?」
「知らない。でも、ここ数日全く動きがないのを見るに、おそらく手を引いたんだと予測している」
「本当ですか?」
「だからおそらくね。やつらも人手は潤沢じゃない。貴重な人材を3人失って、それでもまだ続けるほど黄泉路蜜の粛正は重要ではないはず。というよりも、黄泉路蜜の周りを取り巻く、私のような存在に気付いて面倒ごとを避けるために手を引いたのだと思う」
僕はそれを聞いて、完全に納得できたわけではなかったが、しかし安心して胸を撫で下ろした。これで、黄泉路さんが命を狙われることは無い。らしい。
「イロさん、あなたは何者なんですか?」
僕の質問に「それ以上聞く覚悟はあるのかい?」と言いたげに視線を返してくる。
はいはい。わかってるよ。僕のような平凡には、これ以上は危険領域なのだ。
平凡は平凡らしく、日常に戻らなければいけない。
異世界体験ツアーはもう終わったのだ。
「ああ、そういえば」
今度はそう、イロさんが思い出したように言う。
「黄泉路蜜には、告白したのかい?」
「え、えぇ?!」
急に俗な話を振ってきたので驚く他ない。
「こ、告白って?」
「ん? だって君はあの子の事が好きなんだろう?」
「ま、まぁ、そうですけど……どうしてわかるんですか」
「ストーカーしていたし」
「ごもっともです……でも、告白は、やめたんです」
「どうして?」
「いや、僕には勝ち目がないから。多分、彼女は僕以外の誰かを好きだから」
「なんだそれは。鼻から無理な話だったってことかい? 君は報われない恋に注力してたというのか。虚しいな」
「そこまではっきり言わなくてもいいじゃないですか……」
こう見えても、ショックで傷ついているんだ。
多分一か月近くは立ち直れない。
「だったらほら、君はあの子のために命を張ってまで頑張ったんだから、それを伝えてあげればいい。そうすれば、あの子の気持ちも傾くんじゃないか?」
「それは……」
そうかも、しれない。ヒロインのピンチを救おうとした主人公。どうしようもなくピッタリのシチュエーションだ。
「でも、僕は結局何もしていない。僕は結局、傍観者だっただけ。それに、それを自分から言ったら余計虚しくなる。卑しい自分が、もっと卑しくなる。そんな気がします」
「ふむ。よくわからんプライドだね。それで影ながら姫を救おうとした兵士として君は自己満足に浸っているわけだ」
「……それでいいですよ。もう」
本当に、もうなんでもいい。
この件に関しては、もう僕は全面的に諦めた。どちらにせよ、救おうとしただけで、救えていないのだから。
「それじゃあ少年。普通を楽しんで」
君は普通なのだから、とイロさんは念押しに付け足した。
イロさんはそれだけ言って、駅とは反対方向、おそらく自分の家に向かって歩き出した。
が、そこでぴたりと立ち止まり、もう一度こちらを振り向いて、
「ああ、そうだ。暗く沈む君に一つだけ教えておきたいことがあったんだ」
「何ですか?」
「心道では、死んだ人間がそのあとどうなると考えられているか、知ってるか?」
「死んだあと……ですか? さあ、検討もつきません」
僕は適当に、本当に一瞬も考えずにそう返答した。
「死んだ人間はね、光になるんだよ」
「……光?」
「そ。光さ。人は光になり、白神のもとに還るのさ。そう、太陽にね」
イロさんはそうよくわからない励ましをくれて、そしてそのまま歩きだす。
「少年。君はあの男の子の分も普通に生きろ。そう、幸せにな」
本当に最後にそれだけを言い残して、彼女はスタスタと歩いて住宅街へと消えていった。
僕はもう何も考えずに、振り返って駅に向かって歩き出した。
いろいろと、納得できないことや、疑問に思うこともあったが、それを全てかき消した。
彼女の言う通り、もう僕は、日常に戻らなければならない。
普通な僕に相応しい、普通の生活に。
だから僕の手に負えない異世界の事を考えるのはよそう。
僕が今から考えるべきは、受験のことであり、明日のことであり、この夏休みに乍や古都とどこに遊びに行くかであり、まだ手をつけていない夏休みの宿題の事であり、今日もまた帰宅が遅くなった理由を両親になんと伝えるかであり。
そして、次の恋のことである。
それ以外の事は、必要ない。
僕の人生には、関係ない。
だから僕は全てを忘れることを決めた。
だって、僕はただの普通の人間なのだから。
ねえ、先輩。
これにて第1章は終わりです。
ここまで読んだ奇特な方。本当にありがとうございました。




