気付いていたはずなのに
大人になると増える。
気付いてないフリ。
人生で初めての喧嘩。
そして人生でワーストの喧嘩。
拳が先輩の頬をとらえた時、思ったよりも固い人間の骨の衝撃に、自分の拳に痛みが走った。
ただ興奮していて、それは一瞬で彼方へと消える。
「はぁ……はぁ……」
殴られた先輩は、予想外にも勢いよく地面に倒れこんだ。初めて人を殴ったが、それでも先輩に避けようだとか抵抗しようだとかそんな素振りは見えなかった。
それとも、喧嘩なんてこんなものなのだろうか。
「僕を利用していたのはいいです。先輩からしたら、赤子みたいに騙しやすい馬鹿ですから。先輩が人殺し集団の一員だっていうのもいいんです。人それぞれ過去はありますから。黄泉路さんの過去を受け入れられたんですから、同じです」
でも。
「でも、だからって黄泉路さんを傷つけることだけは許せません! 目を覚ましてください先輩! 誰がどう見たって、彼女を、人を殺すことは間違ってる!」
「安っぽい説教をするなよ、ジン」
足が一歩、後ろに下がった。
低く威圧するような声。
先輩はゆっくりとした動作で立ち上がる。
そして、僕をにらんだ。
「俺は、黄泉路蜜を粛正して自由を手に入れる。それだけでいい。それ以外はいらない。お前の同情がなんになる? 無価値なんだよ」
それはまるで理性を失った獣のようで。
大山先輩らしからぬ言葉だった。
信じられない。信じたくない。
あの、憧れた大山先輩はどこに行ったんだ。
「あと少しなんだ……受験が終わって、大学に行ければ、医者になれれば……」
「先輩は本当に、それで医者になれるんですか? 自分を、医者だと認められますか?」
「なに……?」
僕の問いかけに、先輩は少しだけ目を見開いた。
「もし先輩が黄泉路さんを、理由がなんであれ殺めたら、先輩はもう、人として死んでる。そんな先輩には医者になる資格なんて無い」
「お前になにが――」
「僕は!」
反論しようとする先輩の言葉を遮る。
「僕はあなたを軽蔑するし、あなたなんかに救われたい人なんていない! 人殺しは、どこまで行っても人殺しです!」
僕ははっきりと、先輩の目を見てそう非難した。強い、咎めるような目だったかもしれない。それを受け取った先輩は悲痛な顔で僕を見て、
「う、あ、ああああああああ!!」
大きく振り上げた拳を、今度は確実に僕の頬にめり込ませた。
それは先の真紅の鎧とやらでは無いとは言え、とても重く、とても痛い。
地面に倒れこんだ僕を、先輩は覆いかぶさるように馬乗りになり、
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ!!」
右、左、と次々に拳が僕の顔や身体にぶつけられる。
そしてがむしゃらに振るうその拳はアスファルトの地面をも殴りつけ、その拳はどんどん赤く、血に染まっていく。
その姿はもはや鬼と呼んでもいい。
「じゃあ俺に、どうしろって言うんだ! お前が俺の立場だったら、どうしたって言うんだ!!」
偉そうに言ってみたものの、僕はそれに対して答えを持ち合わせてはいなかった。
ただ先輩に犯罪を止めてもらうために言った台詞。
何か、先輩の納得できる答えを用意していたわけではない。
「少なくとも僕は人を殺めない! 今からでも遅くない! 村に戻って話し合ってください! 逃げないで下さい!」
「逃げ、る……? は、ははは、ははははははははははは!」
先輩は手を止め、急に、天に向かって笑い出した。
そしてしばらくして笑い終え、
「お前だって、気付いてないフリをして、逃げてることがあるだろ!」
「……僕、が?」
急に何を言い出すんだ。
僕が逃げているなんて……。
「偉そうに人の事ばかり! 逃げるな? お前が言えることかよ……!」
掠れる声でそう言い、先輩は僕の胸倉をつかむ。
その顔は僕をあざ笑うかのような、僕を憐れむような、そんな顔。
「僕が……何から逃げてるっていうんですか?」
「逃げてるだろ? 現実逃避して、わかってるはずなのに、わからないフリをしてる。なぁ、親を殺した殺人鬼に想いを寄せる、可愛い可愛い純情な少年」
「……黄泉路さんは、殺人犯じゃないって、言ってるじゃないですか……」
顔を殴られすぎたのか、うまく口が動かない。
「事実がどうだなんて言ってない。黄泉路蜜は世間では殺人犯として扱われている。どこに行っても、いつまで生きても、あの子は殺人犯というレッテル貼られ続ける」
「違う。そんなことは、無いです」
まるで焚き付けられた火が、ジワジワと燃え広がるように、僕の心が怒りに支配されていく。それを僕は何とか見ないように、気付かないように心を紛らわそうとしたが、僕の中の火は、次第に大きくなってくのを止められない。
「そしてそんな殺人犯に恋をしたお前も、その同類として見られる。類は友を呼ぶ。お前がどう思おうと、世間はその先入観を捨てはしない」
「……そんなことは……」
「お前は優しい男だよ。いつも孤独な殺人犯の女の子を、そんなものは気にしないと声をかけ、デートまで誘って、何も無いように、普通に接してあげた」
そう。でも――
「でも、お前はそこで気付いた。いや、《《初めから気付いていたんだろ》》?」
気付いてない。
やめて下さい。
「気付いていたのに、気付かないように、確信してしまわないように、ずるずると、逃げ続けた」
「やめ、て……ください」
本当に、それ以上は。
「なぁそうだろ? いい加減、現実と向き合えよ。お前の直感は、正しい。俺はお前の話を聞いて、すぐに確信したぞ?」
「やめて、やめ、ろ……」
それ以上は、言わなくていい。
「悲しいな。恋っていうのは、本当に虚しいものだ。お前がどれだけ気を遣ってやろうとも、お前がどれだけ相手を受け入れてやろうとも、そんなものは何の役にも立たなかった。お前一人で盛り上がって、それだけの自己満足だった」
言わなくていいから。
わかってるから。
認めるから。
だから。
もう――
「ジン、お前の想像どおり、黄泉路蜜には、もう――」
「やめろっ!!」
胸倉をつかむ先輩の顔に、思い切りヘッドバッドを見舞った。
それ以上の言葉は聞きたくなかった。
先輩の口を止める方法が、他に思いつかなかった。
でもそのぶち当てた頭が、ひどく痛む。歯で切ったのか、血が一筋垂れてくる。
先輩は僕から手を放して、二、三歩後方へと下がった。
「はは、はははは……やっぱり、わかってるんじゃないか。お前も。そんなお前が、俺に現実から逃げるなって、そう言えるのか?」
先輩の目を見ていられず、僕は視線を地面へと落とした。
「目の前の現実と戦えだなんて、偉そうなこと、言うなよ。逃亡者」
何も言い返せず、僕は握りこぶしを強めた。
ただ解放できない苛立ちだけが胸の中で燃焼し続ける。
「すいま、せん……」
だから僕は謝った。
自分が、こんな普通の、弱い弱い存在の僕が、意見してすいません、と。
僕には、この異常に干渉するだけの能力は無いのだと。
余計なことを言って、すいません、と。
「なぁ……ジン」
すると先輩は静かな声で、そう僕を呼び、僕は背けた顔を向ける。
「それでも俺は、やっぱり、お前が羨ましいよ」
悲痛な、今にも泣き出しそうな、そんな顔。
次の瞬間、先輩が激しくせき込んだ。そして地面に片膝をつき、口元からぼとぼとと血が流れ落ちてくる。僕が殴ったからではないだろう。そこまでパンチ力はない。先程のイロさんとの攻防の傷か、それとも他の何かか。
「せ、先輩……大丈夫ですか?」
「は……お前が気にすることじゃない。力には、代償が伴うものだ」
それはさっき、イロさんもぽつりと言っていた。等価交換というやつうだろうか。
その時、周囲をかろうじて照らしていた電灯や、周囲の家々の明かりがちかちかと点滅した。そしてついにこと切れるかのように明かり消えてしまう。
僕の目が暗順応に適応したと思ったその瞬間、先輩の瞳が大きく剥いていた。まるで飛び出んかというほどに。そのあまりの顔の変化に僕はくぎ付けとなる。
何を見たのか、先輩の視線が左から右へとゆるりと動く。暗がりで僕にはわからなかった。
「そんな」
一転、震える声で先輩がそう呟いて、僕は後ろを向く。
「嘘だ……」
暗い道の向こう。
先輩はその先を見つめている。
目を凝らす。確かにそこに何かがいる。しかしそれはあまりに黒くて、そのシルエットすらつかめない。まるで幽霊のように朧気で。
「先輩? なにがいるんですか?」
「ありえ、ない」
その黒い虚ろな影が、一歩こちらに近づいてきた。
すると同時に、先輩の体が激しく真紅に発光し、その中から再度あの真紅の鎧が飛び出てくる。先輩は激しい炎と共に宙に飛び上がり、屋根伝いに闇夜へと消えていった。
「先輩!」
あっという間に見えなくなった姿。
再度先ほどの黒い影に向かって視線を送る。だがそこには誰もいない。何もない。
先輩は、何を見たのか?
しかも黄泉路さんの家の方向とは真反対に逃げていった。あんなに取り乱す先輩は始めてだ。
「……ああ、もうっ!」
一瞬秒考えてはみたが、このまま家には帰れない。
このまま布団に入っておやすみなさいとは言えない。
ただそれだけの愚かな感覚で、僕は先輩を追いかけた。




