貞操の危機
同性にアプローチされたら困ると思う。
先輩の顔が、次第にほのかに赤く染まっていく。
「これはちょっと、飲ましてたらバレてたかもな。使わなくて正解だったよ。ジン」
「せ、本当に大丈夫ですか? それって、原液のまま飲むもんじゃないんですよね?」
「いいんだよ。どうせ、捨てるんだから」
「で、でも……媚薬、ですよ?」
「ああそうだ。媚薬だ。もうなんていうか、すでにビンビンだ」
先輩からのまさかの下ネタ。
僕はつい座っている先輩の股間の辺りを見下ろしたが、座っていて服が弛んでいるためそれはよくわからなかった。
いや、わからなくてよかったのだが。
「今日はあれだな。眠れそうにないな」
「……大変そうですね」
「大変だ……本当に。前の彼女にでも連絡取ろうかな。久しぶりに」
先輩は苦笑する。それにつられて僕も苦笑した。
「なぁ、ジン」
「は、はい?」
「お前はさ、神様って、信じるか?」
「え、神様、ですか?」
その薬は体がだるくなる効果もあると言っていた。先輩は確かに少しだるそうな、しんどそうな顔つきで、唐突な話題を振ってくる。
「僕は……そうですね。拝むほどに信じてはいないですけど、でもまぁ困った時に祈るくらいには信じてますね」
「ははっ。都合の良い奴だ。でもま……普通はそんなものか」
先輩は力なく笑う。
「どうしたんですか? いきなり」
「ジン。でもな、世の中には神様を本気で信じている人だって大勢いる。人類進化論を真面目に笑って否定する奴だっているんだぜ? 面白いと思わないか?」
「ん……そうですね。海外なんかは、宗教で成り立ってるような国もありますしね。確かに、典型的な日本人としては、不思議でしょうがないですよ。どうして在りもしないものに傾倒し、自分の全てを捧げられるのか、そう言う意味では面白い事だと思います」
「だよなぁ……面白いよな……本当」
先輩は本当に気分悪そうに身体をだらりと前に倒し、顔を地面に向けながら呟いた。
「なんで、そんな馬鹿げたこと、人間は考え出したんだろうな……神様とか、運命とか」
「先輩……? 大丈夫ですか?」
次第に乱れる先輩の息に、僕は不安にそう訊ねる。
「ジン。神様を本気で信じてる人間ってのは、別に外国だけに限らず、この日本にだって大勢いるんだぜ? あるだろ、この街にも教会だとかいろいろ。そう、例えば、この神社とか」
先輩の言葉に、僕は木に囲まれて薄暗い神社の敷地を振り返ってみた。
確かに、そう言われれば、ここも神を崇める場所である。
僕らは知らず知らずのうちに、こうして神様とやらと親密な関係になっているのかもしれない。神様は、いつもそこにいる。
「寂しいもんだよな。神を信じて神に尽くす、なんて。どんな出来事も全ての原因を神に押し付けて、そこで思考を停止させる。良く行けば神の導きだとか、神のご加護だ、とか言って崇めて、悪いことが起きれば、神への忠誠心が足りないだとか、人間は罪を犯したんだ、とか言って逃げて。現実と向き合うことをしようとしない。本当……馬鹿馬鹿しいよ」
先輩はもう、僕に向かって話していないようだった。
朦朧とする意識の中、ただ独り言のようにそう言葉を吐き出す。
「俺はさ、知ってるんだよ。神なんて結局、雑草ほどの役にも立ちやしないって事を。だから……だから、俺は医者を目指した。だってそうだろ? 神に願ったところで、開いた傷は塞がりやしない。神に願ったところで、病気は治らない。結局、人間を救えるのは、人間だけなんだよ」
「……」
「逆に言うと、人を殺めることができるのも、人だけなんだよな、結局」
本当にしんどそうな先輩を見ていられず、僕は先輩の話を止めるようで気が進まなかったが、
「先輩。今日はもう帰って寝た方がいいですよ」
そう言って先輩の肩を掴んで揺らした。
すると、ぐいっと、僕は体を背後に押され、その場に仰向けに倒れこんだ。
僕を押し倒したのは、先輩。今は僕の上に覆いかぶさるようにしている。
顔が赤く、息が、荒い。
「せ、先輩?」
僕は現状の危うさを感じつつ、上ずった声でそう言った。
まさか貞操の危機? あの薬は、性別の壁を越えるほどの効果があるというのだろうか。
「ジン、人はどうして死ぬか、知ってるか?」
「え……?」
「病気だとか、交通事故だとか、殺人だとか、老化だとか、それももちろん当然の死因としてある。でもそう言うことじゃなくて、人は、どうして死ぬようになってしまったか、わかるか?」
先輩の至って真面目な質問に、僕は何も返せず、沈黙を選んだ。
人が、どうして死ぬようになったか? ――質問の意味が、わからない。
「諸説ある神話の中で、人間が有限の存在になってしまった理由は、似通っている。その中で一番ジンがわかりやすいのは、知恵の樹の実の話だろう。知ってるか? 知恵の樹の実の話」
「……確か、アダムとイブが、蛇に騙されて食べる事を禁じられていた知恵の樹の実を食べてしまって、神様にエデンの園を追放された……でしたっけ」
僕は何とか淡い記憶を辿りながら、そう返した。
「そうだ。人間は絶対に食べてはいけないと言われていた禁断の果実を食べた。それで知恵を持ってしまった人間は、神の怒りを買い、下界に追放された。ジン、でもそれはな、物語の一面でしかない」
「一面?」
「そうだ。人間はな、生命の樹と知恵の樹の二者択一から、知恵の樹を選んだんだ。生命の樹の実を食べることは、許されていたんだ。そしてその生命の樹の実のおかげで、人は永遠の命を有することができていたんだ。それを人間がつい、禁じられていた知恵の樹の実を食べてしまったから、エデンの園を追放され、生命の樹の実を食べることができなくなった。その結果、人間の命は限りを迎えるようになったんだよ」
「……そうなんですか、知りませんでした」
「ジン、お前だったら、どっちを選ぶ? 永遠の命か。それとも限りある生か」
そう聞く先輩の顔は、本当に真面目だった。ふざけていない。綺麗事を語るつもりもない。ただ本気の質問。
「僕は……」
僕は先輩の真面目な態度に応えるために、真剣に考え、
「僕は、限りある生を選びます。だって、無駄に長生きしたって、飽きそうですしね」
「でも永遠の生でいる間は、それがつまらないだとか、無駄だとか、そんな知恵も無いんだぞ? それは、幸せなんじゃないか?」
「だったらそもそも僕に、人間にその質問をすること自体、間違いですよ。僕等は知恵を、理性を持っている。だったら、僕らが導き出せる答えは、一つしかない。有意義で、必死になれる、そんな限りある命しか選びようがないです。だって」
だって――
「幸せを感じられるのは、理性ある人間だけなんですから」
「……」
先輩は僕を呆然と見下ろし、がくっと身体を崩して僕に乗るように倒れてきた。
僕は横に位置する先輩の顔を見ることが出来ず、ただ先輩の荒い呼吸と、それに伴って動く彼の胸の動きを感じることしかできなかった。
「だよな。その通りだ」
しばしその体勢でいたあと、先輩はそう言って体を起こし、僕から離れ立ち上がった。
その際、ふらり、と体をよろめかせる。相当しんどそうだった。
あの媚薬がかなり効いているのだろう。
「本当に、大丈夫ですか? そろそろ帰りましょう」
そう言って先輩に手を伸ばすと、先輩はその手を払い退けた。
「大丈夫。家、本当にすぐそこなんだ。だから、心配すんな」
ふらふらと、とても大丈夫そうに見えず、先輩は僕に背を向けて家の方向に向かって歩き出した。しかしぴたりと止まり、ずっと下げ気味だった顔を持ち上げ、
「ジン。叶うといいな。お前の夢。頑張れよ」
「……先輩も、勉強頑張ってください」
先輩は辛そうな顔を無理矢理歪め、にっと笑い顔を作り、それを返事にした。
僕はやはり先輩を家まで送ろうと思ったが、しかし先輩が大丈夫と言った以上、余計に構うことは憚れた。先輩は、そう言う辺りうるさいタイプだ。
だから僕は先輩の身体が曲がり角に消えていくのを確認してから、反転して駅に向かって歩き出した。




